『人声天語』 第38回「さだまさしは日本のザッパだ!」

怒濤の録音ラッシュとなり、昨夏以来の慌てぶりである。どうも物事悠長に構え過ぎる嫌いがあり、金銭感覚同様、時間感覚についても「たくさんある」と「全くない」でしか考えられないらしい。

しかしそんな多忙な中でも、何故かテレビ等ついつい観入ってしまいがちで、まるで試験前日に徐に部屋を掃除したり、関係のない本等読み耽るのと、然して変わらぬ。先日もついつい3時間以上の大作「二百三高地」なんぞ観てしまい、しかもさだまさしの歌う主題歌「防人の歌」に不覚にも涙。実は私は何を隠そう「さだまさしファン」なのである。

そもそもさだまさしを聴き始めるきっかけは、高校時代の彼女が、猛烈な「さだまさしファン」であり、当時現代音楽やらプログレやらばかり聴き耽っていた私に対し、何かしらの共通項を持たせようとでもしたのか、さてまた如何な思惑があったのかは、今更惟る事さえ出来ぬが、兎も角彼女が、自分の所持するさだまさしのLP全部を貸してよこした事に始まる。当時もう一人の級友が、やはり頼みもせぬのに、オフコースの全アルバムを御丁寧にもカセット数本にダビングしてよこした事があったが、これは私を更正しよう等と云う、彼の全くもって要らぬお節介と親切心に起因した事であり、勿論私はそんな類いの代物を聴く気にさえもなれなかったのだが、会う度に「どうやった?ええやろうオフコースは。」等とあまりに鬱陶しいので、ある日「よかったで」と適当に相槌を打てば、今度は「どこがよかった?歌詞か?曲か?コーラスか?どの曲や?どの部分や?」と更に鬱陶しさを倍増。これには流石に閉口してしまい、「金輪際お前とは『さよならぁ~さよならぁ~さよならぁ~あ~』じゃボケ!」と、彼の愛するオフコースの一節を引用して引導を渡してやった。これで彼も腐心してダビングした甲斐ありと、さぞや喜んでくれたに違いあるまいて。当然そのテープは一度も聴かれる事無く、上からプログレやら現代音楽やらが録音され、後々まで有効利用された事は言うまでもない。
さてさだまさしであるが、当然当初はオフコース同様、全く聴く気にはなれなかったが、彼女のあまりの「さだまさし至上主義」(さだまさし以外のフォークは全部カスであるという考え方。さだファンには、この「さだまさし至上主義者」が滅法多い。その成れの果てが「さだ信者」であろう。因みに彼女はその後、怪し気な新興宗教に傾倒していった。)ぶりに、「一体さだまさしの何が、彼女をそこまで恍然とさせるのか?」と云う一つの疑問が生じ、先ずはグレープ名義の3枚とライヴ盤、そして「帰去来」「風見鶏」「私花集」「夢供養」そして当時丁度新譜としてリリースされたばかりの2枚組(とボーナスEP1枚付き)ライヴアルバム「随想録」と、リリース年代順にLPを聴いてみる事と相成った。そして私は、さだまさしが確かに、どうやら他の下らないフォークとは、音楽的に少々趣が異なるのではなかろうか、と感じ得たのだが、それが何なのかは当時は未だ判然とせず、ただ漠然と「悪くはない」等と思うに留まるのみであった。

その後、その彼女と別れた私は、さだまさしの事なんぞ彼女の事と共にすっかり忘却の彼方へ、そしてフランク・ザッパに傾倒して行く。正規盤は勿論の事、海賊盤、ビデオ等、ありとあらゆるザッパに関するものを買い漁り、挙げ句の果てには、ザッパのフォロワ-として有名な「なぞなぞ商会」のコピーバンドをやっていた知人から、ザッパと同じオーバーハイム社製ヴォルテージ・サウンドコントロール・フィルターを譲り受ける等、完全にザッパ漬けの日々を送っていた。
そんなある日、偶然テレビでさだまさしのライヴが放映されており、暇つぶしに何気なしに観始めた私は、そこで今迄気付かなかったさだまさしの隠れた音楽性の深さに驚嘆し叫んだ。「これぞ、まさしくザッパだ!」

よくよく考えてみると、実はザッパとさだまさしの共通項は、その他にも多岐に渡る。
1)音楽家として、クラシックに基づく楽典等の教養を備えている。
2)大ヒット曲を量産する訳でもないのに、常に安定した人気を誇る。
3)自らレーベルを設立し(「Barking Pumpkin」と「フリーフライト」)作品を気侭にリリース出来るスタンスを築いている。
4)精力的にツアーを行い、当然の結果としてライヴアルバムも多い。
5)同一曲を、様々なアレンジや演奏形態で演奏している。
6)ライヴアルバムを含め、自分の曲を再演再収録することが多い。
7)基本的に大所帯のバンド編成で、マリンバ奏者がいる。
8)ステージ上で、バンドメンバーにギャグ等のパフォーマンスをやらせている。
9)オーケストラと共演している。
10)自作曲のオーケストラ・アルバムを発表している。(ピエール・ブーレーズ指揮の「The Perfect Stranger」や山本直純指揮の「一番街の詩」等)
11)作品を量産する上、とんでもないライヴシリーズを発表している。(「You Can’t Do That On Stage Anymore」や「書簡集」等)
12)かつて発表した作品を、何度となく形を変えてリイシューしている。(「Old Masters Box」や「一人百歌」等)
13)かつて発表した作品に対し、10年以上の歳月が経とうが、続編等を作り発表している。
14 )ライヴ録音からカットアップして純然たるライヴアルバムに該当しないものを発表している。(「Shut Up ‘N’ Play Yer Guitar」や「ステージ・トーク・ライヴ」等)
15 )誰も求めていないようなカヴァーアルバムを発表している。(「Francesco Zappa」や「にっぽん(唱歌童謡集)」)
16)政治ネタからコミカルなネタまで、歌詞は幅広いテーマを備えている。
17)MC好きであり、ライヴ盤にMCまで収録している。
18)自分のアルバムに自分で解説を付けている。
19)自筆の書籍を出版している。
20)自作曲の楽譜を出版している。
21)自ら映画を製作し、そして失敗している。(「200 Motels」や「長江」)
22)身内の作品をリリースしている。(「Dweezil Zappa」や「佐田玲子」)
23)自分でやたらとグッズを作っている。
24)TVに時折ミュージシャンとして以外で出演するが、決して俳優やタレントにはならない。
25)政治的社会活動をする側面を伺わせるが、決して選挙に立候補する等と云う、政治家志望ではない。(「ライヴ会場に於ける選挙人登録」や「ピーススフィア貝の火運動」等)
26)時に独善且つ独裁的である。(「メンバーには金も払うが口も出す」や「誰も俺に指図するな」等の発言。)
27)ファンがマニア化しやすく盲目的且つ狂信的である。
28)ファンから敬称を付けられている。(「ザッパ大先生」や「さださん」等)
29)名前の所有格的変型が存在している。(「Zappalog」や「まさしんぐ TOWN」等)
30)息子と娘が存在している。(「DweezilとMoon」や「大陸くんと詠夢ちゃん」)

私は別に「さだまさし主義者」でも「さだ教信者」でもないので、さだまさしの多岐に渡る活動の詳細等到底知る由もないが、そんな私ですら、軽くこれぐらいの共通項を挙げる事が出来てしまう程、この2人は酷似していると言えよう。特にさだまさしは、日本のフォーク/ニューミュージック界の熾烈な生き残り戦線の中、全くもって音楽的な路線変更や俳優への転身等の道に日和る事なく、されど声も衰え才能も枯渇した等と囁かれもしているが、それでも尚、孤高に己の音楽を追究し続ける稀有な存在であり、その孤高さこそ、まさしく万難を排してでも自らの音楽を追究し続けたザッパの姿勢と同じであろう。
よくプログレマニアやサイケマニアが、重箱の隅を突つくあまり、どうしようもなく下らないものでさえ、「この部分はプログレとして聴ける」だの「ここはやっぱりサイケだ」だのとホザいているが、勿論実際そう呼べるものも中にはあろうが、大抵は本来己のテリトリーである筈ではないものを好きになってしまった場合の、自己弁護とも云える詭弁であろう。そしてやはり、さだまさしとザッパの多くの類似点なるものも、多くの人から圧倒的に支持されるザッパに対し、優れたミュージシャンであるにも拘らず、一部の狂信的ファン以外からは、実は然程評価されてはいないさだまさしを、今もう一度聴き直し再評価して欲しいと云う私の勝手な偏見による詭弁かもしれぬが、ただ2人に共通する、己の音楽に対する過剰な程の自己愛と、それ故の孤高なスタンスは、決して私個人の思い込みではないと確信する。某さだまさし関連掲示板では、狂信的さだ信者の弊害や、さだまさしの偽善者ぶり、音楽家としての衰え等が取り沙汰されていたり、その他諸々のイデオロギー論争にまで発展している様子ではあるが、それもまた何かと物議を醸したザッパと同じく、あまりに孤高な故のやむ無くも背負わざるを得ぬ宿命であり、即ちかつてファンであった人達やアンチ側の人間でさえ、今もって無視する事が出来ぬと云う証明でもある。

かつて確か中学生の頃、偶然さだまさしの筆跡と自分の筆跡が酷似している事に気付き、丁度東大寺大仏殿昭和大修理落慶記念行事のライヴでさだまさしが奈良を訪れていた事をいい事に、サインを偽造しては友人達に売りまくった事がある。そしてその金は、当時の僅かな小遣いでは到底自由に買う事が出来なかったレコードやエアチェック用カセットテープ等の購入に当てられた。と云うことは、今ここにこうして存在し得る自分の何パーセントかは、間接的であれさだまさしの御蔭ではないか。

されどそのさだまさしが出演した先の紅白歌合戦を観る訳でもなく、しかしその紅白に於けるさだまさしのパフォーマンスはどうやら圧倒的不評だったようで、実際視聴率もさだまさしの出演時のみ急落した事実もあり、ではせめて私ぐらいは観てあげるべきではなかったかと、ほんの僅かばかり心痛み申し訳なく思う次第。また新譜やコンサートチケットのセールスの方も、どうやらあまり芳しくない様子で、巷ではさだまさし自身の音楽的な衰えはどうやら否めないとの風評も。されどザッパもまた80年代以降は、多くのファンに「つまらなくなった」と酷評され、当人もシンクラビアに傾倒して行ったりと、決して音楽的才能と製作意欲の衰えこそ見せはしなかったものの、やはりファンが求める「ザッパならではの音楽性」からは、少し隔たりがあったことも事実。孤高であるが故、己の音楽を追求するあまり、古くからのファンが次第に去ってしまう事も仕方あるまい。
しかしだからと云って、さだまさしのCDを購入しようとか、コンサートに足を運ぼう等とは、やはり今更思う筈もなく、取り敢えず偽造サインを行きつけの店にでも寄贈して、「さだまさし復興草の根運動」でもしてみるか。

さだまさしとザッパの大きく異なる点は、ザッパのレコードは決してバーゲンコーナーで叩き売られる事はないが、さだまさしは悲しいかな、今や100円コーナーの常連と化している事か。せめて中古レコード屋のバーゲンコーナーで、さだまさしのレコードを100円程度で目にした時は、缶ジュースの1本も我慢したと思って、是非買って聴いてみて下さい。特に「夢供養」は、珠玉の名曲揃いでお薦めです。
さてこれで、中学生の時に犯した過ちが、少しでも水に流されると良いのだが…。

(2002/1/14)

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