『人声天語』 第24回「回転寿司とラブホテル」

アメリカでのテロ事件の影響が心配されたAMTのUKツアーも無事終了。前回のUSツアーから10日経たずして出発した為、流石に今回の疲労度は尋常ではない。まして今や、1時間半強のステージで2曲しか演奏出来ないバンドとなってしまい、100メートルをダッシュするスピードで、マラソンの距離を走らされているかの如き。何故魂を削ってまで演奏しなければならぬのか。嗚呼、これがロックなのか。たかがロック、されどロック。「ロックは古い」だの「ポストロック」だの「はっぴいえんど最高!」だのとほざきくさる、この期に及んでも平和ボケしている若輩共には、宇宙が1万回滅亡しても決して理解出来ぬであろう。嗚呼、お前ら幸せやのう、ほんま。否、我々の方がもっと幸せか。

幸せと言えば、やはりツアーから帰って来て、久々に寿司を食す瞬間か。これを至福の時と言わずして何と言う。純和食党の私にとって、海外での食事はまさに地獄である。ましてやイギリスである。以前にも書いたが、世界で最も料理の不味い国である。同じ魚料理にしても「FISH&CHIPS」では、料理された魚があまりに可哀想ではないか。ラードで揚げた魚フライとCHIPS(英国人の主食である、所謂フライドポテトであるが、主食が揚げ物と云う時点で気持ち悪い事この上なし。因みにイギリスで我々の云う処の「ポテトチップス」はCRISPSと呼ばれる。日本で云う「ポテトチップス」は米語がルーツになっている所以。御存知であろうがアメリカではCHIPSはFRENCH FRIESであり、ヨーロッパではFRITTER、日本では勿論フライドポテトである。)の油っぽさは尋常ではなく、油切りもせずいきなり盛り付け、そのくどさを紛らわせる為に、上からビネガー(酢)をブッかける。揚げ物の技術自体もそれはそれは酷いもので、カラっと揚げる事が信条の我々には到底理解出来ぬ、「湯上がり」ならぬ「油上がり」とでも云うべき油でベタついた揚がり具合。、まるでタンカー事故で重油塗れになった魚と云った処か。

さて寿司である。私は俗に云うB級グルメなので、安いことが第1条件である。近頃は100円均一の回転寿司もネタが良くなり、行き着けの店も色々出来た。基本的に回転寿司では、私は10皿がひとつの自分の目安となっており、それ以上食す事は至って稀である。鯵、鰯、ハマチ、鮃(若しくはエンガワ)がまず基本。あとはその店のお薦めから選ぶ。カンパチ、シマアジ等もあればまず試してみる。また寿司屋の味噌汁は大抵絶品で、外れはそうそうお目にかからぬ。回転寿司では大概店内禁煙なので、煙草を誘発するビールは飲まず、ひたすら食う。眼前でただひたすら回っている故、自ずから何かしら皿を取らねばならぬと云う使命感に燃えてしまう事も、食いに走るひとつの要因であろう。養豚場や養鶏場ならぬ養人場を作るとするならば、まさしく回転寿司はうってつけではなかろうか。

よくよく他の客を眺めていると、回転寿司店内は一種異様な光景である。牛丼屋や立ち食いうどん等の様に、店内滞在時間が極端に短い事に象徴される、一気にかき込んで煙草も吸わず立ち去って行くような切迫感もなく、かと云ってファーストフード店内のように、軽音楽が流れごった返す喧騒の中、会話に花咲いているわけでもない。ひたすら回り続ける寿司を眺めつつ、機会仕掛けの様に皿を取り、黙々と寿司を食らう。寿司を頬張りつつも、若しくは茶をすすりつつも、常に回り続けるカウンターを凝視しており、その空気感たるや飽くなき食欲の極みと云った処か。回転寿司店内に渦巻く業突く張った強欲なエナジーは、ランチバイキング以上とも言える、一種空恐ろしいものであろう。

そもそも何故寿司が皿に乗って回っているのか。かつて初めて寿司屋なる場所に連れて行かれた折、注文するタイミングが判らず、板前に「兄ちゃん、わかってへんなぁ」と叱咤された。寿司屋で注文するには、店内全体の流れが掴めていないと、どうにも間が悪くなってしまう。しかし判ってくると、絶妙の間で注文するこの醍醐味こそが、寿司を食すひとつの楽しみにもなる。回転寿司では、これらの一種煩わしいプロセスが割愛されることで、純然と寿司を食らう事だけに専念させられる。客は店内全体の流れではなく、回転するカウンター上の流れのみを把握していればよく、更に自分のオーダーも、マイクを通しいつ何時でも通す事ができる。客と板前の絶妙な間の掛け合いなど、ここでは全く不毛でしかない。

人と人の駆け引きは、近年の戦争にも言えるように、かくも薄れて来ているのだろうか。かつて肉弾戦でポイントを占領することにより勝敗が決せられた筈が、今や空爆で壊滅的ダメージを与える事に終始する戦争形体になってしまっては、机上のゲームとさして変わらぬ。また音楽も然りか。DJ等の台頭により、別段楽器が演奏出来ずとも、レコードやサンプラー、コンピューター等を駆使する事で、インスタントに音楽を作れるようになってしまった。演奏者同士の駆け引きや呼吸等は、そこではやはり全く不毛なものなのであろう。何事に於いても、複雑で煩わしいプロセスこそが、私にとっては一番楽しい側面である。それを簡略化若しくは排除してしまっては、後で結果を手にする感慨や実感等も希薄であろう。プロセスが楽しいと云えば、やはり恋愛であるが、これも今や出合いサイト等の登場で、随分と変わってしまっているのだろうか。出会ったその日にセックスしてしまっては、何だか男女の情も薄そうである。

そう云えば、ラブホテルも今や一切他人と会わずにチェックイン・チェックアウト出来るようになって久しい。かつては、フロントのおばはんの「階段上がって突き当たりです」等と愛想のない接客で、会わせたくもない顔を突き合わさせられたものだが、やはりこれは利用者サイドの心持ちを配慮した結果か。混み合う週末の宿泊開始時間辺りに行くと、玄関ホールで多くのカップルがチェックイン待ちしているのと遭遇する。ここで見ず知らずの客を見ていると、何とも奇妙な気分になる。何しろ今から全員が行うであろう行為は、全く同じなのである。その為にわざわざここへ足を運んでいるのであるから。私はいつもこのような状況では、まず他人の連れている女性を見ては「こんな不細工な女と…?」等と感心することしきり。そして彼等の行為を想像してみては、「常に需要と供給は絶妙のバランスで存在している」ことを実感。しかし大抵のカップルは、チェックイン待ちの間、きまり悪そうに伏せ目がちに沈黙を守っている。お互い同じ行為に望むのであるから、別段今さら恥ずかしがる必要もないと思うのだが、やはりきまり悪いのか。確かに日本ではセックスを「秘め事」と云うように、決してオープンな感じで捉えてはいない。故に日本のエロ文化は、特有の陰湿な空気感を持っているのであろうが。

ラブホテルに、単なる宿泊目的で行く人間は稀であろう。大抵はその名の通り、セックスと云うひとつの命題を携えて訪れる筈であり、それを促進するかのようなインテリアやサービスも、勿論外国で云うモーテルとは全く異なるものだ。迸る性欲の処理と云うベクトルに向かって、究極に煩わしいプロセスを排除したのが現在のラブホテルの姿であり、これは食らう事のみに終始する回転寿司と、全くもって同じであろう。まして女性上位と呼ばれて久しい現在、かつて女性が行き辛い場所としての寿司屋と連れ込み旅館は、今や回転寿司とシティホテルへ豹変することで、大いに支持されている。また一種異様な程のありとあらゆる建築様式を折衷したラブホテルの異形ぶりと、無節操にありとあらゆる食材をもネタにしてしまう回転寿司のメニューの奇形ぶりは、その世相や時代をも飲み込み巨大化する点で一致すると言える。

ラブホテルと回転寿司、共に海外ではお目にかからぬ代物であるが(回転寿司は最近出来つつあると聞いたが)あれば利用価値はかなり高いであろうに。如何なる事に対しても飽くなき合理化を図る、日本人まさに恐るべし。しかし反面、不自由な故の愉しみと云うものもある。人生に於ける愉しみとは、実はそこではなかったか。合理的に整理された中を突っ走るより、無駄と思われる煩冗事の中を回り道する事こそ、人生の醍醐味だと思えるのだが。と云いつつも、回転寿司で寿司を頬張りラブホテルを利用する、そんな自分を振り返り「便利なことに勝るもの無し。」やはり回転寿司とラブホテルは、現代日本に於ける「煩悩の権化」であるのかもしれぬ。

(2001/11/09)

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