記録的大雪の雪解けと共に、私も昨年の暮れから続くバイオリズムの悪さを払拭せんと、手始めに3月~4月のUS/UKツアー・ブッキングの詰めやら、すっかり滞っていた録音作業を開始。先日購入したLowpass Filterをギターソロの録音に試してみたが、いい感じに音作りが出来た。ギターについても、今迄陽の目を浴びる事なく分解され放置されていたボディやらパーツと、何とかリペア出来そうなネック1本から、見事1本のストラトキャスターを作り出す事に成功。これで当面の録音については、このギターで急場は凌げるであろう。取り敢えず今月中旬までに、5本のマスターとジャケットを上げてしまわねばならぬ故、暫く廃人と化して惰眠を貪っていた分を一気に取り戻さんと、いきなり不眠不休の臨戦体制。やはりこれぐらい緊迫している暮らしぶりの方が自分らしいと、今改めて思う。まずは2日間をもってギターソロ・アルバムの録音及びミックス完了。今年は昨年以上に、ソロに重点を置いた活動を繰広げる所存。バンド活動に終始すると、無性にソロがやりたくなる。何事もバランスであろうが、普段バンドで活動するせいか、バンドを離れれば、他人とセッションするよりも、自分一人でじっくりと音楽を追究する方が楽しい。また皆で旅をするのも一興だが、一人で旅をする楽しさは言わずもがな。バンドとソロ、どちらも自分にとって不可欠なれば、うまくバランスを取って活動していきたい。
さて録音作業の手を休めて、気分転換にこの「人声天語」を徒然なるままに書き綴っているのだが、耳休めとしてのBGMは、大抵オクシタントラッドである。基本的に自宅では、「Killer Fuzz」と呼ばれる類いを聴く事は、まず稀である。「やかましい」音楽は、演奏するだけで充分であろう。また純然たる古楽としてのトルバドールは、余りに響きが淋漓な為、気軽にBGMなんぞには出来ぬ。その点オクシタントラッドは、より世俗的な響きであり、また私のこよなく愛するトルバドールのメロディーを当然内包する為、最も聴き心地よろしくBGMに適している。またはアシッドフォークの類いもよろしかろう。兎に角アシッドフォーク特有の「今にも死にそうな女々しいヴォーカル」と、「籠りまくった音質の悪さ」が、たまらなく心地よい。その他、ムード音楽やらサントラやらミニマル系やらが、ヘヴィローテーションしているが、やはり始めからBGMとして作られたものは、BGMに適していると云う、至って簡単明瞭なる結論からか。
BGMと云えば、我々の酒宴に於いても欠かせぬものであり、時にはそのレコード1枚が酒の肴ともなって、至って真面目な音楽談義等にも繋がる事も稀ならず。しかし何故か宴の締めくくりは、ABBAだったり、俗に云う「カス」であったりする。いやはやその頃には、すっかり夜も更けほろ酔い心地なれば、時には何故か深夜3時に「自宅ディスコ」状態となり、全員でABBAやらの類いで踊り狂い、挙げ句の果てに酔いが回ってぶっ倒れて寝る、という塩梅か。
近日中に、新コーナー「MAKOTO’S LISTNING ROOM」なるを、当WEB MAGAZINE上にアップする予定。これは唯、普段私が自宅で聴いているものを、週変わりで3枚ずつピックアップして紹介すると云うだけのコーナーで、一応MP3で「さわり」程度は聴ける予定。
そもそも通販のオーダーに際し、「好きなアルバムを10枚挙げてくれ」だの、ひどいのであれば「100枚挙げてくれ」だのと手紙を寄越す輩が後を断たぬ上、ツアーでの滞在先に於いても「Do you like this one?」だのと云いながら、御親切にも私の嫌悪感を爆発させるような代物を聴かせてくれたり、ファズギターを弾くからと云う理由のみで、眠たいばかりのライヴ後の夜更けに、大爆音でやかましいハードロック等聴かせられた折には、怒り心頭怒髪天を突く限り。せめて気を利かせてレコードをかけてくれるのであれば、予め私の趣味嗜好を知っておいてくれた方が、双方笑顔満面とならん。そもそも斯くなる個人的事情からこれなるアイデアが浮上したのであるが、勿論このコーナーを機に、何か新たに好きな音楽を見つけられたり、再発見出来たりしてもらえれば、私としても嬉しい事この上なし。私はマニアではない為、そのレコードに対する蘊蓄のひとつも書けぬ故、タイトルとジャケット写真、そしてもし興味を抱いた御仁が購入しようと思いし際のガイドとして、レーベル名程度の情報を記載するに留まるが、まあこれも単に「私の部屋に遊びに来た」程度の感覚で捉えて頂ければ幸いである。時折、私の私生活に関して、かなり突っ込んだ興味本位の質問を寄せる輩が居られるが、この「人生天語」と「MAKOTO’S LISTNING ROOM」で、ほとんど全て赤裸々に曝け出しているようなものなので、今後は勘弁願いたい限り。
得てして人と云うものは、他人の何かしらが何故か気になるようで、況してや自分が気になる誰かしら(ミュージシャンやら俳優、その他著名人、若しくは隣人、知人、友人、片想いの相手に至るまで)に於いては、「一体普段どんな暮らしを送っているのか」と云う漠然とした疑問等言うに及ばず、「どんな音楽を聴いているのか」「どんな映画や本が好きなのか」「どんなものを食べているのか」「どんな家に住んでいるのか」「どんな姿で寝ているのか」「どんな友人がいるのか」「どんな奥さん若しくはガールフレンド(旦那若しくはボーイフレンド)なのか」「どんな少年(少女)時代を過ごしていたのか」「どんな両親なのか」「母親から何と呼ばれているのか」「初体験はいつだったのか」更には「どんな性生活を送っているのか」「避妊はするのか」「フィニッシュは中出しなのか」「やはり顔射ではなかろうか」「やはりアナルにも入れる(入れられる)のか」「もしやSM嗜好者ではなかろうか」「それとも不感症ではなかろうか」「はてオナニーなんぞするのか」「実は同性愛者ではなかろうか」「果たして性的不能者ではなかろうか」挙げ句の果てはアイドルに抱くかの如き「本当にウンコはするのか」等の愚問に至る迄、枚挙に遑ない。(最近某掲示板にて、灰野敬二氏の私生活について色々取り沙汰されていたが、それもまた氏の音や容姿言動からイメージされるミステリアスな側面が、当然氏ですら一般的な社会生活を営まねばならぬと云うリアルな側面と、一致し難い所以であろう。)
そして詰る処、それらミュージシャンの写真やらインタビューやらから、色々想像を巡らせてみては、自分の中で手前勝手にそのミュージシャンの偶像を築き上げていく。されど一度でも自分にとっての偶像を否定せんとするエピソードやらが露見すれば、斯様な事あろう筈もなしと、その事実に目を閉じようとし、それでも偶像を否定せんとする事実尚も発覚するや否や、いきなり敬愛せしミュージシャンにありながら「彼奴はもう終わった…」等と宣いくさる。当のミュージシャン本人にとっては斯様な事、不条理極まりないであろうが、人とは所詮、自分に都合が悪くなってくると、至って斯様な対応をするものである。十代の頃の私自身もまた然り、当時はレコード以外の情報等僅かなれば、贔屓のロックミュージシャンに対し大いなる幻想や虚像を抱くあまり、生き長らえた故に失望させられたミュージシャン数多く、得てして早死にせし伝説となりし輩についてのみ、それ以上の醜態を曝さぬ程に、さして失望させられた例しもなかったが、されど生き長らえたが故に、醜態を曝してしまうと云うのであれば、生き長らえる事程哀しい事はないであろう。
ではこの際、始めから全て曝してしまう方が、得策ではないのか。 況んや所詮ロックである。生き恥も含めた「生きざま」なるを曝す事こそロックなれば、今更隠しだてする事なんぞあろう筈もなく、まして他人が抱きし虚構としての偶像なんぞ、当の本人にとっては実は至ってどうでもいいことである。当の本人がカリスマとしての偶像なるを築き上げようとすればこそ、隠しだてせねばならぬ事も色々あろうが、ロックに於けるカリスマ性なんぞは、本来ステージ上で築き上げられるもので、自らが画策するべきものではない。ロッカーたるもの、虚構の中でしか生きられぬアイドルにあらず。
されど人は、結局はロマンを追い求める故、やはり劇的な大河ドラマ的人生を駆け抜けた早死にロッカーや、ミステリアスな神秘的雰囲気を漂わせる、若しくは胡散臭さ漂いしも其所にB級なカルト性を感じてしまう怪し気なミュージシャンの姿にどうしても惹かれ、虚像としての偶像を築き上げたくなってしまう。下らないありふれた然して自分と多分に変わらぬような日常を曝された処で、斯様な処には一片のロマンさえ感じられよう筈もなければ、何の虚構も偶像も生まれよう筈がない。
とは云えど、一度自ずから築き上げたカリスマ性を維持する事も、また至難の技であろう。差し詰め先だってのK-1対猪木軍に於けるアントニオ猪木の三文パフォーマンスに至っては、呆れ返る以上に「哀れさ」のみが漂っていたが、それでも尚「闘魂伝説」を信奉する輩には充分なる効力を発揮し得たのか、ファンは一同狂喜乱舞、全てを曝けて捨てているように見せつつも、最後の首の皮一枚は残す猪木の「せこさ」には僻々するが、それこそ彼がカリスマ性を保持し続けられる所以であろう。何しろ、せこい日本人の中でも特にせこい人種である「プロレスマニア」なんぞを相手に、かれこれ30年間もカリスマとして君臨してきているのである。否、正確には猪木のせこさが、プロレスファン(正確には新日ファン)をせこくしたのではなかったか。ジャイアント馬場は、晩年に平然と前座試合で醜態を曝す事で、「プロレスとは何たるものか」を身を持って呈し、その虚飾なき度量のデカさ故に、最後迄カリスマ然と輝いており、死後も真のプロレスラーとしてカリスマ視され続けている。プロレスとは本来、如何程強いか等ではなく、「如何に負けられるか」こそが重要なポイントであり、レスラーの善し悪しはこの一点に於いて決定付けられたと言っても過言ではなかろう。そもそも「絶対負けられぬプロレス」なんぞ糞食らえであり、本来絶対負けられぬプロ・スポーツとは、ハングリー精神に支えられるボクシングのみであろう。果たして猪木イズム信奉者達が、現在のWWF人気沸騰に対してどう思うのか等知る由もないが、総合格闘技路線へ向かい、明らかに終焉を迎えつつある日本のプロレスに対し、あくまで興業である事にこだわるあまり、完全にエンターテイメント化したWWFの盛況ぶりは、意図して作られている故にひたすらカリスマ性を追求し、されどリング上で平然と醜態をも曝し、更にはカリスマの仮面を脱いだ素顔の側面さえも曝し、そして全ての舞台裏までをも曝すと云う、実はリング上ではカリスマを演じていようが、本当はそこいらにいる普通の一市民である事をも、客に納得させているからこそ成り立っているのではなかろうか。
そもそも私は、ヴィデオカメラに対しても目を逸らせてしまう程、役者に不適合である事は重々承知しており、況してやカリスマを演じる等絶対無理であり、出来る事と云えば不乱にギターを弾く事程度、端からカリスマ等とは縁なき者故、斯様な気苦労等もあろう筈もなく、唯ひたすら脳天気に何の思慮もなく自分を曝け出して、ロックであろうとするのみである。私にとってロックの良い処とは、勝敗が存在せず(勿論、善し悪しや好き嫌いは存在するが)、善くも悪くも脳天気に尽きると云う事であろう。如何に情けないエピソードであろうとも、それはやはり自身の音楽に還元出来得る。女性にけんもほろろにふられども、「お涙頂戴有難う」とそれさえ歌にしてみせ、社会的背徳行為を犯せども、「ロッカーの生きざまたるは斯くあるもの」とやはりそれさえも歌にしようが、称賛こそされ取立てて咎められもせず、たとえ肥溜めに落ちようが、「stinky rock」等と銘打てば、逆に臭いもの嗅ぎたさからヒットするやもしれぬ。通常なら社会的に抹殺されかねぬケースであろうが、ロックならば取立てて問題視されぬ、この脳天気さこそ河原乞食芸能でしかないロックと云うものなのであろう。
されどその脳天気さ故に失うもの多く、しかし脳天気故に気にも留めぬ。
詰る処、素晴らしい音楽に囲まれ、酒代程度何とかなれば、後は美しい女性が傍らに居ってくれれば其れで善し。否しかし女性は男のロマンを解さぬものなれば、やはり女性は失うか。女性を欲さんとするならば、仮初にもカリスマ性は必要なるや。
(2002/1/10)