『人声天語』第10回「イギリス料理万歳」

それにしてもやはり、イギリスの食べ物は何とも不味い。世界中どこで食べても絶対的に旨い筈のインド料理でさえである。ましてや万国共通の味と思っていたマクドでさえ、値段も倍だが不味さも倍である。イギリス人は、一体どんな味覚をしているのか。兎に角チップス(フライドポテト)にビネガー(酢)をかける習慣だけでも、私にとっては驚愕の事実なのだ。

いくら私が、イギリスの食べ物が不味いと言ったところで、あの壮絶な想像を絶する味を、文章で表すことは到底不可能であろう。旨いものに対しては、美語美句を綴り形容することは可能かもしれないが、あの得も言われぬ不味さを表現する言葉など、まるで思い当たらない。せいぜい「ゲロの味のサンドウィッチ」程度のものだ。そもそもどうすれば、たかがサンドウィッチをあれ程まで不味く作ることが出来るのか。イギリス人の味覚では、やはりあれが旨いのだろうか。街でサンドウィッチを食べている人を見たところで、さして不味そうな様子もなく、誰もあの味に対し疑問を持ってはいない様子だ。考えてみれば、サンドウィッチはイギリスで誕生したものであるから、これがオリジナルの味ではないか。「何事もオリジナルに勝るもの無し」 と言われるが、サンドウィッチに限っては例外であろう。
兎に角、食事が不味い所へ行くと、生きている事さえ嫌になる。私は美食家ではないが、「不味いものは絶対食わぬ」心づもりなので、イギリスへ行くと本当に拒食症にでもなりそうである。それも腹は減るが食事を見ると食欲が無くなると言う、全くもって不条理なもので、遂には空腹感も助長して無性に腹が立ってくる。

しかしこの国が、素晴らしいブリティッシュ・ロックの数々を生み出した事は、紛れもない事実である。こんな不味いものを食っていたにも関わらず、素晴らしい音楽が次々と生み出されたとは信じられない。「良い芸術家になる為には、良い作品に触れ、旨いものを食い、まずは物の善し悪しを知る事が大切だ」等と言う話を聞いた事があるが、あれは嘘なのか。考えてみれば、世界中の民族音楽に於いて 素晴らしいと思えるものは、全て気候が厳しい所の物だ。そして彼等は食料を保存することに努め、数々の酷い料理法を生み出していった。勿論トルコや南フランス等の地中海沿岸のような例外もあるが、大抵気候が良く食料に困窮しないところの音楽は、享楽的なだけで退屈である。

私は料理人であったこともあるので、その経験から言っても、料理とは一種のクリエイティヴな作業である。例え新たな料理を生み出すにしても、経験や知識からいろいろ完成品を想像する事が出来る。異なる料理法を応用し折衷したり、素材の特性を考慮した上で意外と思われる組み合わせを閃いたりする。海外のいろんな所に行って思う事は、やはり料理法の完成度と言う点では、圧倒的にアジア圏が抜きん出ていると言う事だ。まず何より多くの種類の食材を知り、多くの料理方法を知っている。アジア圏以外で思うのは、兎に角食材の種類が少なく、料理方法もシンプル且つワンパターンであることか。更に日本人は、飽くなき美食欲を追い求めるうちに、世界中のあらゆる料理を折衷すると言う偉業をなし得てしまった。テリヤキバーガーからフランス懐石まで、これら全て日本の料理以外の何ものでもな い。
欧米では、植民地政策に起因する移民が多い為、世界中のあらゆる現地料理を食べる事は出来るが、それはあくまでほとんどが移民による現地料理であって、欧米料理と折衷している訳ではないし、逆にまた欧米料理もそれらに折衷している訳ではない。これはいたって植民地主義的考え方ではないか。

そして日本のロック/ポップスである。
一部のミュージシャンは、日本の料理事情に見られる恐るべき折衷スタイルを踏襲することで、今や海外で大いに支持され、多くの影響を与えているのは周知の事実である。しかし多くのミュージシャンは、例えて言うならアメリカ人の寿司屋程度のものであって、素材も酷いがアレンジも酷い。どう考えても、日本の回転寿司で見受けられる得体の知れぬ創作寿司のほうが、アメリカ人の寿司屋で編み出された尤もらしい寿司モドキよりマシであろう。まず何より多くの種類の食材を知り、多くの料理方法を知る。基本が欠如した表層的スタイルだけでは、何も知らぬ人々を騙す程度が関の山であろう。

そう考えると、イギリスの不味い料理も生活の知恵と言う背景に裏付けられている分、まだマシと言うことになるのか。いやしかし、くだらない音楽は聞かずに済ませる事も出来るが、イギリス滞在時にあの料理を食べずに済ませると言う訳にはいかぬ。嗚呼、言語はいくら異なっても構わないが、味覚だけは万国共通であってほしいものだ。

(2001/7/15)

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