『人声天語』第11回「C’est la vie….(これが人生さ…)」

ツアー出発前も忙しかったが、帰国後は更に忙しくなった。
溜りに溜まった海外からのリリース予定の数々、一体何から録音して良いのやら少々混乱気味。中にはすっかり忘れていた物もあり、催促されて思い出す始末。締め切りを順次先送りにしていた為、急遽決定したリリースの録音が割り込んで、余計ややこしくなってしまった。挙げ句の果てには、とっくに録音の終わっているAMTからのリリース作品の入稿さえ忘れる始末。そもそも今年に入ってから一体何枚リリースされて、更にこの後何枚リリースされるのかさえ、既に把握出来ていない。9月10月とまたツアーなので、何とかそれまでにはある程度の見通しが立たないと、本当に自分が何をすべきか解らなくなりそうだ。加えて通販の申し込みが海外から殺到したせいで、その雑務処理にも追われ、更に問い合わせメールが1日に20~40件も来るのであるから、もうこれは1人で処理出来る仕事量ではない。帰国した際、私のメールボックスには、クズメールを除いても200件以上のメールが溜まっていた。

さて、一体いつになったら録り溜めたWWFや映画のビデオを観る事が出来るのか。映画は1本観るのに絶対2時間はかかるのだから、どんなに頑張っても1日に10本程度が限界だ。留守中に頼んで録画してもらった映画がざっと100本。WWFが4週間分で約30時間。更にこうしている間にも録画の予定は進んでいく。何しろスカパーと契約しているせいで、映画やドラマをビデオにして毎月100本も録画している。録画し始めた当初は頑張って観ていたのだが、流石に一度遅れをとるともう観切れない。最近は、一体何の為にこんなに録画しているのかと、自己疑問を持つ事もあるが、ある種の年金のようなつもりで、老後の愉しみと考えるようにしている。

しかしよくよく考えてみると、仮に1万本のビデオがあったとして、それを全てひと通り観るには、単純計算で2万時間、1日に10時間観たとして2000日、5年半弱かかることになる。もう一度観れば10年以上かかると言う事だ。考えただけでゾッとする。果たして私が死ぬまでに、全てのビデオを観る時間があるのだろうか。そう思うと、一生懸かっても観られるかどうかもわからぬビデオを録画し続けている私は?何と愚か者なのだろう。しかしだからと言って、今さら止める訳にもいかぬ性分だから尚、タチが悪い。

幸いにも、私は「寝る」ことが嫌いで、普段でもおよそ3~5時間睡眠で暮らしている。特に朝は遅くとも7時には起きる。普通に働いている人から考えれば、至って当たり前の起床時間であろうが、私の就寝時間は大抵3時以降である。朝5時6時まで起きている事もザラであるから、「夜型」且つ「朝型」の生活スタイルであると言える。

何故「寝る」のが嫌いかと言うと、自分の人生に於ける時間がもったいないからだ。仮に1日20時間起きているとして、1日16時間起きている人と比べれば、1日では4時間しか違わないが、10日で40時間、1年で1460時間(約60日)、10年で14600時間(約608日)、40年では58400時間(2433日…何と6年半以上)も違ってくる。先述の1万本のビデオを観るには2000日を要するという一件も、これで見事解決である。1日に2本ずつ4時間の時間を確保出来れば、40年で全て観終わる筈であるから、このままの生活を続けるとしても70代半ばには達成出来る計算だ。ましてや老後に隠居する程の余裕があれば、2回通りは観られるだろう。毎日惰眠を貪るより、この方が私にとっては遥かに有意義な人生と呼べるではないか。

隣に美しい女性が寝てもいないのに布団の中で微睡むなど、私にとっては耐え難い苦痛である。私は幼少の頃より、眠くなるまでは床に就かぬし、目が覚めた刹那床を出るのが習慣である。それは幼少からの家庭教育の影響であり、故に未だ「ぼーっと」など絶対出来ぬ。かつて母が友人達に健康ランドなるものに連れていかれた折、余りの退屈さと時間の浪費ぶりに、逆にストレスが爆発したらしい。そしてやはり私も、まるで回遊魚のように常に何かをしていないと、逆に不安になり発狂しそうになる。どれ程忙しくて辛くても、暇を持て余す事を思えば余程幸せだ。そうでなければ、このクソ忙しい最中、こんな拙文をしたためる気にはならないであろう。時間に追われる緊張感こそ、我がエナジーの源か。

あと50年生きるとしても高々18250日、438000時間である。残された時間でやれる事は限られている。しかしせめて「明日のジョー」のように最後まで完全に燃え尽きたいものだ。となると、やはりビデオなんぞ観てる場合ではないではないか。
C’est la vie….

(2001/7/17)

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