『人声天語』 第28回「男と女と東と西と」

先日より不機嫌さを露呈していた我家のiMacのマウスが、遂にストへ突入。「我家へ来てたかが1年余の新参者の分際で何が不満か」と、私の逆鱗に触れ、床へ投げつけられれば、木っ端微塵に呆気無く成仏召された。合掌。と云う顛末で、マウスの新調を余儀無くされる羽目に。ツアーで稼いだ金銭も知らぬ間に底付き、嗚呼、金とは一体何ぞや、等と哲学的な思索にうつつを抜かしていれば、知らぬ間に市街電話がかけられぬ有様。先日譲り受けた新しい電話器が、LCR2なる鬱陶しい機能を兼ね備えており、何でも自動的に何処ぞの電話会社の回線を選び使用していたとか。契約した心づもりも無き者が、理不尽極まりない電話器の横暴で身に憶えもない電話会社の利用顧客にさせられてしまっていた等、全くもって良識ある社会の一端を担うべき企業にあるまじき行為と、早速その電話会社へ抗議の電話を差し上げた。しかし応対に出た受話器の向こうの美声の君に、如何程マイラインなるものが得かなるを、延々と説明されるうち、申込書を送ってくれと頼む自分の不様さに呆れ果てる事頻り。成る程、よくよく電話口に女性が置かれる必然性を、今さらながら我が身を呈し納得。しかし女性と云う存在が秘め持つ一種の販売促進効果たるや、想像するに余りある。以前もエロとの関連性については、少々語ったと思うが、更に女性全体と云う定義ともなれば、それはもうあまりに広義過ぎて、私なんぞの薄学識では到底語れぬ。ただ世に云う男共は私も含め、兎角女性と云う偶像に滅法弱い。

そもそも万事に於いて、女性は、熱狂しやすく一方で覚め易いようで、片や男性は、いつまでも未練がましく永きに渡り燻り続けるかの如き。これぞ女性のマニアやら男性の追っかけが少ない所以か。
はて、AMT若しくは私が出演するライヴとは、何故に女性客が居らぬのか。海外に於いては、状況の違いもあり、女性客も相当数いるのだが、国内はと云うと、実にむさ苦しい客筋なのである。身の回りの知り合いのミュージシャン達には、どうやら必ずや少なくとも数名の「追っかけ」と自称する熱狂的な女性ファンがいるようで、彼女等はまさしくその名の通り、彼等の大抵のライヴに於いて出没するそうな。それがヴィジュアル系なんぞならばいざ知らず、アヴァンギャルドと世間で呼ばれるアングラな世界でさえ存在している事に、一種の驚きを隠し得ぬ。その実態たるや勿論私の知る処ではないが、いやはやこれではいずれ、アングラ系明星や平凡も刊行されるのではないか。彼女達が自室の壁に付録のポスターなんぞ貼り、麗しのミュージシャンのCD等聴きつつ、その御尊顔を眺めうっとりしている様を思い浮かべ、まさしく今こそ多種多様の趣味嗜好があってもいいのだ、等とその説明付けを「時代性」に摺り替えてお茶を濁す辺りが関の山か。
しかしである、何故私の出演するライヴ会場には、斯様な空気が漂ってはおらぬのか。仮に会場にそれらの類いの姿があっても、それはその日の共演者目当てであり、何とも私とは一切関係なし。「求めよ、されば救われん」ではないが、今や日本の女性にほとんど興味を失いし我が嗜好は、それを充分に悟らせるだけのオーラたるを放射しているのであろうか。そもそも女性側から見れば、髭と長髪などと云う、間違えても爽やかとは言い難い身なりにして且つ仏頂面、口を開けば巻舌交じりの関西弁にて悪口雑言の限りを尽くし、さて今更何を宣うか、と云った処か。

斯く云う私も海外に赴けば、些か満更でもない様で、日本国内では奇異の目でしか見られぬこの髪型も、「Great hair!」等と道ですれ違う御夫人方にさえ称賛され、時には「You’re so beautiful!」等と、直訳すれば気恥ずかしくなるような甘い言葉を紅毛碧眼の女性に囁かれる事さえある。特にラテン系ヨーロッパに於いて、長髪や髭面など然程珍妙でもなく、日本国内に於いてありがちな、奇異の目で見られる事等まずあり得ぬ。それどころか、心象至って宜しい様子。かつて「斑鳩の諸星あたる」の異名をとる程のハーレム至上主義であったればこそ、此の地に我がハーレムを建立すべきか等と、忘却の彼方に在ったかつての切なる浅はかな想い、今再び蘇らん。

海外に於いて、紅毛人男性の云う処によると、彼等は日本人に代表される東洋女性が、此の上なくお好みらしく、特に、至ってモンゴロイド的な、所謂切れ長の目に平面顔且つ黒髪なる容姿に、紛う事無く「美」を感じるらしい。私から言わせれば、「美」とは先天的絶対的価値観に裏付けられており、人種問わず、やはり彫の深い紅毛碧眼の美女なればこそ、万国万人共通の絶対的「美」だと信じて疑わなかったが、いやはやこれこそ事実無根、世界は至って平等に形作られているものなのだと、此の期に及んで認識も新たに。
さて、確かに海外でお見受けする、如何にも観光客風情の態を除けば、日本女性は九分九厘、この「美」の法則と見事な程一致する。今の日本国内に於いて斯様な姿はまさしく旧態依然、多分に垢抜けぬ野暮な具合であろうが、相対的に東洋のエキゾチズムをアピールし得る彼の地に於いて、それは大いに理に適っているのであろう。我々はツアーの折、彼女等の事を「輸出仕様」と蔑称しているが、まさしく国内での需要は皆無であろう。察するに、彼女等は自らが国内で需要無しと逸早く悟るや、自らが求められるべき別天地を求めたのではなかったか。また、その決断力と迅速な実行力こそ、海外生活に於いて、日本人が最も必要に迫られるものであり、また本来日本人に欠如している弱点の一つである故、既に日本を発った時点で彼女等は、海外での生活を営めるか否かの試験を見事パスしたと言えよう。まさしく彼女等は住むべくして、彼の地に住んでいるのであろう。
また此の地であまり日本男性を見かけぬ事は、さながら日本男児の弱さの露呈か。元来哀しいかな、紅毛碧眼の女性に対し気後れする上、紅毛人に対するコンプレックス等もある様子故、「輸出仕様」とはなかなか相成り難いのかもしれぬ。そもそも自国の街角に於いて、突如英語で話し掛けられ困惑するや、へらへらと薄ら笑いを浮かべる辺り、如何にも日本人の弱さを露呈していると云えよう。フランス人の如く毅然とした態度で、英語を解する解さぬに拘わらず、お構いなしにフランス語で応対する図太さの如きを、生憎日本人は持ち合わせておらぬのか。否、中国人や韓国人等に対しては如何なものか。えてして日本人のケツの穴の小ささから推察するに、平然と日本語で応対するやもしれぬ。日本男性がフィリピンやタイ辺りの女性にしか走れぬのも、斯様に考えれば至って容易に頷ける。

そして私であるが、紅毛碧眼の女性に心象が良いと云う事は即ち、今迄全く無自覚ではあったが、果たしてやはり「輸出用」と云う事に相成るのか。知らず知らずの内に、何となく海外に活動の場を移してきたのも、私の中に眠る「輸出用」としての先天的本能の為せる技であったのだろうか。と云う事は、差し詰め海外で私もいずれ「輸出用」と後ろ指を指される運命なのか。確かに今でさえ、海外にて日本人観光客等と遭遇すれば、奇異の目で見られる事は否めぬ。
しかし自分で云うのも何だが、我が顔立、然程所謂モンゴロイド系だとは思えぬが。
以下類推するに、日本男性は東南アジア系へ、紅毛碧眼男性はアジア系へ走る、それは至って侵略の歴史的背景を伴う征服感に裏付けられたものではなかろうか。ならば女性の場合はその逆と云えるのであるから、故に日本女性は紅毛碧眼を求め、では紅毛碧眼女性は何とする。侵略の歴史的背景を考慮するならば、唯一ヨーロッパを侵略したオスマントルコと云う事になろう。そう云えば思い当たる節が無くも無く、かつてトルコへツアーした際、トルコのカルト教団アディスメンデ教徒と至る所で間違われ、大層難儀した覚えはある。またフランスでTGVの駅や車中に於いて、何故だかイスラム教徒に拝まれた事も2度や3度ではない。かつて英国女性と結婚していた友人も、まるで混血児かと思わんばかりの彫の深い中近東系の顔立であった。

しかし結局、女性と云う偶像を征服せんと思いし男性こそ、実は女性の計り知れぬ母性の大海で弄ばれているに過ぎぬのではなかったか。
もし仮に、人類史上の侵略戦争を女性が行っておれば、今の世界地図は如何な有様であったろう。
「天ハ男ノ上ニ女ヲ造リ、男ノ下ニ女ヲ造ラズ。」
されど尚、我がハーレム建立の夢潰えず、美女共侍らせ千夜一夜物語など傾聴し得れば、これぞまさしく男子の本懐。

(2001/11/30)

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