今年の夏は、本当に暑い。一体どこまで気温が上がれば気が済むのか。私の部屋は、クーラーを全開にしているにも関わらず、まったくもって涼しくならぬ。建築構造上の欠陥で、特に室温が上昇しやすい為、クーラーを駆使しても屋外より暑い。しかし以前、8月にアメリカツアーで1ヶ月留守にしている間に、神棚の蝋燭があまりの室温の高さでお辞儀してしまっていたほどであるから、一応効いてはいる筈だ。とは言え、気温が20度を越えると不快になる私にとって、この暑さは本当に生命の危機さえ感じずにはいられない。
しかしこの暑さの中、今年はニール・ヤングを擁したFUJI ROCKを筆頭に、世の中では野外イベントが盛況なようである。大自然の中で精神も肉体も解放されて云々という、思い違いも甚だしい輩達の何とも幸せなイベントである。大体、自然の中に身を委ねるのに、電気仕掛けの演出など必要無いではないか。静寂の愉しみこそが、自然の中に身を委ねる醍醐味であろう。それもこれもウッドストック等と云う、阿呆な毛唐の刷り込み以外の何ものでもない。
日本のラスタ/ヒッピー系と言うか似非エコロジスト系の「祭り」に代表される、「自然+音楽+祈り」といった「祈祷としての祭儀の真似事」に至っては、更に質が悪い。結局は、酒を飲みハッパを吸うだけの享楽的宴会なだけである。奴等に最近の俄アウトドア派の輩を批判する資格はない。全くもって同じである。自然の中でわざわざやる必然性も無い事を、自然の中というシチュエーションの下、「大自然の中で精神も肉体も解放されて云々」という尤もらしい大義名分によって正当化しようとしているだけなのだから。
そもそも何故、わざわざ山奥へ出掛けていき、そこでコンサートを、宴会を、バーベキューを、カラオケをしなければならないのか。「自然と触れ合う」等という大いなる誤解の下、開放的になったような錯覚をしているに過ぎない。自然の中に居ながら、これほど自然と触れ合っていない事はないのではないか。例えるなら、動物園やサファリパークに行って「動物と触れ合った」等と思い込むのと同じであろう。
私は別にエコロジストでも動物愛護者でもない。逆にそう云う類いの人間を忌み嫌っている方だ。「地球に優しい」なんぞ糞食らえだし、動物なんぞ絶滅しようが、知った事ではない。自然なんぞと云うものは、我々がどうしようと一切関知せずといった、もっと大きなものである。人間如きが自然に対して何かしよう等、烏滸がましいにも程がある。自然とは、そんなに優しく寛容なものではない。破壊すれば必ず報復される。「目には目を」こそが自然の摂理であろう。最近話題の環境ホルモンもまた然り。種族保存さえ危ぶまれる状況に陥れられようが、これもまた因果応報と云うものか。都会の喧噪の中で揉まれているうちに、自然に対する過剰な幻想を持たされている事自体、実は既に張り巡らされた何らかの報復の罠に嵌まっているのかも知れない。
この異常な暑ささえも、「オゾン層が破壊されて云々」と言った理由で温暖化が進んでいるらしいので、やはり報復攻撃の一環なのか。子供の頃は光化学スモッグが問題になっており、いずれ「太陽光線が遮断され氷河期になる」と本で読んだが、ならば今一度スモッグを大量発生させ、太陽光線を遮断してはどうか。報復には更なる報復である。「地球に優しく」等と日和っているから、付け込まれるのだ。
太古の時代、神とは畏れられ封印されてあったからこそ、奉られていたとの説もある。自然とは即ち神であり、畏れられていたからこそ畏敬の念で崇められたのではなかったか。故に祈りを捧げたのではなかったか。故により知ろうとしたのではなかったか。自然とは「触れ合う」と云ったものではなく、畏敬の念で「共存させてもらう」か、もしくは「戦い傷つけ合う」ものではないだろうか。
しかし設備の整ったキャンプ場でアウトドア気分に浸っている輩や、魂が解放されたと信じ込んでいる野外コンサートの出演者や客が、実はこれほどまでに「自然を無視している」事自体が、自然に対しての最高の報復ではなかろうか。という事は、私の方がよほど罠に嵌められているという事か。それどころか、そういう輩が増える程、報復の因果律は紆余曲折を経、気温は上がっていくと云う仮説さえ唱えられるではないか。結局 暑さに人一倍弱い私が、最もあおりを食らっている次第か。
(2001/8/5)