いよいよ今月20日から、1ヶ月に渡るAMTのUSツアーが始まる。AMTとしては1年7ヶ月ぶりのアメリカであるが、最近は対テロ対策でセキュリティーの厳しさも更に拍車をかけている様子なれば、入国時のトラブル等考えただけで、既に憂鬱になってしまう。今年は7月後半から11月末までに及ぶ「死のロード」と云えども過言ではないツアー地獄が待っておれば、溜まりまくったレコーディングは、是非とも今こそ取り組んでおきたい処にして、AMTのスタジオ録音CD4枚組の新譜も完成、その他幾つかのマスターも何とか完成に漕ぎ着けた。一時は「毎週新譜がリリースされる」と某雑誌に書かれた程のリリースラッシュを展開したが、最近は幾分停滞気味にして、ではサボっていたのかと云うとそうでもなく、単にツアーが相次ぎ、レコーディングに充てる時間がなかっただけの事である。否、矢張りサボっていたか。せめて自宅に滞在出来る時間ぐらいはと、最早到底全てを観る事は叶わぬであろうと思われる膨大な量のビデオを悠長にも観賞したり、読む時間のなかった本なんぞ読んだりしていたのであるから。
そんな中、最近「矢部美穂(やべっち)」の虜になってしまった。
そのそもデビュー当時からアイドル然とした辺りに好感は抱いておれど、然して特別心惹かれる訳でもなく、気が付けば実の妹である矢部美佳との衝撃ショット等で一時話題にこそなれど、アイドルのよくある転落劇程度にしか気にしておらず、精々週刊誌に発表されたグラビアを眺める程度であり、遂には告白的官能小説を発表したと伺えど、「アイドルが官能小説を執筆するとは、時代も変わったものだ。まあどうせ話題作りの為の、ゴーストライターによる捏造小説であろう」なんぞと無関心を決め込んでいたのである。されど偶然にもネット上で彼女のオフィシャルサイトにヒット、そこにアップされていたその小説「蒼い告白」サンプル版に目を通すや、どうにもこうにも全編をじっくり読みたくなってしまい、新書版「蒼い告白」(祥伝社)を購入。彼女自身によるセルフポートレート満載(シャワーシーンの写真のみ、妹である美佳の撮影らしい)にして文字も大きい為、全200頁を僅か30分程度で読破。
子供の頃より大の官能小説好きなれば(第61回「宇能鴻一郎に世の光を」参照)、最近の官能小説作家に対する不満は多々ありて、例えそれが女流作家によって書かれたものであれ(そもそも本当に女性なのかさえ怪しいが)、あまりにも「官能小説」と云う枠に収まり具合の良いそれらしい凡百の語彙や表現が並ぶのみで、本来男女の情事に付きまとうまどろっこしい程の「人間臭さ」は、近頃の官能小説に於いては全く不毛とされているのか、殆ど皆無と云っていい程描かれる事もなければ、当然読み手のこちら側にした処で感ぜられる事もなし。それは「フリーセックス」が今や常識と云われるこの御時世故の、大衆から求められての変化なのかもしれぬ。「性のモラル」(とは何ぞや?)崩壊が叫ばれて久しいが、モラルが壊れたと云うよりも、日本人特有の「性に対する美学」が崩壊したと云うべきではなかったか。
海外に於いて「性に対する感覚」がオープンな雰囲気を持つ事に比べ、何故日本人の感覚がそうでないかと云えば、情事にまつわる背徳感からだと云う説もあるが、果たしてそれだけなのだろうか。日本の性風俗も、江戸時代はかなりオープンであったと文献にも残されている上、一方でヨーロッパに於いても嘗て姦通罪があったが如く、背徳感の一語のみでは語れぬであろう。そもそも誰もが、機会さえあれば気に入った異性と肌を合わせたい願望はあるだろうし、と同時に、嘗ての不義密通ならぬ不倫やら浮気等の状況下であれば、矢張り多少の後ろめたさを感ずる事も事実であろう。性行為を「make love」と綴るが如く、直訳すれば「愛を作る」意にて定義されている西洋も、女性が「情けを賜る」と云う意味から「情事」と綴った日本も同じようなものであり、そこに背徳感は見えて来ぬ。されど「秘め事」とも云われる如く、一方で「隠す」美学があればこそ、日本の性文化は斯様に特有の淫美な雰囲気を兼ね備えているのではなかったか。
その淫美さ故に愛してやまぬ日本の官能小説であったが、最近のフリーセックス然とした今の日本に於いては、斯様な美学はどうやら既に化石の如しで、故に最近の官能小説はどうにも中途半端となり、結局はお粗末な紋切り型の性描写に終始するのみである。
さてその矢部美穂の著書「蒼い告白」であるが、先ず述べておくが、これは官能小説にあらず。自伝的部分と他人から聞き知った体験談、そして矢部美穂自身の創作による3要素で構成されているそうだが、これは明かに女性による恋愛観がテーマとなった恋愛小説であろう。赤裸々な性描写も本編の多少なりを占めてはいるが、しかしそれは世間一般で官能小説と呼ばれるものに比べ、圧倒的に淡白かつ稚拙である。稚拙と云うのは、単なる文章力云々の意ではなく、官能小説の真髄である処の、読者の煩悩を刺激し妄想力を掻き立てる、即ち何とも下品にして淫美な世界観が、完全に欠落していると云う事である。通常官能小説とは、大抵中年層辺りの男性をターゲットにしていると考えるべきで、この世界観こそが官能小説と呼ばれる所以の必須要素であるのだから、矢張り「『蒼い告白』は官能小説にあらず」と云わねばなるまい。
一部官能小説然とした表現「熱くたかぶったコルク」「熱く溶けたバター」「敏感なスイッチ」等の隠喩はあるにせよ、「Yのかたまりから情熱のシャワーが空中にほとばしるのを見た」とはありそうでなかった表現、何とも女性然とした描写ではあるまいか。
私の場合、女性の赤裸裸な告白的手記を目にする機会とは、大抵「アサヒ芸能」やら「週刊現代」やらの大衆誌に於ける、「特別体験手記(官能フォト付き)」等と銘打たれた不倫やらのセックスレポートの類いであり、されどここに綴られる文体こそが、私に猛烈に何やら違和感を抱かせるのである。この類いの怪し気な手記こそ、どう読んだ処で男性の手による女性文体そのものではないか。そもそも「ガマン汁」「イチモツ」「クリちゃん」「随喜の涙」なんぞと云った表現、これらは男性サイドからの色単語にして、スポーツ新聞のエロページでこそ見受ける語彙なれば、 たとえそれが赤裸々な性体験の告白と云う場合であれ、素人女性が自らの手記に用いるとは到底思えぬ。
更に描写は常に「如何な行為にてセックスを楽しんだか」に終始しており、これもまた至って男性の視点から捉えられたセックス描写と云えまいか。男性にとって性行為は文字通り「行為」でしかなく、故に自分が行っている性行為自体を、客観的に眺めるもう一人の自分が存在するが、女性の場合はどうやらそうではないらしい。
この矢部美穂の「蒼い告白」を読み終えて初めて知り得た事と云えば、女性は絶頂に達する瞬間に「解き放たれる」感覚を得ると云う事也。彼女は「身体はすうっと落ちてゆくのに、心は空中へ舞いあがっていく。心と身体が離れ離れになる真空の時間。一瞬、私は蒼い空を見る。」「急に頭の中がはじけて、私は、今まで経験したことがないくらい高く、蒼空へと舞い上がった。どんなに行っても、蒼空は果てしなく続いていた。」と、その感覚を表現しているが、そう云えば斯様な事を誰の口からも伺い知る機会もなければ、況してや官能小説を読んだ処で、絶頂に関する斯様な感覚について、女性の立場からこれ程リアルに言及された類いにはお目にかかった事もなし。人生39年、一体どれ程の回数のセックスをしてきたかなんぞ今更到底及び知れぬが、されど斯様な事を想像さえしなかったとは、勿論私は女性であらねば、斯様な体験を出来る筈もない事は重々承知しておれど、全く何とも野暮な事この上なし。
されどこれ即ち男性官能小説家にも当て嵌まる事にして、況して読者である男性諸氏の興味も、女性の絶頂時の心象風景よりも、具体的な行為方法やその折の女性の反応にこそ集中しておれば、当然の結果として、斯様な下りは綴られる筈もなし。男性の哀しい性とも云うべき生殖活動に於ける役割から慮れば、「種付け」故の衝動的発情具合に伺える短絡性、一方で刹那的快感に終始する為か、至って心境は利己的且つ独善的なれば、女性が如何な世界を彷徨っているかと思い巡らせるより、「イカせたか」なんぞと男の空しい尊厳を死守出来たかどうかに終始するが如く、何とも浪漫のない現実的な世界を徘徊しているのがオチであろうか。そもそも男性にとって「愛」と「セックス」は必ずしも一致するとは云い切れぬ故に、官能小説に於いて主人公の男性は、輝かしい女性遍歴を披露し、読者諸氏は羨望の念に駆られるのであろう。
「蒼い空」なんぞ未だ嘗て、事に及んだ際に見た事もなければ、たとえ我が分身1~4億匹を「解き放った」処で、所詮見えるものと云えば、哀しくも散り果てた我が分身の末路か。されど男性から見ればこの無性に空しい光景でさえ、矢部美穂の目には「私の身体中にふりまかれたシャンパンが、あんなに白かったのに、みるみる透明になり、汗のように流れて、消えてゆく。男の子の魔法なのかもしれない。」と捉えられているのである。これこそ所謂女性ならではの世界観、それを顕著に表している部分ではなかろうか。男性にとっては、脈動する部分のみが僅かに余韻を感じさせる程度にして、女性の感ずるこの余韻の深さと長さ、矢張り「母になるもの」なればこそ、天より授けられたプレゼントであろうか。
さて矢部美穂である。アイドル然とした可愛げな顔立ちながら、そこに同居するのは、演出された販売戦略なんぞさえ軽く凌駕する程のナチュラルな「エロさ」と、それを赤裸々に告白しつつも呆気らかんと振舞う乾いた感性。「週刊アサヒ芸能」に連載されている悩み相談室での能天気さ、流石に「え、レイプって暴力なんですか!?」の発言は、到底女性とは思えぬ爆弾発言であったが、「好きな人ができたら、その人を想像で犯しますもん。」と平然と云ってのける辺り、そのセックス観には、まるで高校野球を凌駕する程の「さわやかさ」を感じざるを得ぬ。最新写真集「Love Sex Life」とは、満更真の矢部美穂をそのまま捉えたタイトルやもしれぬし、掲載されているプライベート・ショットの如き自宅での痴態は、彼女の深層心理を具現化してみせたものかもしれぬ。勿論、写真集の作り手サイドによる仕掛けである事は百も承知なれど、その演出は矢部美穂の内包する「エロさ」を表現して余りある。故に、正面から照明がきっちりと当てられた一昔前の写真集然としたピンナップ風写真からは、彼女の持つ「エロさ」は微塵も感じられぬどころか、逆にそこでポーズを取る虚構性ばかりが鼻につく。彼女の持つ「エロさ」とは、その呆気らかんとした「さりげなさ」に起因している事は明白か。
「バカな女ほど可愛い」と云うが、加えて「エロい女ほど可愛い」とも云えよう。矢部美穂は自身のサイトのBBSに、彼女自らレスをつけているのだが、これもまた呆気らかんとしたもので、別冊FRIDAY袋綴じグラビアを見たファンの「美穂さんはプライベートでも氷でひとりエッチしているんですか?」と云う質問に、「ありえないです。氷ですよ。冷たいですよ。(中略)アイデアマンのやべとしてはパンツの上にのせると面白いと思って…(中略)プライベートは普通です。(後略)」なんぞと答える始末。また写真集「Love Sex Life」に於いても、「裸にエプロン」どころか「パンティー被り」「便座で全裸V字開脚」等までやってのける反面、「ニセ乳首」「ニセ陰毛」なんぞと、それまでこちらを散々興奮させておいて、ページを捲っていけばその種明かしにより、見事に見る者を裏切ってみせるしたたかな側面をも合わせ持つ。果たしてそれは本人によるアイデアなのか、さてまたプロデューサーの手による演出なのかは存ぜぬが、このバカげた発想によりヘアヌード・マニア(そんなもんいるんか?と思うがいるらしい)からは「往生際の悪い」との悪評も囁かれておれど、その「バカさ」と「エロさ」をいとも簡単に共存させ得る矢部美穂こと「やべっち」こそ、実は「バカな女」や「エロい女」を装える「したたかな女」ではなかったか。「バカな女」や「エロい女」ほど可愛いのではなく、自分自身の魅力を知ればこそ、そう云った女を装える「したたかさ」を備えるのであろうし、したたかな女の罠とはあまりに魅惑的にして、その才智の前には男の尊厳なんぞ屁の突っ張りにもならぬ。
それ故に、矢部美穂は私を虜にして止まぬのであり、敢えてその甘美にして淫美な罠に自らハマろうと思えてしまうのである。
これもまた男の哀しさか。
(2004/5/13)