<特別編 AMT TOUR 雑記2002> 第70回「憧れのLas Vegas、そしてLAの青い空」

『人声天語』  人声天語特別編 AMT TOUR 雑記 2002 其の壱:USA & CANADA編


第70回「憧れのLas Vegas、そしてLAの青い空」

10月22日、朝8時起床。昨夜の賄の残りのタイカレーにレトルトカレーを合わせて一気にかき込む。カレーはいくら食べても然程食い飽きぬ優れもの。久々のフライトに向けてのパッキングを慌ただしく済ませ出発。空港でレンタカーを返却し、無事にチェックインも済ませる。Denver経由にてLas Vegasへ。フライト毎に1時間ずつ時差があり、つまりここMinneapoliceとLas Vegasでは計2時間の時差がある事になる。2時間のフライト2本ではあったが、久々のフライトは大層疲れるものであった。

Las Vegas空港にて迎えを待っておれば、AMTのチラシを旗印にした謎のサンドウィッチマンが登場。それに続きオルガナイザーのJoeとDavidが現れる。Joeは見るからにアホなアメリカ人、Davidは寡黙な知性派と云った処か。Joeのカーステからは、ウルトラ大爆音でガレージサイケが流されている。彼等の家に着いてみれば、そこはバーカウンターとネオンで飾られたステージがある自宅ラウンジ「Chez Bippy Lounge」であった。

風邪もほぼ回復した東君は、何を隠そう「自宅バーカウンター」が夢であり、一気に盛り上がる。更に庭にはプールもあれば特大BBQセット、更にはブラックジャックのテーブルまであり、そして部屋は一体幾つあるのか、とんでもない豪邸である。冷蔵庫は膨大なビールで埋め尽され、先ずは荷物を降ろし、ビールを飲む事に。津山さんはこの寒空の中、無謀にもいきなりプールに飛び込むや、夘木君も続くが寒さで泣きが入り、津山さんより喝を入れられる始末。Joeはいきなり大爆音でGongをターンテーブルに乗せる。こいつは久々に会った真のアホである。一服していると、Davidが中古レコード屋に連れて行ってくれると云う。私と津山さんは「レコード屋」と聞いただけで、既に脳汁絶賛分泌中であり、Cottonを従えてレコード屋へ。脳汁分泌過剰状態の津山さんは、もう見境なく「かすコーナー」を荒らしまくり大量に「かすレコード」を購入。私もかなり良い買い物が出来た。明日もまた別の店数件に連れて行ってくれると云う、Las Vegasのレコード屋は掘り出し物が多く、かなりの期待が持てそうである。帰宅すれば東君と夘木君は爆睡中、庭ではJoeが特大BBQセットで超特大ステーキを数枚焼いている処で、これがまた1枚優に1~2kgはありそうな、ステーキと呼ぶよりは「肉塊」とでも呼んだ方が相応しい代物なのである。更にこのステーキ以外にも、チキン数羽が美味そうに丸焼きにされている。この特大ステーキの焼き上がりが待てぬ津山さんとCottonの両名、台所に既に用意されていたマッシュポテトを皿に盛り付け、今や遅しとその皿を持って待機すれど、Joeに「Don’t rush!」と嗜められる。漸く焼き上がるや、一斉に飢えたハイエナの如く、ステーキに群がる我々3名。これは美味い!久々に肉を食いまくる。我々3名でチキン1羽と2kgはあろうかと云うステーキ2枚を完食。肉の匂いに連られたか、少々遅ればせながら起きて来た東君も、いきなりステーキに食らいつく。最後に起きて来た夘木君は、丁度最後に残った最も特大サイズのステーキ1枚完食に果敢にも挑戦。されど3/4まで食べた辺りで「明日へ続く」と断念。腹もいっぱいとなり、ソファに寝転がりテレビを観ているうち、夜のLas vegasへ繰り出そうと思っていたにも関わらず、不覚にも熟睡。

10月23日、昨夜不覚にも11時頃に就寝してしまった御蔭で、深夜3時に目覚め、シャワーを浴びパスタを食し一服。するとJoeが5時頃に起きて来て、「仕事」だと云い慌ただしく外出して行った。斯様に朝早くに出勤とは、一体何の仕事なのだろうか。あの風体から、爽やかに新聞配達(アメリカにあるのか?)と云う事もあるまい。Davidがブレックファーストと云って、大量のハンバーグとパンケーキを作ってくれる。昨夜は膨大な量のステーキとチキンを食い、今度は朝から大量のハンバーグ、こいつら一体いつ野菜を食うのであろう。9時にレコード屋がオープンすると云うので、津山さんと東君共々Davidに連れて行ってもらう。結局2件を巡り大量に購入、到底これは持ち帰れそうにない量なので、今宵クラブにて再会する筈のEclipse RecordsのEdに頼んで、日本へ送ってもらう事にしようと決意。一旦Joe宅へ戻ると、丁度Joeが仕事から帰宅。朝早くから出勤していたが、一体何の仕事をしているのかと尋ねれば、「中学校の教員」との答え。これには全員驚愕と云うよりただ呆気に取られてしまった。このド阿呆が教員とは、一体Las Vegasとは、アメリカとはどんな所なのだ。「うちの学校には可愛い女の子が2000人もいるんだぜ」と自慢げに語るJoeであったが、何を考えているのだ。第2次世界大戦で日本が敗れたのも頷ける。アメリカは矢張りとんでもなくアホなのである。何しろWWEやローラーゲーム発祥の地なのである。この不毛の砂漠であったLas Vegasを、世界に名立たる一大歓楽都市にしてしまった輩共である。そして何よりこの阿呆共の国が、現在世界を牛耳っているのであるから、世界情勢なんぞ到底深刻に考える事さえ無駄のような気がして来るではないか。

さてギャンブラーである東君と津山さんは、当然カジノへ繰り出したくてウズウズしており、結局東君がDavidに車を貸してもらう事となり、いざLas Vegas観光へ。されどガイドブックの類いなんぞ持ち合わせておらぬ我々一同、何やら目立つタワーを見つけるや、きっとそこら辺りに何かあるだろうと、得意の出たとこ勝負で、取り敢えず唯ひたすらそのタワーを目指す。辿り着くや、そのタワーは案の定ホテルとカジノであり、東君、津山さん、夘木君の3名はカジノ組、私とCottonはLas Vegas観光組と別れる。ガイドブックも持っておらねば何の観光知識も持たぬ我々両名、先ずはLas Vegas最大級の土産物屋と自称する巨大ギフトショップにて、ポストカードやら観光マップを眺め、観光ターゲットを絞り込む。Cottonのお目当てはエッフェル塔と自由の女神、されどエッフェル塔と自由の女神のポストカードを見た処で、我々がついぞ先程まで居たタワーは写っておらぬ、と云う事は、ここからかなりの距離があると推察出来る。他のカードを見てみれば、遥か彼方にタワーが写っており、どうやらここからは真直ぐ一本道のようである。カジノ組との待ち合わせまでには相当の時間がある為、観光気分を満喫しながら、徒歩でエッフェル塔と自由の女神を目指す事に決定。途中の土産物屋にて、しょうむないもんを買い漁り、カジノでスロットマシーン等で遊びつつ、歩く事かれこれ1時間半、ここで漸くLas Vegas歓楽ゾーンの入り口らしき海賊船まで辿り着く。急に観光客数もグッと増え、如何にもLas Vegasと云わんばかりの雰囲気である。どうやらあのタワー、歓楽ゾーンから遥か離れた場所に聳え立っているようだ。しかしこれにてタイムオーバー、待ち合わせの時間にあのタワーまで戻らねばならぬ故、次回はこの海賊船から向こうを探検しようとCottonと約束。せめてエッフェル塔か自由の女神は見えぬものかと、この海賊船カジノのビルを上ってみるが、矢張り全く見えぬ有様。次回こそエッフェル塔と自由の女神、ついでにスフィンクスもお目に掛かりたいものである。後ろ髪引かれる思いで、今来た道を戻るが、既にかなり遠景となったタワー、歩けど歩けど近付いて来ぬ。結局30分遅れで待ち合わせ場所のタワーに到着。カジノ組は、当初相当負け込んだらしいが、最後3人で共同戦線を張り、ルーレットで勝った模様。

さて今宵のライヴ会場Cafe Espresso Romaは、名前の通り普通の喫茶店であり、唯一小さなステージこそあれ、当然PAも何もなく、JoeとDavidがPA屋に頼んでPA機材を組んでもらっている。このカフェ、店内禁酒禁煙にして、果たしてライヴの客は斯様なシチュエーションに耐え得るのか、否、そもそも我々が耐えられる筈もない。仕方がないので、裏の駐車場で缶ビールを紙袋で隠して飲みまくる。何せここはアメリカ、外で酒を飲む事が法律で禁じられているのは御存知であろう。するとEclipse RecordsのEdが隣のアリゾナ州から遥々車を走らせやって来た。続いて客が続々と押し掛けるが、結局皆、開演まで外でビールを飲み煙草を吸って待たねばならぬ有様。まさかライヴ会場でコーヒーを飲む気分にはならぬであろう。さてローカル・オープニングバンドの退屈極まりない演奏が終わり、「よしやるか」と思った処、ギターを取り出してみれば1弦と6弦のペグが折れて無くなっているではないか。これではチューニングさえ出来ぬ。オープニング・ローカルバンドはギターレス編成であった為、彼等から借りる訳にもいかず、急遽オルガナイザーのDavidにこの事を告げるや、即座に彼はギターを所持する友人達に電話をかけてくれ、何とか一応借りられる事と相成った。借りたムスタングでの音作りは、かなり困難ではあったが、当然私はこの借り物のギターを投げる事も壊す事もなく、何とか無事終演。以外にもPAの音作りが素晴らしく、即興で普段とは全く異なる繊細なアンサンブルを試みる事も出来、この狭いカフェで踊り狂うヒッピー達を見れば、ライヴ内容は良かったようで、何しろJoeもDavidも大喜び。

終演後、JoeとDavidから彼等の自宅ラウンジ「Chez Bippy Lounge」のメンバーズ・バッヂを貰い、再会を固く誓い合いさよならして、Edの車でアリゾナの彼の自宅へ向う。丁度彼の自宅は、Las Vegasと明日の会場であるLAの中間に位置する為、彼が明日LAまで連れて行ってくれる手筈になっている。2時間半のドライヴの末、彼の自宅兼Eclipse Recordsのオフィスに到着。午前4時過ぎであるにも関わらず、私と東君とEdはビールを次々と空けつつ、ディストリビューションやレーベルの話等で盛り上がり、結局東の空が白染んで来た頃に就寝。

10月24日、朝起床してみれば、窓の外は見渡す限り砂漠である。一瞬、一体ここは何処なのか等と思ってしまう程で、斯様な景色は到底日本ではお目に掛かれまい。ガレージには、彼の奥さんの仕事らしいのだが、ヘビやらトカゲやらイグアナやら爬虫類が数百匹、見事に分類整理され飼育されている。夫はレコードのディストリビューターで、奥さんは爬虫類のトップブリーダー(爬虫類でもこう呼ぶのか?)とは、全くもって凄い夫婦である。況してや各々の在庫を充分収納出来得る広大な邸宅あってこそである。奥さんは、流石爬虫類を飼育しているだけあり、顔立も何となくヘビっぽく、冷徹な空気感を漂わせる。

Edに持参した1000枚の「Live in Japan」のCDのうち、先ずは800枚を納品。即ち今回のツアーでほぼ200枚を既に捌いたと云う事か。我らのレーベルの赤字を何とか清算せんと、今回は頑張って売らねばならぬ。何せレーベル発足以来、ずっと赤字経営なのだ。Ed宅を昼過ぎに出発、一路LAを目指す。走れど走れどひたすら砂漠やサバンナである。今までアメリカは幾度もツアーしており、その退屈極まりない広大な風景には見慣れたつもりであったが、それでもこれは衝撃的な光景である。見渡す限り何もない砂漠の中を、フリーウェイと並走する形で線路が通っており、100両編成以上のとんでもなく長い貨物列車が時折通る。今にもそこら辺りから、大列車強盗の一群が馬に乗って現れそうではないか。

5時間のドライヴの末、LAに到着。今宵の会場Derbyは、前回も来ているので心得たもの。会場に到着するや、オルガナイザーScottに楽器屋を訊ねる。兎に角ペグを修理せぬ事には、今宵のライヴもギターを借りねばならぬ。近所の楽器屋を紹介してもらいEdの運転にて楽器屋へ。既に6時近い為、大抵の店はクローズしてしまうと云われ、気ばかり焦る。訪れた小さなギターショップでは、当初ぺグは在庫がないと云われたのだが、もうすぐ6時になってしまう為、次の店へ行くとしてもタイムオーバー、何としてもここで修理せねばならぬ。今夜のライヴでどうしても必要なのだと訴えてみれば、何処のクラブで演奏するのかと問われ、横からすかさずEdがDerbyと答える。更に彼が「彼はAcid Mothers Templeのギタリストだ」と一言付け加えるや、店員は「あのAcid Mothers Templeか! 俺は丁度今晩行くつもりだったんだ!」と驚き、急遽他のギターのペグを2つ外して御親切にも取り付けまでしてくれ、更に「弦のゲージは?」と、弦まで張ってくれたのだ。ついでにトレモロユニットも尋ねてみたが、私のバッタもん国産ギター、ブリッジのサイズが通常のトレモロユニットよりかなり小さめで、取り替えるならばボディーを削る作業から始めねばならず、時間的な問題からこちらは諦める事に。彼を今夜招待すると約束し、我々は再びDerbyへ戻る。

対バンが2つもある為、面倒臭いのでサウンドチェックはせず、楽屋にて一服していると、MaquiladoraのPhilとBruceが訪ねて来た。Maquiladoraは、San Diegoを本拠にするアシッド・サイケトリオで、かつてAMTよりミニアルバムを1枚リリース、過ぐる8月には私とコラボレーション・アルバムも録音している。前回のAMTのUSツアーでは、LAとSan Diegoの計3回のコンサートに於いて、オープニングアクトも務めてもらっている。またこのツアー出発前に私は、4月に行われるMaquiladoraのJapan tourをブッキングしてきたばかりである。クラブのバーにて、旧交を温め合いビールのグラスを交わす。

Derbyには我々が演奏する大ホールの他に、小さなホールもあり、今宵はその両方で、我々のオルガナイザーScottがブッキングしたコンサートが行われており、AMTの方は既にソールドアウト。

さて前座2バンドが終了し、いよいよ我々の出番である。されど2曲目の途中で、前座のバンドから借りた私のギターアンプが、ブロウアップ直前の断末魔の叫びの如き煙を吹く。客席に向って「このアンプではこれ演奏以上演奏出来ない。代わりのアンプが見つからなかったら、今日はこれで終わりだ。」と告げ、ステージを降りてScottを探すが見当たらず。兎も角代わりのアンプが見つからねば、どう足掻いた処で演奏は続行出来ぬ。その時、丁度小ホールでの演奏を終えたバンドが「もしこれで良ければ使って下さい」と申し出てくれ、彼等からツインリバーブを借りる事が出来た。その後はもう大爆音にてギターを弾きまくり、ラストの「Speed Guru」では、あまりの怒りから、ブロウアップ寸前の先程のアンプをぶち壊してやろうと、ステージ中央まで引き摺り出したのだが、USツアー最終日でもあるし、矢張り無用のトラブルは避けようと云う、至って冷静なもうひとりの自分が突如現われ、取り敢えず蹴りを食らわせる程度で勘弁してやる事にする。終演後、我ながら「知らぬ間に随分大人になったものだ」と感心する事頻り。かつては借り物のマーシャルのスピーカーにギターのネックを突き刺した事もある故、もしもこのアンプを壊しにかかっておれば、木っ端微塵にした事であろう。

終演後、Edの車とBruceの車で、LA郊外にあるBruce宅へ。彼の本業はハリウッドの俳優であり、数年前にこの大邸宅を購入したのである。Edは、奥さんに今晩中に帰宅すると約束した手前、この夜中にアリゾナの砂漠の中に建つ自宅まで帰ると云う。Edとさよならした後、私はBruceとビールを飲みつつ談笑。この男とは妙に気が合う。以前ここに泊まった時は、朝6時まで飲み明かし、朝日が昇る中、裸足のままこのとんでもなく広い庭へ出て、2人で延々と木を眺めたものだった。明日は朝7時に空港へ向うキャブを頼んであるにも関わらず、結局またしてもBruceと飲み明かし、眠ったのは朝5時を回っていた。されど旅先に於いては、たかが睡眠なんぞよりも、そうそう会えぬ友人と過ごす僅かな時間の方が、常に優先されて然るべきなのである。

10月24日、朝6時半起床、先に眠ったメンバー全員はもとより、Bruceまでもが既に起床しており、津山さんに至っては朝飯さえ食い終わっている有様。大慌てでフライト用にパッキングし直し、ここまで置いておいた最後のレトルトカレーとサトウの御飯を温め、さて頂こうかと思うや否や、表に予定より10分も早くキャブが到着。約30秒でカレーライスをかき込み、大慌てで荷物をキャブに積み込む。Bruceと4月に日本での再会を誓い、彼の家を後にする。LA空港にはかなりの余裕をもって到着。San Franciscoにてトランジットし、一路関空へ。日本に帰国するとは云えど、関空到着は25日であり、更に私と東君は名古屋へ、夘木君は東京へ戻らねばならない。そしてまた30日朝には、再び関空より北欧へフライトせねばならぬ為、29日夜には、名古屋部隊の私と東君は名古屋を発たねばならぬ。それを考えると、この帰国便に乗ってはみた処で、いつもとは異なり、帰国する楽しさや虚しささえ感ずる事もない。今は未だ漸くツアーの1/3が終わったに過ぎぬのだから。

(2002/12/22)

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