『人声天語』 第49回「Born in Osaka」

帰国して1週間以上が経過、されど時差ボケは一向に回復せず、相も変わらず深夜に 起きてみたり、夕方から爆睡してみたりと、日がな所在なきまま過ごしている。され ど何とか約300通にも及ぶメールの返信も済ませ、ウェブの更新も僅かばかり済ま せた。AMT4枚の新譜の録音は、ゴールデンウィークから始める事になっている故、 それ迄には、ソロ製作やらリミックスやらリイシュ-作品のマスタリングやらを済ま せねばなるまい。

幸いにして、海外でのディストリビュートに関しては、良きレーベル・パートナーが 見つかった為、今後はこれまでの様には、レーベルの雑務に忙殺されずに済むのでは なかろうか。兎に角、僅かばかりなりとも雑務から解放されたい。強ちそこいらの猛 烈ビジネスマンに匹敵するべく、目覚めてから寝る迄、ひたすら働いているようなも ので、更にこれ程働けど金にはならぬと云う、まさしく「貧乏暇なし」である。幸か 不幸か、私には「趣味」なるものが無い故、「暇なし」と云う事柄に関しては、然程 の苦痛は感じぬが、去年辺りから切に感ずる、この日本での生活に対する空虚感は一 体何なのか。
されどだからと云って、もっぱらツアー中が楽しいかと云うとそう云う訳でもない。 ツアー中は、やはり精神的にも肉体的にも極限状態であった事に間違い無く、斯様な 無理を四六時中繰り返しておれば、バンドの寿命も自分の寿命も、一瞬にして潰えて しまうであろう。しかしそれでもこの空虚感に苛まされる日本での日常よりは、まだ 幾分かマシではなかろうか。日本にいると、何もしておらずとも知らず知らずのうち に、自分の生命エネルギーを闇雲に放出しているような錯覚さえし、生きる気力や意 欲、果ては使命さえも見失ってしまいそうである。はて、これではまるで人生にすっ かり疲れ果てた者の愚痴ではないか。しかしこれぞツアー後に必ず患う「廃人症候群」 である事を知るのであった。

ツアー中、日本でのニュース等、海外では全く報道されていない為、我が阪神タイガー スの破竹の連勝劇には、正にこの目を耳を疑うばかり。星野タイガースがここ迄やる とは、今年はもうこれで充分と思える程の快挙に、気分が良い事この上なし。  とは云え、別に私は狂信的な「トラキチ」と云う訳ではない。今もって阪神ファンな のは、単に子供の頃から阪神ファンであったからに他ならず、と言うより何より「ア ンチ巨人」であり、故に「東京嫌い」な訳でもある。狂信的巨人ファンと云う理由の みで、かつてある友人と絶縁した事さえある程、私は巨人が嫌いなのだ。
子供の頃、まだ巨人がON時代であった当時、関西と言えど周りにはやはり多くの巨人 ファンが存在し、当然子供社会に於いても、彼等は常に我々阪神ファンといがみ合っ ていた。中でも「隠れ巨人ファン」なる、表立っては阪神ファンを自称しつつも、実 は巨人ファンと云う最も姑息な輩共は、その事実が発覚するや否や、「裏切り者」 「卑怯者」のレッテルを貼られ、ボコボコにしばかれたものであった。兎に角、私の 住んでいた地域の子供社会に於いては、「巨人」若しくは「東京」と云うものに対し て、測り知れぬ程の敵意とそれに対する徹底的な制裁が、根深く存在していた。
東京から引っ越してきた転入生を、東京弁を話すと云う理由のみで、例えば「~さ」 「~だぜ」と云う最も勘に障る語尾が出る度に、有無も言わさずボコボコにしばいた ものである。況して巨人の帽子なんぞ被っていた日には、その帽子は犬のウンコの上 に落とされ踏み付けられる運命が待っていた。
そう云えば名古屋に引っ越してきた当初、矢張り名古屋弁の「~さぁ」「~だろぉ」 と云う、まるで人を嘗めているかの如き口調に腹を立て、見ず知らずのおっさん2人 を居酒屋の外でしばいた事があったのも、また名古屋弁のヤクザの「なんだよぉ~お めぇはよぉ~」と云う、陳腐で軟弱な脅し文句に思わず爆笑してしまい、「じゃかぁ しいんじゃ、このボケがぁ!」と、中日ビルの裏で後先考えずにボコボコにした事等 も、全てこの子供の頃からの「東京弁(若しくはその類いの言葉)の奴には鉄拳制裁 を」と云う慣習に由縁していたのか。

しかし我々関西の子供達にとって、鉄拳なんぞよりも遥かに恐ろしいものが存在した。 「ウンコ」である。
「ウンコ」は何にもまして絶対的に無条件に最強である。迂闊にも「ウンコ」を踏ん だりすれば、もうその瞬間から「人間扱い」される事はない。つまり「ウンコ」に触 れた者は、即ち「ウンコ」そのもの、「ウンコ」と同一と見なされてしまう。そして 「ウンコ」の烙印を押された者は、誰かを道連れにする為に、「ウンコ」を踏んだ靴 で、今度は他の子供に襲い掛かる。ここではいくら「ミッチ」だの「透明バリア被っ た」だのとホザいた処で全く何の効力も発揮せず、子供社会に於けるあらゆる慣例さ えも無意味であり、兎に角「ウンコ」を伝染されれば、有無を言わせずもうそこで終 わりなのである。
しかし大抵は翌日ともなれば、靴も綺麗に洗濯され、所詮子供の事であるから、前日 の出来事等忘れてしまうのだが、時折、余りに印象深い「ウンコ」事件等を引き起こ してしまった輩は、当分の間、時には半永久的に「ウンコ」として扱われる。
関西では「ウンコ」を「ババ」若しくは「ババタン」と呼称するが、故に「馬場文夫」 やら「馬場文子」なんぞと云う名前は、既に最初から人間として認めてさえ貰えぬ世 にも不幸な名前であり、転入生「馬場文夫」君に於いては、東京から引っ越してきた と云う更なる不幸をも背負っており、当然の如くすっかり大阪弁に染まる迄皆にどつ かれていたが、しかし東京っぽさが抜けた後も、その名前の宿命として結局「ババ踏 み(ウンコ踏み)」と虐められ続けた。子供の社会とは、根深い悪意が潜まぬ故に、 至って残酷なものである。「坂田」の姓を持つ者は、当然「アホ」と呼ばれ、「アホ、 アホ、アホの坂田ァ~」と野次られる宿命であるかのように、本人の人格等全く無視 した理由で、その本人の評価が決定したりする。そして「ジャイアント馬場」は、そ の名前故に世界最強のレスラーだと信じられていた。

それにしても関西人は、本当に「ウンコ」だの「ションベン」だの「屁ェ」だのが好 きである。
子供の頃に皆が歌ったであろう「どれにしようかな」でさえ、「どれにしようかな/ 裏のションベンさんに聞いたらよくわかる/プッとこいてプッとこいてプップップ」 であり、更にオプションで「アブラムシ/ゴキブリ」まで付け加えられるバージョン もある。この歌は、男の子だけに限らず、何の疑問もなく女の子にも歌われていたが、 例えば名古屋では、「ションベンさん」は「神様」であり、当然この「プッとこいて …」の一節は存在しないらしく、これも矢張り下品極まりない関西ならではなのか。 「だるまさんがころんだ」と云う遊びも、我々は「坊(ぼん)さんが屁ェこいた」で あったし、「じゃんけんぽん」は「じゃらケツおケツでアイスクリームでほい」であ る。
私の地域では「王さん」と呼ばれたじゃんけんの派生的遊び、所謂グ-が「軍艦」チ -(チョキ)が「沈没」パーが「破裂」等と呼称される遊びであるが、特に私の地域 は、より慣用句的ヤクが多数存在し、パーグ-チ-で「ハマグリソース」、チ-パー グ-で「チンパラグッスー」、グ-チ-パー「グンチキハンマー」等の基本形から、 圧倒的スピード感で相手を打負かす「チンポ(チ-グ-パー)」「パンツ(パーグ- チ-)」等の最終形まで存在した。
そして何しろ今この年令になってすら、何か鬱陶しい事等あれば「ほんなもんウンコ 食うた方がなんぼかマシじゃボケ!」だの、物事が簡単極まりなければ「ほんなもん 屁ェじゃボケ!」だの、さっさと帰る折には「ほんだらもうウンコして寝るわ」だの と言ってる始末。兎に角、子供の頃からろくな事を言って育ってない上、そもそもい くら年を重ねようが、相も変わらず「ウンコ」やら「屁ェ」がギャグになり得るので あるから、全くもって仕方あるまい。

今回ツアーに同行したフランス女性オードレイとエステルに、面白半分で色々と関西 弁を教えたのだが、普段フランス語でアンニュイな空気を漂わせている彼女らが、 「ボケ」「カス」等と言った処で、そのフランス人ならではの容姿と雰囲気に全くそ ぐわず、やはりフランス女性はフランス語を話すべきである事を再認識。と云う事は、 普段関西弁で喋りまくっている私の佇まいは、「ボケェ!」等の言葉を匂わせる下衆 で下品なものなのであろうか。ならばせめて流暢なフランス語でも習得して、赤ワイ ンの似合う男にでもなってみたい等と思う事さえ、既に不毛である事極まりなしか。 嗚呼、これも大阪に生まれ落ちた者の運命と知れ。

(2002/4/19)

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