法政オールナイトから帰宅。やはり東京は肌に合わぬ。文句を言い出せばキリがないので止めておくが、東京駅の野菜カレー780円は高すぎる。駅で食事を取るという場合、大抵やむを得ぬ事情なのであるから、せめて阪急カレーぐらいの値段設定(と言えど足繁く通っていたのは17年も前の話であるが)が望ましい。ましてや中途半端なグルメ指向など言うに及ばず。
やはり東京へ行くと体調不良に陥るようで、今回もリハ前より猛烈な偏頭痛に見舞われ、薄情にもトリの浦邊氏を見捨てて居酒屋へ飲みに行くまで、延々と苦しめられた。されど来年は、東京でのバンド形体での演奏は、原則として一切行わない所存なので、東京へ行く事も稀になるであろうから、斯様な苦しみとも暫しオサラバといった処か。
今回、投宿先から東京駅へ送って戴いた車中より、生まれて初めて東京タワーなる名所を拝見。イメージしていたよりも随分小さく貧相で、「ではモスラの繭もさして大きくなかったのか」と思う事頻り。しかし快晴の青空を背景に聳え立つ東京タワーは、やはり余りに東京的であり、この何とも言えぬ空虚な匂いは、幼少の頃より慣れ親しむ、スモッグに被われた灰色の空にそそり立った通天閣とは、明らかに異なる。ましてや、いちびってライヴ後にわざわざ訪れた、深夜にも関わらず観光客でごった返す、ライトアップされたエッフェル塔とも全く趣を異にする等、言う迄もない。この多分に東京の持つ一種特有の息の詰る空虚感、たとえこれが昼間見る場末の飲屋街の閑散とした景色であろうと、やはり阪急東通商店街のそれとは全く異なり、さてまた山手線と大阪環状線、同じ都心ループであろうとも、若しくは同じ駅に溢れる雑踏であっても、やはり斯様な違いを感じずにはおられぬ。兎に角エスカレータは左を空けろ。何しろ東京の雑踏の歩みの遅さと云えば、イラチの私の憤慨著しく、その中を歩む私の顔は、差し詰め「ギターを抱えた怒る大魔人」と云ったところではなかったか。
さて今回は、新幹線車内での退屈凌ぎに、野坂昭如氏の著書「エロトピア」などを読んでいたのであるが、そもそも今日迄、私は随筆なるものあまり好んで読む事等なかったのだが、先頃よりこの「人声天語」なる拙文をしたため始め、どうにも自分の文章力の無さと内容の貧困さを、今さらながら痛感するや、直木賞作家たる氏のプロの文章と切り口なるもの、僅かならずも参考にさせてもらおう等と、烏滸がましくも思った次第。いやはや氏の饒舌ならぬ饒筆ぶりに対し、今さらながら、我が文章の稚拙ぶりに赤面を通り越して呆れる事しきり。厚顔無恥にも、文章を書く事は得意なつもりではあったが、だからと云って文学を志した事等一切無かった訳であるから、所詮は所謂素人手習いの域での事。ましてや昨今、物忘れの激しさは日を追って増すばかりで、語彙力乏しくなりにけり。やはりただ文章のみで全てを語らねばならぬ事の難渋さは、書けば書く程知らしめられる事で、まして日本語に於ける語彙の数の多さはと云えば、その豊富な表現力とは裏腹に、かれこれ三十余年も日本語を使ってきたにも関わらず、使いこなせるようになる前に寿命が終わりそうな程ではないか。かつての文語体などに至っては、日本人であるにも関わらず、全くもって手も足も出ぬ。せめて「好きこそものの上手なれ」と云った塩梅で、僅かながらも古文作文が出来る程度か。
最近話題になった文学作品等に、ちらちらと目を通してみても、勿論どれほどの本を読んでいるか等と問われれば、多忙を極める昨今、さして読んでいると云う訳ではないが、今さらあまり感銘を受けるような文章にはお目にかかれぬ。事象を表現する為の言い回し等、なかなか興味深いものは多々あれど、本来微妙なニュアンスさえもフォローし得る筈の日本語の語彙が溢れる文章には、とんとお目にかからぬ。はて一体いつの頃よりそんな風潮になってしまったのか。音楽、美術等、全ての事に当て嵌まるとも思えるのだが、素人とプロの境界線が曖昧になった昨今、本来あるべき「プロならではの仕事ぶり」が失われてしまったのではなかろうか。かつてのヘタウマではないが、素人の手による偶発的アイデアと稚拙さが一致した時の勘違いが、これら素人をのさばらせ、挙げ句はプロの領域までも侵食し、片やプロは前時代の遺物と化すか、若しくはそれら素人に倣う等と云う愚行に走った結果であろう。
そもそも「新しい」等と云う、全くもって作品の優劣の基準にはなるべくもない阿呆な価値判断の基準が、全てを堕落させているとしか思えない。勿論、新しい中にも素晴らしいものはあるだろうが、今や「新しい」の一語のみに右往左往するこの飽くなき情報化社会に於いて、「古き良きもの」などは、せいぜいただの回顧趣味でしかない。
では一体、そういう自分はどうなのか。
そもそもプロとは、その道を極め生業にする者のことであろうから、他の仕事を持たぬと云う、至って背理法的見解からならば、私は一応プロの末席にいることになる。しかし今、新進のプロのロックミュージシャンと呼ばれる人種を見渡せど、その道を極めていると思える輩等、至極僅かであろう。否、プロのポピュラー音楽家は、星の数程巷に溢れているだろうが、新進のプロのロックミュージシャンなどいるのだろうか。況んや「メジャーレーベルと契約している者」と更に定義を狭めれば、ほとんど居らぬのではなかろうか。
私にとって、ロックとは「生きざま」の意であるから、そのまま直訳すれば何とも胡散臭い「プロの生きざま職人」となってしまうが、つまり「自分の生きざまを全て露呈することで金銭を得る社会的落伍者共」が、私にとってのプロのロックミュージシャンであり、それ即ち河原乞食であり、結局ロックは河原乞食芸能でしかあり得ない。
しかし今やロックミュージシャンを気取っても、河原乞食などと蔑まれ卑しまれる訳ではなかろうから、やはりお気楽な素人衆が、これまたお気楽な音楽をロックと称し垂れ流しているこの飽食の時代に於いては、生きざまを曝した、時には悲痛な程のロックより、お気楽な似非ロックの方が人々にはもてはやされ共感されるようである。
否しかし、一聴瞭然にお気楽ロックと判別出来るものならばまだしも、似非河原乞食ロックなるは、より一層タチが悪かろう。これぞまさしく、本物か偽物かの判断し難い食わせものであって、偽せの生きざまを曝す不届き者の為す技である。されど今や娼婦紛いの素人が闊歩する時代にして、小遣い欲しさの女子高生が、何の躊躇もなく春をひさぐ世の中で、似非河原乞食の横行なんぞは当然至極、これも時代の為せる事か。
はて、私は音楽の道を選んだ事から結果、なるべくして社会的落伍者と云う烙印を押されてしまったわけだが、これも端から社会的落伍者として生まれ落ちた側から見たとするならば、私もやはり似非河原乞食なのか。
「如何なる道も、踏み入るは易し、極めるは難し。」
(2001/11/25)