『人声天語』 第26回「嫉妬という名のエゴ」

JFK暗殺と同じ11月23日午後、永らく愛用していたミキサー永眠す。そもそも既に16chの内、7chは完全死亡、5chは晴れ時々死亡、と云った具合であったし、マスターアウトもLが、更にモニターアウトもRが、各々完全死亡。仕方なくマスターアウトとモニターアウトの各々生存していた方同士を利用して、何とか強引にステレオ・アウトを稼いでいたのだが、遂に生き残っていたモニターアウトLの完全死亡と云う不慮の出来事により、一切の録音作業は今後暫く遂行不可。否、モノラルならば、唯一の生存フェーダ-であるマスターアウトLを使って出来ぬことはないか。尤も死亡原因は、フェーダ-の接触不良に怒り狂った私の鉄拳制裁であると、至って容易に推察出来る。機械の分際で人間に楯突くとは何事ぞ、その一語と共に降り下ろした鉄拳が、見事内部断線を引き起こしたようで、後はただブ-ッと云うノイズを空しく発信するのみ。かつての鉄拳制裁により、隣のマスターアウトLのフェーダ-は、陥没している上にひん曲がっている。

イラチの私は、機械の不調に対し、鉄拳制裁を加える事が非常に多い。今まで一体どれほどの電気器具を破壊してきたか。ビデオデッキやCDプレーヤー等言うに及ばず、カメラ、DATデッキ、時計、電話器、エフェクター、シンセサイザー、洗濯機、挙げ句の果てには、運転中に不調のカーステを蹴り飛ばし、完全破壊してしまった経験さえもある。近頃では、時折フリーズするiMACにも鉄拳制裁を加えるまでに。またマウスのケーブルの接触不良でカーソルが動かなくなるや、マウスは机に完膚なきまで叩き付けられる。
それにつけても、機械の分際で人間に楯突くとは、一体どう云う所存なのか。それはやはり機械としては、万死に値するであろう。しかし背信の機械を処刑後、逆流し高沸した血流もすっかり日頃の穏やかさを取り戻し、そして其処はかとなく押し寄せる後悔の念に苛まされる自分自身の姿こそ、嗚呼あまりに情けなや。

たかが機械が言う事を聞かぬと無性に腹の立つものだが、これが人であると、私は諦観の境地にいとも簡単に立ててしまうから不思議である。
例えば、バンドでメンバーが突如辞意を表明した時、彼女が新しい恋人が出来たから別れたいと切り出した時等、斯様な事柄は、全くもって微塵も腹立たしく思わないし思えない。他人の心持ちなど、一切どうする事も出来ぬ。逆に未練がましく泣き落としてみたり、往生際悪く懇願する等、斯様な醜態を曝したところで全く何の解決にもならぬ。結果、嫉妬心と侮蔑感が双方複雑怪奇に絡み合い、挙げ句の果ては罵り合って終わりであろう。去るものは去れ。ひとつの終わりはひとつの始まりであり、森羅万象全てのものはうつろいゆくのであるから、これも至って「さもありなむ」と云った処か。

そもそも私は、どうやら「嫉妬心」などと云うものを持ち合わせておらぬようで、特に女性に対しては全く皆無である。未だかつて、嫉妬なるものに燃えた事も苦しんだ事もない故、嫉妬とは如何様な心持ちなのか等、全くもって知る由も無い。況んや何故に嫉妬するのかさえも、端から理解出来ぬ始末である。
そもそも自分の付き合っている女性が他の男性を好きになろうが、斯様な事は彼女の勝手であり、他人の私がとやかく口を出すべき問題ではない。それでも尚且つ彼女が一緒に居りたければ居ればよいし、私の元を去りたければ去ればよい。彼女の人生は彼女自身のものであり、それ以外の何ものでも無い。私が彼女の人生に対し、一切干渉する権利も無ければ、何かを背負わねばならぬ責務も無い。そもそも既に心変わりしてしまったものに対し、私如きに一体何が出来ると言うのだ。この時点で、彼女の自分に対する興味は既に失せているのであろうから、これはどの道いずれは起こり得たことであり、さすれば諦観の境地に立つ以外に為す術は無かろう。

そして嫉妬である。ここの一体何処に、嫉妬なんぞが生まれる余地があるのだろう。相手の心持ちと立場を全て尊重しておれば、嫉妬などが介入してくる筈は無いと思える。そもそも人間なんぞ、皆各々ひとりであり、いくら親しくとも所詮所謂他人が、自分の思い通りになろう筈も無く、ましてや自分の所有物になんぞになる道理も無い。どうして斯様な当たり前の事が誰も理解出来ぬのか、私にしてみれば、その方が余程不思議である。私よりもより立派な人格者且つ道徳心満ち溢れる輩ですら、この不条理としか思えぬ嫉妬に狂う様を曝すのであるから、私にしてみれば、尚のこと理解に苦しむ。他人に何らかの期待をする故、些細な事で疑心暗鬼に陥り、挙げ句斯様な苦しみを味わうのであれば、一切何も期待せねばよいではないか。そもそも他人に対する期待など、自分自身にとって好都合なエゴ以外の何物でもない。異性のことに限定すれば、仮に相手の全てを受け入れておれば、自分を愛してくれる事も、自分から離れていく事も、全く同じように受け入れねばならぬ。前者は受け入れるが、後者は認めないなんぞ、それをエゴと言わずして何と言う。愛は決してエゴではない。もっと大きなものであろう。もしここを皆が認め合えれば、より皆全員が幸せになれると思う次第であるが。

しかし機械となれば話は別である。そもそも私が自腹を切って購入したものであるから、これは明らかに私の所有物であり、また機械が心変わりして、私に愛想を尽かすと云うこと等あろう筈がない。にも関わらず不調になったりすれば、その時の憤りは半端なものではない。勿論、時には極刑も辞さぬ所存だ。
しかしならばである。もしSF小説に出てくるような美女アンドロイドを購入した際は、一体どうなのであろう。その時初めて私は「嫉妬」に悶え苦しむのであろうか。嗚呼、挙げ句の果てに美女アンドロイドと無理心中では、自分自身で泣くにも泣けぬは。

(2001/11/24)

Share on Facebook

Comments are closed.