『人声天語』第8回「ロックしようぜ」

先日イギリスより電話があり、昨秋LPでリリースした「La Nòvia」をCD化したいらしい。以前にも同じような話があったので、既にオリジナルLPリリース元の米Eclipse Recordsとの間で、CD化の権利の所在はこちらに有ることは確認済み。即答で了承すると、何ともう1ヶ月足らずで始まるUKツアーに間に合わせたいとの事。そんなに早くプレス出来るのかは疑問だが、しかしマスターの納期は1週間以内。どうせならボーナストラックを追加したい等と言ってしまったものだから、自分の首を絞める結果に。運良く次作の為にいくらか録音してあったので、結局その中から選ぶことにし、多少のオーバーダブ作業のみで済ませることで、なんとか納期には間に合わせる事が出来そうだ。

「La Nòvia」は、私が愛してやまぬオクシタン・トラッドの1曲。勿論ヨーロッパ・トラッド・マニアの津山さんもお気に入りの曲であり、度々ソロで歌っているのを聴いたことがある。オクシタン・トラッドをカヴァ-することは、私個人の本懐であったので、本当にやり甲斐のある幸せな仕事となった。しかし以前は、トラッドや民族音楽をカヴァ-することに対し、かなり抵抗があった。というよりも、やるべきではないと思っていた。

かつて多くの友人達が、次第にインドの古典音楽等を演奏するようになっていった。ヒンズー教徒でもない人間が、ただインド音楽に憧れて演奏しているだけの、何とも胡散臭い代物である。グルのような髭長髪の風貌にクルタを纏い、タブラやシタール等で古典音楽を演奏したところで、彼等は決してインド人にはなれないのである。インド人から見れば、さぞや可笑しな見せ物であろう。逆に考えてみれば、日本に憧れているアメリカ人が、着物を着て尺八や琴を演奏してる姿を想像すれば、容易に判りそうなものであろう。民族音楽や伝承音楽は、その土地に於いて初めて演奏される意味がある。宗教、文化、風土等が背景となり、その存在意義が必然性を伴う。即ちその現地の人間だからこそ、演奏する必然性があり資格があるのである。

一方で、ロックに代表される大衆音楽は常に変化している為、古典と異なり窓口が広い。現に、ロック等と云う明確なスタイル(今や精神をも?)を失ってしまったものは、今やブラックホールの如き代物になってしまっている。60年代に於けるインド音楽を筆頭に、クラシック、ジャズ、民族音楽、現代音楽に至るまで、あらゆるものを飲み込んできている。幸いにも、私はこの出鱈目極まりないロックと云う分野で活動している。そして結果、このとても安易な結論の下、オクシタン・トラッドをカヴァ-する御墨付きを自分に与えたのだった。

トラッド・バンド側からロックへアプローチする際、大抵の場合、ロックに対する認識不足からか、さてまた幻想からか、妙なぎこちなさを感じざるを得ない。勿論成功例もあるのだが、それらは必ずや結果「トラッド・ロック・バンド」と云うレッテルを張られ、何故か「ロック・バンド」にされてしまう。不思議なことに、ロックへのアプローチに失敗したバンドは、いつまでたっても「トラッド・バンド」のままである。私はここに、この出鱈目極まりないロックと云う怪物のポテンシャルに戦慄を感じずにはいられない。嗚呼、恐ろしきはロック也。

さて、当の「La Nòvia」である。国内では相変わらず無視されているようだが、海外では音楽各誌で大絶賛され、昨年のベストアルバムに選んで頂いた雑誌もあったようで恐悦至極。当のフランスでも絶賛されたのには、流石に感慨無量。ロックはやはり万国共通なのか。
以前AMTのヨーロッパ・ツアーで、リトル・リチャードの「ルシール」を演奏した折、終演後ある男性が私にこう言った。「日本から来たバンドは沢山観たが、それらは全て『日本のロック』として凄く興味深いものだった。しかし君達はスタンダードなロックを演奏することで、他の欧米のバンドと同じ地平で評価されてしまうが、『日本の~』と云う特別なカテゴリーが無くても、やはり君達は本当にグレートだ。」

この一言は私達にとって、何よりの賛辞だった。私達は別に「新しい音楽」や「日本固有のロック」を演ろうなど鼻から思っていない。ただ「かっこいいロック」を演りたいだけだ。「かっこいい」と云う価値観に対して「新しい」だの「日本固有の」なんぞ全くもって不毛である。ロックとはまさしく、かっこよくないといけないのだから。そしてそれは、「生きざま」でもあると言えよう。

ロックとは、エレクトーンのリズムパターンのボタンに象徴されるような、リズムの種類によって分類されるような類いのものではない。勿論、近頃のヒットチャートを賑わせている類いもロックではない。ロックが市民権を得てどうする。ロックとは「人間の屑の生きざま」そのものであり、故に社会的に抹殺されて然るべき輩の巣食う、掃溜めの如きものであろう。そもそもいつの時代でも、芸能たるものは河原乞食の生きる術である。

我々のように、社会人の義務としての労働を拒否し、一方で社会からも拒絶されている「人間の屑」は、享楽主義の成れの果てであり、まさしく現代の河原乞食だ。末永く活動する為に、健康に気遣い「禁酒禁煙アンチドラッグ」を掲げる方もおられるようだが、それもまた良かろう。勿論、結果的にそれらで命を縮めた先人は数多いのだから。しかし「かっこいい」生きざまとは、そんな良識人のようなものなのか。私にとって人生とは、生ききったところが即ちゴールであり、それがどこかなど知った事では無い。何があろうと、私は自分の思うがままに、好きなようにやらせてもらうだけだ。それこそがロックであろう。そもそもロックをやる人間が日和ってどうする。 幻想で大いに結構、ロックが幻想以外の何だと言うのだ。
「Let’s ROCK!!(ロックしようぜ)」

この糞ダサいフレーズを本気でかっこいいと思う今の自分にあと必要なのは、掃いて捨てる程のグルーピーだけか。

(2001/4/22)

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