『人声天語』 第45回「『いまわし電話』も今は昔」

どうやら今回のツアーは、ブッキングに於いてかなりの「ケチ」が付いており、つい先日も、いきなりイギリスツアー初日のGlasgow公演キャンセルと云う知らせが舞込んだ。何でもオルガナイザーが、日程を1日間違えてブッキングしていたらしく、そんな初歩的なミスがどうして今迄露見しなかったのか、その事の方に憤りを感じてやまぬ。されど「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、偶然にもNYのFM局WFMUでのスタジオライヴの日程が変更された事から、イギリスへ1日早くフライト出来る事となり、何とか事なきを得そうである。

兎に角今回のツアーは、計画当初より難題が山積みであり、先ずはドラマー探しに始まり、SXSフェスの日程が上がって来ない事に因る日程調整のかつてない程の難航、度重なる移動手段の変更に右往左往させられ、更に円安とテロ後の飛行保険料値上がりに因る飛行機代の高沸、況してや今、とある最大の危機的状況に直面しており、ここ3カ月の間、全くもって心穏やかなる日は皆無である。ストレスなんぞとは縁なき私も、流石に精神的に疲労困憊。こうなれば、何とか1日も早く出発日にならぬものかと、そればかりを願う始末。最早、何処かで誰かが呪いでも懸けてるとしか思えぬ故、せめて飛行機だけは無事に飛んで欲しいと、神仏にでも手を合わせてみようか等と思う今日この頃。

しかし実際ツアーにさえ出てしまえば、至ってお気楽極楽なもので、如何な難局に遭遇しようが、今迄何とか切り抜けてきた経験と自負から、対して気にもしないもの。我々十八番の「出たとこ勝負」で「何とかなるわいな」と云う塩梅である。
されど唯一、毎度の事難渋するのは「電話」である。お国柄によって公衆電話の使い方が全く異なる為、なかなかうまく掛けられぬ。最近になって、ようやくプリペイド方式テレフォンカードの使い方こそマスターしたものの、当初は全く理解出来ず、数時間も空港の電話器の前で悪戦苦闘したものであった。何しろ交換台も当然英語であり、また音声テープでの案内であるが故に聞き取り難く、カード裏面の記載を全員で解読しては試行錯誤を繰り返した。そもそもカードをカード挿入口に差し込む必要がない事に気付く迄、一体どれ程の時間を要したか。普段テレカと云えば、カードを挿入するのが当たり前であったから、この悪戦苦闘ぶりは至極当然の事であった。
かつて小泉氏がドラマーとして同行していた折は、常に彼が何故かありとあらゆる旅行マニュアル本を携行していたので、然程斯様な問題は起こらなかったが、彼なき今、荷物をなるべく軽減化したい輩ばかりの、そもそも「行き当たりばったり」で生きている輩ばかりであるからして、 当然誰も斯様な旅行マニュアル本なんぞを持参している筈もなく、しかし結局は何とか独力で切り抜け、そしてより一層「行き当たりばったり」で充分事足りると自負してしまうのである。

確かまだ海外へ行き始めて間もない当初、 単身パリの友人宅に宿泊する約束をし、されど彼は夜9時頃にならぬと帰宅せぬと伺い知り、ではと1日パリを散策して時間を潰し、さて夜9時頃に、愈々彼のアパートの最寄りの地下鉄の駅迄辿り着き、ここで電話を1本入れようかと公衆電話を探すと、何と全てテレカ専用電話器ではないか。当然斯様な事態を予期していなかった為、テレカなんぞ持ち合わせている筈もなく、では一体何処でテレカを購入出来るのかと、辺り一体を見回せば、既に全ての店は閉まっており、そこで住所を頼りに彼のアパートを探し始めたのだが、辿り着いてみれば、当然アパートの入り口はオートロック方式で、また表札も出ておらず、更に呼び鈴を鳴らそうにも、部屋番号をアルファベットと数字の組み合わせで入力せねばならぬ方式なのだが、貰った住所には部屋番号が記されておらず、と云って0~9迄の数字と26文字のアルファベットから、そもそも一体何桁のどう云うタイプの番号かも分からぬ中、一体何通りの組み合わせがあるのか等と確率計算をする気にもなれず、況してやロック解除の暗証番号なんぞ知る由もなく、入り口を前にして完全に途方に暮れてしまった。このまま野宿をするには余りにも寒く、また当時の私ではバーで女性でも口説いて一宿一飯お願いしよう等とはまだ考えも及ばず、矢張り何としても彼に電話するしか道はなく、では一体テレカなしで電話は出来ぬものか。そこで私が取った手段とは、駅近くで1件の小さなホテルを見つけるや、居合わせたフロントマンに「Bonsoir」と先ずはフランス語で話し掛けた後、当時未だろくすっぽ話せなかった全く酷い片言の英語で、「電話を掛けさせてくれ」と頼んだのだった。勿論そのホテルの宿泊者でもない、更にはフランス語どころか英語すらろくに話せない、長髪髭面にして乞食のような身なりの東洋人に、一体誰が電話を貸してくれようか。けんもほろろに追っ払われたのだが、こちとら今宵の寝床が懸かっている故、そう易々とは引き下がれぬ。そこで再び片言の英語と身ぶり手ぶりを交え、「今この電話を掛けられるかどうかに、人の生死が懸かっている」と訴えると、流石に「人の生死」に怖れをなしたか、見事電話を貸してもらう事に成功し、漸くアパートの入り口の暗証番号を知る事が出来た。果たしてその傍らでこの電話でのやり取りを聞いていた御親切なフロントマンは、一体どう思ったであろうか。私はそんな事等お構いなしに、ただ唖然としている彼に「Merci!」の一言を残し、その場を足早に立ち去った事は言う迄もなし。

それにしてもツアー時に「モバイル(携帯電話)」があれば、一体どれ程便利であろうか。国境を越えても、電話を掛ける為に両替えする必要もなければ、移動中の車で道に迷っても、その夜出演するクラブに電話すれば即解決出来る。世界中とは言わぬが、せめてヨーロッパ全土とアメリカで格安料金にて使える「モバイル」があれば、是非にでも購入しておきたいものだ。

されど私は「ケータイ撲滅同盟」の一員であり、日本に於ける「ケータイ」のこの氾濫ぶりによる弊害に、猛烈な腹立たしさを感じており、「ケータイ」を購入したと云う理由のみで、「転向」したと見なし、「総括」と迄は至らぬが、平気で友人としての縁を切る程である。ケータイ関連企業には「天誅」を加え、ケータイ所有者共を皆殺しにしたい衝動に駆られてやまぬ。不思議にも類は友を呼ぶのか、私の周りにはケータイ所有者はほぼ皆無であり、故に日常で「ケータイ」なるものにお目にかかる機会も皆無である。よくケータイ所有者は「あれば便利だよ」と説くが、私にとっては「なくて何ら不自由ない」のであるから、そんな論理が斯様な私に通じる筈もない。そもそも電話は家にあれば充分事なきを得、メールも自宅のPCでチェックすればいいのである。どうしてもと云う時でさえ、精々ノート型PCでもあれば、それで充分であろう。そもそも「ケータイ」から下らぬメールを四六時中送り合う馬鹿共に、1日では読み切れぬ程のメールが届く私の心労なんぞ慮れと言った処で不毛であろう。
されど何故に、端末機器を肌身離さず持ち歩かなければならぬのか。まさか四六時中、身内の危篤情報やらが送られて来る訳でもあるまいて。そもそも人と会ってる時でさえ、コソコソと「ケータイ」の受信状況を気にする失礼極まりない輩なんぞ、全くもって人として信用出来ぬ。況んや「失礼。」と言っては、話し出したりメールを返信する等もってのほかである。せめて火急の用やら重要な所用等であればいざ知らず、他愛もない下衆な用である事が殆どと見受けられれば無礼千万、「失礼。」とは誠に口ばかり也。私にとって斯様な行為は、まるでベッドを共にする女性に名前を間違えられるようなもので、嫉妬心を感じぬ私ではあるが、流石に2人きりのそれも最も甘いひとときに、よりによって他の男の名でも呼ばれようものなら、別段その男と彼女に何があろうと彼女の人生であるから当方の一切関知せぬ事であるが、単に私と彼女との2人の時間に水を差したと云う点で、即ち「私を蔑ろにしているのか」と思われても仕方がないのである。自分と一緒にいる時以外ならば、彼女が誰と何処で如何な事をしてようが、それは私の人生に何ら影響をも及ぼさないが、せめて私と2人でいる時ぐらいは、他事を忘れて2人だけの時間を楽しんでもらわねば、このひとときは私にとって何なのかと云う事になってしまう。2人でいる時ぐらいは他事を忘れて2人だけの時間を楽しむ、それが最低限の男女間の恋愛に於けるマナーであろう。そしてそれは恋人同士に限らず、広く人間関係全般にすら当て嵌まる最低限のマナーでもあろう。

「ケータイ」の普及率が高まれば高まる程、当然の結果として、公衆電話の姿は少なくなっていく。「ケータイ」を持たぬ私は、外出すれば当然公衆電話を利用する訳であるが、最近に至ってはコンビニにさえ、公衆電話が置かれていなかったりする。テレカは販売していても、肝心の電話器がなければ話にならぬ。それでなくとも漸く電話器を見つけた折、テレカ専用機であったりすると、得てして斯様な時に限りテレカを持っておらず、またテレカ自販機等も設置されておらねばコンビニ等も見当たらず、これまた怒髪天を突く事限りなし。
つい先日も、我家の電話が料金未払いにて利用停止にされており、では公衆電話を使用しようと近所の電話ボックスにて十円玉を放り込めば、何度試しても十円玉は戻って来る始末、この十円玉が良くないのかと違う十円玉を放り込んでも、矢張りコトリと落ちてくる。火急の用向きにて、こちとら気が急いているにも関わらず、それどころかそんな私を嘲笑うが如くのこの振舞い、「電話器のくせに殊勝な事よ」等と皮肉のひとつも出ぬ程の私の憤りに、さて哀れこの電話器の命運や、如何に相成ったでしょうか。

さてその電話利用停止を食らった日は、朝から当然メールのチェック等いたしており、勿論その時点ではまだ回線は繋がっていたのだが、どうやら午前10時頃に断ち切られた様子で、されど我家はフレッツISDNである故、朝起きてPC起動と同時にネットに接続してしまえば、その日1日中はまずもって切られる事もなく、そして何と電話回線が停止された後も、ネットにはNetscape以外のソフトであれば、接続が維持出来る事を発見。Outlook ExpressやInternet Explorerであれば、たとえ一度終了してしまおうが、ネットに接続さえしてあれば、何度でも立ち上げ動作出来る。これ故に、当初ネットが接続されている為、何故電話器だけが使用出来ぬのかさっぱり解らなかったのだ。
今後、もし電話料金未払いで回線の利用を停止されようが、PCさえ起動し続け、ネットへの接続さえ切らねば、いつまでも無料でネットを利用出来るのではなかろうか。しかしPCを起動し続ける等、端から無理な相談であり、まあ精々その日1日程度の事でしかないか。しかし貧乏ならではの発見やら知恵等と云うものは、こんな暮らしぶりを送っていると、自然と色々身に付くものである。

今やPCを持たぬ東君と津山さんに連絡を取る以外、電話を使う事さえ稀なれば、FAXなんぞ当の昔に用紙が切れたままであるし、知らぬ間に通信システムも随分豹変したものである。いずれは「携帯電話」「PC」がないと、日常生活さえ支障をきたしそうな雰囲気さえある今日、先のヴァレンタインに於いて、遂に義理チョコが「e-チョコ」となって送られてきたのには流石に驚愕。近い将来、冠婚葬祭への参列も、ネットで済ませる時代が来るやもしれぬ。味気ないが、その方が気楽かもしれぬ、そんな事を想う今日この頃。

(2002/2/15)

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