ようやくアメリカから荷物が届いたので、通販会員のみ対象のツアーEP通販受け付けを開始。これでまた雑務が爆発的に増える事になろう。1ヶ月ツアーに出ている間に、通販会員の新規申し込みが、何と100件以上も。その他、来年のツアーの用意や、リリース依頼、ツアー中は止めてあったにも関わらず送られてくる通販の問い合わせ等、400通にも上るメールの処理で、帰国直後の2週間は完全に潰されてしまった。その間、東京と大阪でのライヴ4本と、新しいギターソロ・アルバム1枚分の録音もこなした。ドメインも取得し、ウェブサイトの更新も行っている。更に春のツアー以来、買ったはいいが置き場所がなく溢れ返っていた500枚近いLPを収める為、部屋の大幅な模様替えまで敢行した。そう考えるとこの20日間、まあよく働いた方か。気付いてみれば、ツアー中に患った風邪も、今やほぼ完治している。
時間が経つのは早いものだが、世の中の流れも更に速く、タリバンはほぼ壊滅寸前であるし、WWFは知らぬ間にサヴァイヴァ-シリーズではないか。まだまだ先だと思っていたAMTとKINSKIの国内ツアーも間近。それどころか来年3月のUSツアーと4月のUKツアーのブッキングも、悠長な事を云ってはおられぬ時期に差し迫ってきているではないか。送らねばならぬマスターテープも、忙しさの余り後送りにしていたが、次第にそんな事は云うてはおられぬ処まで追い詰められてしまった。
そしてもう12月は目の前か。何とも1年とは、かくも短いものなのだろうか。確か去年の今頃は、AMTのヨーロッパ/アメリカ・ツアーの真っ只中ではなかったか。あのアムステルダム駅で凍死しかかったのは、もう1年も前のことなのか。しかし一方で、今年は海外ツアーに3度も出掛けたせいか、逆にもう随分前の事のような気もする。
ツアー中の1日は、果てしなく長く感じる。朝早くから起きて次の街へ移動し、クラブに到着すれば演奏し、後は寝るだけの毎日を繰り返すのみではあるが、1日に色々な事が起こり過ぎる故か、兎に角長い。演奏を終えてみれば、その日の朝など遥か忘却の彼方。それに引替え、普段の日常生活に於ける1日の何とも早く短い事。朝早く起きているにも関わらず、膨大なメールのチェックで午前中いっぱいを費やし、僅かでも気を抜いてテレビやビデオでも観ようものなら、あっという間に夕方である。そして1日のやり残した事をやろうとしているうちに深夜となっている。内容が薄ければ、時間とはかくも希薄に無情にも流れてしまうものなのか。
されど退屈な時間は、全くもって蝸牛の歩みの如く、永遠ではないかとさえ疑いたくなる程、経過せぬもの。逆に、時間に追われる時などは、一瞬にして時間は経過してゆく。如何なる理由で同じ1分が、斯様にも伸縮するのか。すると人生ずっと時間に追われる者は、同じ人生80年としても、一刹那の如く走り抜け、暇を持て余し退屈至極な人生を送る者は、永遠のような時間に身を委ねているのであろうか。
今年も本当に忙しかった等と1年を振り返るには、まだ時機早焦であろうが、本当にここ最近に於ける1年が経過する速度は、かつての3ヶ月か半年かといった塩梅か。年を重ねる度に早さを増すのであるから、このまま百歳ぐらいまで生きれば、1年は1週間ぐらいに感じられるやもしれぬ。もしくは極限まで達した末、「永遠」なんぞと感じるやもしれぬ。ただ無闇に年を重ねるだけであろうとも、とことん生き続けるだけで辿り着ける境地はある筈であろう。
しかし私には、敢えて掲げる我が人生に於ける座右の銘がある。「角はとれても丸くはならぬ。」無情にも流れる時間に対し、私が出来得る唯一の僅かな抵抗であろう。
某俳優などを久しぶりにテレビで見かけると、随分老けたものだ等と思ってしまうが、よくよく考えてみれば、私が彼に馴染み深かったのは、もうかれこれ20年以上も前の事であり、当事30歳ならば現在50歳であろう。老けていて当たり前で、自分もまた当時から20年もの歳をとっていて然りなのである。しかし私は、彼を四六時中再放送等でしか観ていなかったばかりか、彼のこの20年間の活躍を全く知らぬせいで、いきなり老けたかのような錯覚に陥る。そして決まってそれに気付いた時、人生と云う時間の短さを思い知らされる。
今、私のライヴに来ている18歳の高校生が、いずれ今の私と同じ年令36歳に達した時、即ち2019年には、私は54歳ではないか。果たしてその時、私はどんな風であろう。思い返せば18歳から36歳までの私の人生は、勿論色々な事があったが、さほど長い時間ではなかったように思える。それと同じだけの時間を彼が体験し36歳になった時点で、私もまた、同じだけの時間を過ごす事になる。否、それどころか年を重ねるごとに時間は加速していくのであるから、体感時間はより短くなると云う事か。私は少なくとも200歳までは生きる所存ではあるが、仮に人生80年とするならば、更に次の18年間で、私の余命は残す処6年と云う計算。
そう思うと人生は、本当に一刹那の出来事のようなものかもしれぬ。未だ結婚した事もなければ、子供を設けた事もなく、大した事を成し得た訳でもない私の人生で、次の18年間で何が成せると云うのだろうか。「何も成せぬのが人生だ」等の慰めは不要、せめて私に出来そうな事と云えば、全てを捨てて美女との恋に溺れる程度か。それもまた楽しかろう。何につけても、予想出来てしまう未来等、こちらから願い下げたい。
「音楽を演る為にこの世に生を受けた」等とは、さらさら思いたくもない。やはり音楽は自分にとって、天から与えられた使命かもしれぬが、それと殉死する程私は馬鹿でありたくない。
かつて付き合っていた女性に「私と音楽とどっちが大切なの?」と詰問され、迷う事無く「音楽」と即答した事があったが、「君だ…。」と私に言わしめるような女性ではなかっただけではなかったか。もしも私に音楽さえも捨てさせる程の女性が現れたなら、それこそ私にとっての「至上の愛」であり「至福の歓び」であろう。以前は「女如きで人生を左右される男など男ではない」と信じていたが、全てをも捨てられる程であれば、それこそその姿は「男の中の男」かもしれぬ、等と今は思えてしまう。
「角はとれても丸くはならぬ」と云う私の人生に於ける座右の銘も、年相応に解釈が変わりつつあるのか、まかり間違えば、音楽と殉死しかねぬ今の生き様で、やはり自分の天使を見つけたいと思うのは、至極当然な事であろう。人間やはり冥府魔道には生きられぬ。
タイムオーバーになる前に、私の天使は降臨するのか。しかし面食いを自称する私としては、勿論私の天使は究極の美女であらねばならぬ。そんな強欲張った事をホザいている限り、音楽と殉死するのは避けられそうになさそうか。しかしこれだけは決して妥協出来ぬ相談だ。ここを譲っては、何の為の人生ぞ。 やはり「角はとれても丸くはなれぬ。」
(2001/11/21)