海外へ活動の場を求めるバンドが急増する昨今、何やら諸々の相談を受ける事も増えて来た。確かに私は海外にて活動の殆どを行っている訳であるが、それには明確な理由もあればビジョンもある。闇雲に「海外なら」なんぞと、甘っちょろい浅はかな考えからではあらず。
私が海外をターゲットにした事には勿論理由がある。
先ずは、国内での私の音楽に対する需要が、圧倒的に少ない事。海外である程度の支持を得られるようになった現在でさえ、国内での私の音楽を取り巻く状況は、然程変わっていないと実感する。勿論、国内のマスメディアへの表出も皆無なれば、それに対する努力を全く怠っている事も一因ではあろうが、しかし根本的な問題は斯様な事ではなかろう。単純に求めている人が少ない事に尽きようか。CDも売れなければ、ライヴの動員も年に1度のAMT祭は別として、矢張り相変わらずであろう。否、AMT祭とした処で、私の見地からすれば充分過ぎる程の成功なれど、一般的な見地からすれば、決して大成功とは言い難いやもしれぬ。潜在する客層の掘り起こし等行えば、多少は変わるのかもしれぬが、たとえそこまでやったとて、大きな状況的変化は見られぬであろうし、アングラでさえブームが存在する土地柄なればこそ、その末路を想像するはいと易し。そもそも国内マスメディアには、今まで散々と苦渋を飲まされて来た経緯もあり、今更一切信用おけぬ故、頼れるものはと云えば、己れ自身、いろいろ尽力してくれる友人達、そしてCDを買ってくれライヴに足を運んでくれる方々のみであろうか。
そもそも1978年に自らの音楽活動を開始して以来、一度たりとも一般に云う処の「ブレイク」した経験もなければ、それどころか理解される事さえ稀なれば、唯ひたすら自分の音楽を信じて活動し続けるのみであった。されど友人のバンドやらが次第に支持を広げて行く中、矢張り若かったが故に、多少の挫折感なんぞも一人前に味わった訳で、況してや何かしらのバックアップを得て表舞台へ飛び出して行く友人達を見れば、「絶対に誰の世話にもならんど!」と、頑なに自らの手で事を成し得んと決意したものである。パンク/ニューウェイヴ/ノイズ等のシーンが形成されつつあった、あの一見「何でもあり」の時代にして、当然の如くそう云う場所の中で演奏こそしておれど、一向に理解して頂けるどころか、興味さえ示して頂けぬ状況なれば、結局演奏する場所を求め転々としては、我々の音楽を理解して頂ける場所を探したものであったが、結果的には当時のメンバーさえ失意の挙げ句去って行き、次第に私も多少の妥協をせざるを得なくなったのであった。
斯様な経験もあり、私は「自分の音楽を求めている人達の前で演奏したい」と云う想いが人一倍強いのであろう。故に、そういう向きのアンテナもどうやら知らぬ間に持ち合わせているらしく、そして唯一何かを感じ得たのが、たまたま欧米のマーケットであったに過ぎぬ。96年に行われたMusica Transonicでの人生初の海外ツアーに於いて、観客からの熱い反応は「音楽は判らなくても、熱い想いだけは伝わる」と云う事を実感させてくれた。ハードコア且つ前衛的なMusica Transonicの音楽性に対して、されど当時の国内での反応は至って冷ややか且つ批評的なものであれば、斯様な感覚は初めての事であり、大いにショックを受けたのである。今となれば、どうやら欧米の客の反応とは、何を演った処で斯様な具合である事を知っておれば、単に私の独り善がりなお気楽な思い込みであったやもしれぬが、それでも私にとっては初めて「自分の音楽が求められている」と実感した瞬間であったのだ。
その後、AMTを結成し1stアルバムを録音したのだが、当初何か私のプロジェクトをリリースしたいと申し出てくれていたベルギーのレーベルが消滅、そこで知人に「何処か出してくれそうなレーベルはないだろうか」と当たった処、大阪の某レーベルが良いのではないかと彼の推薦もあり、さて音源を送付してみれば、御丁寧にもお断りの電話を頂くに至る。(このレーベルからは、海外でそこそこ知名度が上がって来た頃、「津山さんも参加してるし、うちから出しませんか?」と申し出があったのだが、丁重にお断りさせて頂いたと云う後日談も有り。大体「「津山さんも参加してるし」って、それどう云う理由やねん!)そんな折、PSFの生悦住さんと話す機会が有り、たまたまこの音源の話題となれば、とても興味を持って下さり、そして遂に1stアルバムはPSFよりリリースされるに至る。
されどこの1stアルバム、当時国内では批判的若しくは懐疑的にこそ捉えられこそすれ、全く話題にさえならず、セールスも至って芳しくなかったと記憶するが、英Wire Magazineの「年間ベストアルバム10」に選出され、また阿呆なバンド名と一見日本のアングラ系ジャケットとは趣を異とするあの胡散臭いアートワーク、そしてあの出鱈目な内容の御陰でか、一部でかなりの話題となったらしく、次第に海外からAMTを求める声が聞こえるようになったのであった。そしていよいよ初の海外ツアーを行う事と相成り、されど国内で一度たりともライヴを行った事さえなければ、我々の初ライヴの場はSan Franciscoとなったのである。勿論ツアーのブッキングは海外の友人達の助力もあり、何とか自分の手で行えど、何にせよ一般的には全く無名のバンドである、ギャラもごく僅かなものであったが、されど私は、自分の音楽を求めてくれる人達の前で演奏出来る喜びで、もう充分満足していたのであった。欧米のライヴハウスのシステムは、日本とは大きく異なり、安い入場料故に誰もが気軽にライヴに足を運べる為、動員は日本のそれとは比較にならぬが、逆に云えば「何か面白そうだから」「日本から来たバンドだから」なんぞと云う理由ならまだ良い方で「行けば会場で友人に会えるから」と云う理由まで充分あり得れば、決して我々の音楽の内容が目的ではない場合が重々にして多かった様子。しかし何はともあれ金を払って我々の演奏を観に来てくれたのであるから、我々に出来る事は、全身全霊にて自分達の熱い想いをぶつけるのみなれば、結果的に多くの客は大層気に入ってくれた様子にして、終演後の物販も至って好調であった事がそれを幾らか証明している。
されどこの程度まで、所謂「海外ツアー敢行」なんぞと云う、国内活動に対する「箔付け」若しくは自己満足のレベル程度ならば、飛行機代と時間、そしてちょっとした人脈と行動力さえあれば、誰もが実現出来よう。それは海外からのCDリリースも同義であり、大小無数の自主レーベルが存在する昨今、況してこのインターネット時代なればこそ、出す気になって探してみれば、何処かひとつぐらいアルバムを出してくれるレーベルなんぞある筈である。「海外からのCDリリース」「海外ツアー敢行」なんぞとは、日本の多くのバンドが長きに渡って目指して来た「メジャーデビュー」なる陳腐なひとつの到達点にして終着点と、今やまさしく同義語に成り下がっているどころか、否、メジャーデビューの方が余程厳しい道なれば、より安易な道と云わざるを得ぬかもしれぬ。生憎私の人生に於いて「メジャーデビュー」が最終目的ではなかったが故、かれこれ十年以上も前の話となるが、当時日本のメジャー4社からのオファーを諸条件に同意しかねると一蹴した経緯を持つ。今や国内に於いては、メジャーどころかPSF以外の自主レーベルからさえ、何のオファーも来ぬ状況であるが、これは一重に「求めている人」が殆どおらぬと云う事を代弁しているとも捉えられれば、自ずからリリースは、次々とオーファーして来てくれる海外の弱小レーベルと相成って当然であろう。
私が海外の弱小レーベルから作品を連発するには、それなりの理由がある。
ひとつは、単に私の音楽を求めてくれていると云う、単純且つ明解な理由にして、自らのレーベル紛い等とは一線を画す歴としたレーベルより長きに渡り作品をリリースする機会に全く恵まれなかったが故の、オファーして来てくれたレーベルへの感謝の気持ちから、だからこそ決して「No」とは云えぬのである。
もうひとつの理由は、当初PSFより作品をリリースしていたが、確かにPSFは海外に於いて最も信用のある日本のレーベルにして、流通もされておれど、所詮は輸入盤扱いとなる故、小売単価は時折法外な高値なれば、嘗てLondonのタワーレコードにて自分の作品を見つけた折なんぞ、CD1枚が何と約20ポンド(約3800円)であり、多くの人に「君の作品は、高過ぎてそう易々と購入出来ない」とこぼされ、幾らPSFの作品が海外で流通しているとは云えども、矢張り値段が高い故か所詮流通枚数は知れており、「より容易に見つけられ手軽に買える値段で売られる」事に重きを置けば、結局その国の国内プレス盤でリリースする事が最善の道と感じたのである。
されどイギリス盤ならば、結局アメリカやその他の諸国に於いて、矢張り輸入盤でしかなく、たとえ小売価格は問題なくとも、流通に関すれば所詮弱小レーベルのディストリビューションである、矢張り自国以外での流通は困難を極め、ならばと思い立ったのが「全ての国のレーベルからせめて1枚ずつリリースする」事であった。さすれば世界中の誰もが、最低1枚は容易に安価で我々の作品を手にする事が出来よう。一見暴挙のようであるが、確かに通常のロックバンドが年に何枚もスタジオ録音の新譜をリリースしたりせぬであろうし、現実問題として不可能と思われがちであったが、AMTの音楽の成り立ちの経緯上、その点は難無くクリアされた故、斯様に作品数が多くなった次第。
最近、海外のミュージシャンも「Acid Mothers Style」と云っては、矢鱈と作品を乱発するような傾向にあるが、単に作品を乱発する彼等とは大いに志しが異なる。もし仮に、全世界規模で素晴らしい流通経路を持つ大手のレーベルから作品をリリース出来るならば、1年に1枚の新譜を作れば充分であり、勿論ミュージシャンとして、より多彩な作品をいろいろ発表したいと云う想いはあれど、これ程斯様な苦労はせずとも良いのである。最近海外で「何故AMTは大手のレーベルから作品をリリースしないのか?」と尋ねられるが、答は明瞭、哀しいかな、オファーが来ないからである。大抵大手のレーベルは、他のレーベルから作品を乱発される事を嫌がる故、我々に対する心象は至ってよろしくないのであろう。ライヴのポスターなんぞでも、バンド名の後にレーベル名が記載される事多ければ、AMTについては、嘗てはPSFと書かれていた時期もあれど、今や何も記載されぬ有様。これはヨーロッパに於けるブッキングにも影響し、特にヨーロッパのブッキング・エージェントは何故か、ヨーロッパ内の1箇所のレーベルのみから作品をリリースしておらぬと、どうにもブッキングしたがらぬらしく、御陰で今でさえヨーロッパのブッキングに関しては、私が直接ローカル・プロモーターやライヴハウスと各々交渉せねばならず、これが大層な労力と時間を費やすのである。されど「出来る限り自分の手で」がポリシーの私なれば、それもまた当然の事と受け止めるしかあるまい。何せ誰かの大きなバックアップやサポートに依存しておれば、いざと云う時に何も出来ぬ事になろう。今まで多くの斯様に悲惨な例を見て来ておればこそ、我々のスローガンは「D.O.A. (Don’t Trust Anybody)」であるのだ。
では海外ツアーを行ったから、海外からCDをリリースしたからと云って、一体それが「なんぼのもんか」と云えば、「なんぼのもんでもない」のである。結局は国内をツアーしたり、国内のレーベルから作品をリリースする事と、大した違いはないのである。唯単に「海外」と云う何とも魅惑的な幻想に踊らされているのみ、また「海外ツアー敢行」「海外よりリリース」なんぞと云う情報に、リスナー側も大いに踊らされているに過ぎぬ。そもそもこれは、日本の音楽産業界が長きに渡り、そして今現在でさえも抱えているコンプレックスに因るのではなかったか。嘗て矢沢永吉やら松田聖子をアメリカのマーケットへ売り込もうとして失敗、一方で古くはフラワー・トラベリン・バンドに始まり、サディスティック・ミカ・バンドを経てYMOやラウドネス等、欧米にて有名バンドの前座を務め、海外レーベルとの契約に到るような多少の成功を収めた前例もあれど、それらはどちらかと云えば、日本のレコード会社が仕掛けた商業戦略と云うよりも、バンド自らの意志と行動力に因る結果なれば、今になり漸くアジアのマーケットへ進出、そして今度は宇多田ひかるの全米デビューやらで躍起になっておられる日本の音楽産業界、いやはやお粗末極まりなし。結果的にアングラに於ける海外のネットワークの方が、逸早く確立されていた事は、何とも皮肉な話ではないか。「日本を代表するロックバンド(誰やこんなコピー付けたんは!)アルフィー、Londonのロイヤル・アルバート・ホール公演決定!いよいよ海外進出!」結局同時多発テロの影響でキャンセルされたらしいが、ロンドンっ子の誰がアルフィー知ってるねん!どうせ客の殆どは日本から連れて行くのであろうし、されどロイヤル・アルバート・ホールで公演する事こそが、アルフィーの日本国内に於ける販売戦略の一貫として重要な事柄なのであろう。結局日本国内に於いて「海外」とは、所詮斯様な戦略上の一手段にしか過ぎず、本気で欧米マーケットに進出する気もなければ、その自信も持ち合わせておらぬであろうし、また本気で海外進出する気ならば、当然支払わねばならぬ犠牲もあるだろうが、打算的に考察すれば得策にあらずと云った処なのであろう。
2002年のUSツアー中、Austinにて毎年行われているSXSWフェスティバルに出演した折も、我々は通常日本人ミュージシャンが出演する「Japan Night」には出演せず、欧米のバンドと同じステージに立っていた為、日本の音楽雑誌各誌によるSXSWライヴレポートには、当然AMTの名前さえ掲載されておらねど、現地の新聞による「Best Live Act 2002」のベスト3に挙げられていたのは、我々にとってまさしく痛快な逸話。この街中のクラブと云うクラブにて、数日間に渡り何千と云うバンドが演奏するとんでもないフェスティバルSXSW(Sounth By South West)、斯様な状況下に某クラブで行われる「Japan Night」の注目度なんぞ一体どれ程のものなるか。されど国内音楽誌のコメントを引用するならば、「彼等の音楽は大いにアメリカの聴衆に受け入れられ、これを契機に海外進出を目指して欲しい」この文章を目にすれば、まるでこの先にアメリカンドリームが、手ぐすね引いて待っているようではないか。世の中そんなに甘くはないで。
結局我々が欧米にて行って来た事とは、まさしく日本国内の状況にて行われている事と、何の違いもないのである。自分の手でブッキングし、どさ回りのようなツアーを繰り返し、CDをリリースすれば、再びプロモーションを兼ねツアーを行う。これが一体どう特別な事なのか。確かに客の反応が頗る盛り上がっているかの如きなれば、国内でのお通夜の如き静かな反応とは大いに異なる故、一瞬過信してしまいがちではあるが、嘗てかなり前衛的なサーランギ・ソロに於いても、矢張り異常な盛り上がりなれば「お前らホンマに聴いてたんか?」と、思わずその反応そのものに懐疑的にならざるを得なかったのである。欧米と日本では、どうやら「楽しみ方」が大いに異なる様子なれば、国内の下手すれば批評的でさえある聴衆の反応の方が、欧米の闇雲に盛り上がっている様よりも、より信用出来る場合さえある。勿論たかがロック、楽しみ方は大いに自由なれど、されどロックである。我々はダンスパーティーのパーティーバンドにあらずして、故に一概に皆が踊り狂っている様を見受けた処で、その反応自体を鵜呑みにする事は至って危険であろう。
なればこそ我々は、絶対にライヴで手を抜かぬ事は当然にして、「1ステージ完全燃焼」を掲げ、「熱い想いは必ず伝わる」と信じ、たとえツアーの収支が大赤字となろうとも、魂を削ってまで演奏して来たのである。
よく「海外でブレイクしてるらしいですね」と云われるが、確かに自分達の知らぬ間に、今やチケットはソールドアウト、CDも国内では考えられぬような爆発的枚数が売れたりこそすれど、しかし斯様な状況が永続するとも思えぬし、いつかはまた悲惨な憂き目を見るやも知れぬ。されど斯様な事は我々の関知せぬ次元の出来事であり、我々がやるべき事は、我々の音楽を求めてくれる人達がいる限り、その場所へ出向き演奏したいと思うのみ、そして唯ひたすら良い演奏をする事で、金を払って観に来てくれた人々に楽しんで貰う事のみ。
されど勿論物理的に距離や時間の限界もあればこそ、全ての場所にて演奏するなんぞ到底叶わぬ故、せめて世界中に対しフェアでありたいと思えばこそ、New YorkもSan FranciscoもLondonもParisも年に一度しか演奏出来ぬのであるから、国内も年に一度で充分であろうと考える次第。ツアー先で「AMTを観る為に片道400kmを運転して来た」なんぞとはよく耳にする話なれば、名古屋に於けるAMT祭に於いても、九州等の遠方からわざわざ来て下さる御仁も多数おられ、大変有難い事この上なし。
海外である程度の成功を修めた方々は、「でもやっぱり国内で売れないと…」と声を揃えておっしゃられる。確かにランゲージ・バリアの存在せぬ国内での活動の方が気楽であろうし、CDにせよライヴにせよ単価が高額故、勿論同じ枚数が売れるならば、国内の方が金にもなるであろう事は間違いあるまい。また食事で苦労する事もなければ、退屈極まりない長時間フライトも不要にして、2日半ひたすら運転しなければならぬ長距離ドライヴもあり得ぬ話。
されど私は単に「求めてくれる」人達へ向けて活動のスタンスを取ろうと思えばこそ、国内もしくは海外にて「売れる」「売れない」なんぞ、私がどうこうする事でもなければ、否、どうこうした処で何の力も及びはせぬであろうし、それは私の仕事の範疇でもあるまい。私の仕事は、私の音楽を「求めてくれる」人達へ向けて演奏し続け、作品をより手の届き易い処へプレゼントするのみである。
大いなる野望を抱いておられる御仁も、それはそれで宜しかろう。されどそれ以前に、自分の音楽を求めてくれる人達への敬意を忘れてはならぬと知る。彼等あってこそ、初めて全てが始まるのであるから。
それにしても欧米での食生活を楽しむ余裕がある御仁については、全くもって羨ましい限りなり。パン、チーズ、ハム、パスタ、中華、パクチーが苦手な私からすれば、これぞまさしく地獄の責め苦以外の何ものでもなし。されどレコードを買い漁ったり、女の子を口説いてみたり、実はそれなりに結構楽しんでいるか…。
(2004/9/5)