5月22日~6月13日の期間、私はイタリア・フランスをツアーしていた。矢張り1人での旅は、お気楽極楽にして、それ故に珍道中になりがちである。AMTのツアーとは異なり、日程的にも余裕があり、国内に於いては雑務等で多忙を極める私にとって、一切の煩わしさから解き放たれる唯一のバカンスも兼ねており、今回も充分にこのひとときを満喫し得た事は云うまでもなし。
ヨーロッパに於ける列車の旅、これは私のひとつの愉しみであり、多少なりともその空気を味わって戴けるかと、ここに日記形式にして、その模様等書き綴ってみた次第。
(2002/6/22)
『人声天語』第56回 特別編「ソロツアー2002(伊・仏)雑記」1/3
「5月22日 成田からフランスへ」
21日夜、東君と来日中のFractal RecordsのJeromeに見送られ、名古屋駅発東京駅行きの深夜バスに乗り込む。この1週間と云うもの、あまりの多忙さに連日3時間程の睡眠しかとれなかった為、乗車した途端、駅にて購入したビールも飲まずに眠る。
22日朝6時に東京駅着。ここで成田エクスプレスに乗り換えるのだが、何とも八重洲口からホームまでの遠い事よ。荷物を抱え寝ぼけ眼での、この距離の移動は辛い。何しろサーランギの演奏もする為、ギターケース、エフェクターや商品を詰め込んだゴロゴロ(スチュワーデスが持っているあのタイプの鞄)に加え、サーランギのケースも背負っている。今回のフライトはいつも利用しているUAではなくANAである為、鞄は20kgにまで軽量化されているが、故に着替え等は限界まで減らしたとは云え、それでも矢張り荷物全部合わせれば結構な重量である。また今回は初めてMDなる録音機器も持参。いつもは自分でライヴ録音等せぬのだが、何となく録音してみようかと思い立ち、出発直前にネットオークションにて購入。
さて成田エクスプレスに乗り込めば、再び爆睡。気が付けば終着駅ターミナル2に到着しており、ANAは一駅手前のターミナル1とかで戻る羽目に。これだから成田は嫌いだ。関西空港であれば駅は1つしかないので、こんな事はあろう筈もなし。そもそも東京でもないくせに「新東京国際空港」とはふざけた名前だ。
漸くANAのチェックイン・カウンターへ辿り着き、さてチケットを提示すると「日程の変更されました?」との問い。はて何の事かと、改めてチケットを眺めていると「そのチケットは昨日の出発ですが…」との御教示。いやはやまさしく日付けは昨日21日になっているではないか。21日午前のフライト予定であった為、20日深夜に名古屋を出発せねばならぬ処を、どう勘違いしたのか21日夜に家を出てしまったようである。ここは嘘も方便と「いや、確か変更した筈なんですが…」等と云ってみた処、幸いにして空席があった為に事なきを得たが、旅の始まりからこれでは先が思いやられる。いい加減旅慣れ、気が弛んでいたせいもあろうが、今回は何か大きな失敗をやらかしそうな予感。
喫煙ロビーにて、12時間の長時間フライトに備え体にニコチンを充填していると、初老の紳士が、サーランギのケースを指して「楽器ですか?」と話し掛けて来た。何でも彼は、ハンガリーの音楽院の関係者と懇意だそうで、ハンガリーへオーケストラを観に行くとか。その後、ハンガリー音楽について色々話等を伺い、御蔭で出発までの待ち時間を退屈せずに過ごす事が出来た。
初めて乗るANAは、流石に日本の航空会社だけあり、乗客は98%日本人で占められている上、乗務員も当然9割が日本人である為、海外へ行く実感が全然湧いて来ぬ。
隣に乗り合わせたのは、如何にもParis行きと云った風情の白髪を後ろで束ねた芸術家気取りの親爺と、未だ20歳ほどのされど垢抜けぬ女性の2人連れ。当初は父娘か、若しくは祖父と孫娘か等と思っていたものだが、聞こえて来る会話を伺っているうちに、どうやらそうではなさそうで、更にはその親爺、矢鱈とその女性の手やら背中やらそこかしこを辺りに憚り無く撫で回しては、自慢げにParisの蘊蓄等語っており、これはどうやら美大辺りの大学教授と教え子と云った感じか。何はともあれ、テーブルにティッシュの箱を出した時には、この先一体どうなるのかと思われた程。嗚呼、これこそ日本人の姿かな…。
この2人のその後が気になりつつも、ブラッディー・マリーを1杯やって爆睡。1回目の機内食さえ軽くスルーしてしまい、目覚めれば既に1本目の映画もエンディング。ここで1人遅れた食事を取りつつ、2本目の映画「ハリー・ポッタ-」を観賞。いくら退屈凌ぎにしても、これはあまりに退屈な映画であった。
ビールや日本酒は煙草を誘発する為、禁煙対策としてUAでのようにブラッディー・マリーを飲み倒そうと思ったが、ミニボトル2本とブラッディー・マリー・ミックスなるトマトジュース缶1本をくれるUAとは異なり、小さなコップで1杯ずつ出て来る為、次第にいちいち頼むのも面倒臭くなり、結局赤ワインのミニボトル数本を飲み倒し再び爆睡。
12時間のフライトにて午後4時ParisのCDG空港着。
CDG空港へ降り立つと、ヨーロッパ特有の甘い香水の香りが漂う。ここまで日本人に囲まれていた為、ここで漸く僅かばかり外国へ来た実感が湧いて来る。日本人団体ツアー御一行様は「何か日本とは匂いが違う」「臭~い」だのと口を揃えていたが、私にとっては何とも心地よい香りである。確かに初めて来た頃は臭いと思ったものだが、最近はこの匂いに痺れ何やら欲情さえしてしまう。
ツアー初日は明日イタリアのPadovaに於いてであるから、今日中に何とか行ける所まで行かねばならぬ。そもそもUAのマイレージ特典のフリーチケットによって、Paris、Wien、Frankfurtの欧州3都市へしか飛んでおらぬANAを利用した今回のフライトは、今回所持するユーレイルパスが3カ国(フランス・イタリア・スイス)のみ有効の安価なものであるが為、自ずとParisへ飛ばざるを得なかった。Paris市内からMilano行きの夜行列車が出ている事は知っていたが、この荷物を抱えて市内の地下鉄を乗り換える事は避けたい一心から、確か前回ParisからMilanoへ行った際、Lyonを通ったとの記憶もあり、きっとLyonにてMilano行き夜行列車に乗れるであろうとの独り合点で、取り敢えずCDG空港からTGVでLyonまで行く事にする。
しかしこのTGVのCDG駅が見つからぬ。ターミナルバスに乗り込んでみたものの、要領が判らず乗り換え1回を要して漸くCDG駅へ辿り着いた。何しろ日本と異なりサインボードが少ない上に、英語表記も少ないので非常に判り辛い。
6時45分のLyon行きTGVの1stクラスをリザーブ。私の所持するユーレイルパスは1stクラスの為、TGVの1stクラスであろうとリザベーション代金3ユーロのみで乗る事が出来る。(因みに2ndクラスのシートをリザーブしても代金は同じ。)
今回はechoを3カートンしか持参しておらぬので、キオスクにてDRUMを1袋購入。貧乏臭く煙草を自分で巻いて吸う姿は、1stクラスに於いてはまずお目にかからぬが、煙草1箱に3ユーロ以上も払えぬ故、こちらではひたすらこのタイプの煙草しか買えぬ。 このTGV車中にて、漸く時刻表を取り出す。さてLyonからMilano経由でPadovaへは…、どうやらLyonから今夜イタリア方面へ向う列車はなさそうである。Parisからの夜行列車はLyonを経由せぬようで、明朝7時Lyon発Milano行きの列車に乗れば、Milanoへは12時45分着。Lausanneへ出てみてはとも考えたが、こちらも今夜は途中のGeneveまでしか列車がない。ならば今夜はLyonにて一泊するしか術はなさそうである。今夜はLyonでのんびりするか。
Lyon Part Dieu駅へは8時50分到着。改めて駅の時刻表を眺めてみたが、矢張り今夜Milanoへ向う列車はなく、ではと今夜の宿を探しに駅周辺のホテルを軒並み当ってみるが、既に何処も満室。仕方がないので荷物を抱え駅へ戻り、構内のバーでビールをオーダー。ここのバーテンが日本好きらしく、矢鱈と日本語を教えてくれと云うので話し込むが、結局10時には閉店。その後、ロビーにて持参した文庫本「彼岸花(長坂秀佳著)」を読み始める。元々は列車の中での退屈しのぎにと、出発前に古本屋で購入したもので、特捜最前線等の脚本家としての彼のファンであった私は、偶然目にしたこの分厚いホラーミステリーの文庫本を旅の御伴に選んだのであった。
さて夜も更け12時を過ぎると、遂には最終発着も終わり、徐に警官達に駅構内から追い出されてしまった。外は雨が降っており、駅正面口前の片隅に荷物を纏め、煙草を片手にページを捲る。深夜バス、成田エクスプレス、フライトの間ずっと眠っていたせいもあろうが、思いの外寒いフランスの夜に、おちおち眠る事も出来ず、ガラス越しに見える時計を覗いては「まだ15分しか経ってはおらぬ」等と思いつつ再びページを捲る。
そのうち「Bonjour」とアラブ人男性が、段ボール持参で私の隣に腰掛けた。どうやら彼も始発列車待ちらしい。革ジャンを頭まで被り眠ろうとしているようだが、矢張りこの寒さで眠れぬのか。四六時中体勢を変えつつ蹲っている。
そういえば機内食以来何も食べておらぬ故、ここに来て猛烈な空腹感が襲って来た。成田で買った柿ピーを貪り悔い、結局1袋全部一気に食べてしまった。
3時を過ぎた頃、私の肩に水滴が落ちて来た。何の気なしに、楽器を抱えて5mばかり移動するや否や、先刻まで私が座っていた辺りに、突如屋根に貯まっていた水が滝のように流れ落ちて来た。間一髪でこの惨事を回避する事が出来ただけでも、この悲惨な初日唯一の幸運であったか。さもなくば明日からの吉兆なのか。
等と思っていると、ライターのガス切れにていよいよ煙草さえ吸えぬ始末。
「5月23日 Padovaにて」
朝4時30分に再び駅の扉は開かれた。駅のロビーへ戻った私は、ガス切れのライターに代わる新たなライターを買い求めた。しかし100円ライターの定番vestaの故郷フランスであるにも関わらず、ライター1個2ユーロもするとは。キオスクの女性の「Merci」が何ともアンニュイ。
ロビーで文庫本のページを捲っていると、何やら怪し気な白人黒人男2人組が、そこかしこでタカりをやっている。その輩共を無視していたのだが、あまりにもしつこいので仕方なしに煙草をやると「Are you a musician?」と尋ねて来た。結局その後、周りからの冷たい視線を感じつつも、この輩共と音楽談義。何でも昨夜サンタナのコンサートを観て来たらしく、それを熱く語っていた。今どきのフランスの若年層はサンタナなんぞを聴いているのか、一体フランスのシーンはどうなっているのやら。
また黒人の方が私の姿を見て「トルバドールみたいな格好でクール」と云って来た。黒人の口から「トルバドール」なる単語を聞くとは夢にも思っていなかった。流石フランスと云った処か。彼等も音楽をやっているらしく「今度セッションしようぜ」と云い去って行った時、「哀愁のヨーロッパ」が頭の中で流れていた。
朝食のエスプレッソとクロワッサンを買い求め、気が付けば既に6時30分。7時7分発の列車であるから、もう少しでこのLyon Part Dieu駅ともおさらばである、と思っているうちに全479ページを読破。
10時間待ちで漸くMilano行きの列車に乗車。今迄ツアー中に野宿は幾度となく経験あるが、初日から野宿とは…。列車に揺られつつ、その心地良さにほっと一息つく。
5時間の列車の旅の末、漸くMilanoへ到着。更にPadovaへ向う為、当駅にてVenezia行きインターシティー(IC)に乗り換える。
この待ち時間にサンドウィッチに食らいつき、ビールを流し込む。ビールを飲みつつ行き交う人々を眺めれば、何と美女の多い事か。これは美女天国Toulouseに充分匹敵する、否それ以上か。ここでこの刹那会っただけの女性達とは多分もう一生会う事はなかろうと思うと、人生とは随分寂しいものだ。
テレホンカードを購入し、今日のオルガナイザーに電話しようとするが、どうにもテレカの使い方が判らない。と、そこへ通り掛りの男性が、カードの端を折り電話器へ挿入するのだと教えてくれ、漸く通話出来た。何処にでも親切な人がいる事に感謝。日本では他人が困っていようが皆お構いなしの風潮が結構あるが、こちらは皆何かと親切である。特に老人に対しての周りの心遣いには感心してしまう。
さてVenezia行きICに乗り込めば1stクラスでさえ満員。隣は陽気なイタリア人夫婦だが、2人ともワインを喰らって鼾をかく程の爆睡ぶり。私も昨夜ろくに眠れなかった為、ここで仮眠を取る事にする。
はたと気付けば列車が停まっている。斜向かいのホームの時計は、Padova到着予定時間の4時23分を指しているではないか。慌てて隣の夫婦に「ここはPadovaか?」と問えば「Yes!」との答に、大慌てで荷物を抱えて下車。この夫婦が荷物を降ろすのを手伝ってくれ、何とか無事に下車出来た。嗚呼、何と親切なイタリア人。彼等には英語が殆ど通じず「Have a good trip」さえも解らない様子ではあったが、お互いの笑顔できっと解ってくれた事であろう。
さてPadova駅では、オルガナイザーMarcoが待っていた。彼は、私が本来昨日中に到着する筈であった為、とても心配していたようだが、ここ迄の経緯を話すと大爆笑、特にLyonでの野宿には呆れ果てていた。
先ず彼の車で彼のアパートへ。イタリアらしい高級アパートにて、犬と暮らしている。ビールと赤ワインを飲みつつ、日本のCDがこちらではとても入手困難であること、イタリアの現在の状況等話してくれた。彼はレーベルSillyboyを設立し、イタリアの若手サイケバンドJennifer GentleのCDを2枚リリースしている。既に1stは、イタリア国内にて3500枚売れていると云うから大したものであろう。このCD2枚は、以前彼が送って来てくれており、初期ピンクフロイド+オズ・ムタンティスと云った感じの、良質サイケポップであった。
今夜と明晩、私は彼等と共演することになっている。
6時にクラブBanaleに到着。Padova唯一のクラブだそうで、キャパは4~500人程度の日本で云うクアトロぐらいの大きさか。既にJennifer Gentle(以下JG)のメンバーがセッティングも済ませ、セッションしている。殆どのメンバーが未だ20代前半らしく、想像以上に若い事に少々驚いた。JGの是非セッションしたいとの申し出も快諾。
私もステージ上にセッティングし、軽くサウンドチェック。今回のツアーでは、ギターとサーランギの両方を使う為、セッティングが少々面倒臭い。
それにしてもロックバンドの後で、ギタードローン・ソロとか演っていいものか。イタリアの大手音楽雑誌Blow Up誌上にて、AMT特集やら私の新譜のレビュー等掲載されているらしいので、客は判っているとMarcoは説明するが、果たしてロックファンがドローンに耐えられるのか。されど結局は斯様な事等私の関知せぬ事であり、取り敢えずビールを飲み、まかないのペンネを満喫。開場すれば150人程度の入り。
JGの演奏は、至ってバランスの良いもので好感が持てる。しかしもう少しフリークアウトすれば、より良いであろう等と思いつつビール飲んでいるうちに、私の出番と相成った。この頃にはもう会場はほぼ満員で、こんな中でお通夜の如きギター・ドローンは、矢張りやり辛い空気である。
先ずサーランギから始めれば、騒がしかった会場も水を打ったように静まり返り、そのままギターへ持ち替える。終演後の反応も至って芳しく、さてフィナーレは、JGを迎えて彼等の曲を2曲セッション。ソロ用セットの為、ワウもファズも持参しておらず、EQをブースターとして使用。好き放題やらせてもらい、かなりフリークアウトした内容に、観客も大喜び。矢張り皆ロックが好きなのであろう。
終演後、話し掛けて来る客の相手をしつつ、ビールを飲み倒す。
それにしてもイタリア女性は可愛い。今回のツアーは、イタリア・フランスなので、この先とても愉しみである。
1人の女性が手相を見てくれたのだが、これが全く日本の手相の見方とは異なるもので、また彼女の見立が全くもって当っておらぬ。易者の知人もいる事もあり、またかつて易者を目指した事もあるので多少の見立の心得もあり、彼女に日本の手相の見方を教えているうちに、これが大変な騒ぎとなってしまい、次から次へと「見てくれ」と長蛇の列が出来、もしやこれで生計が建てられるのでは思う程であった。
朝3時過ぎにJGのドラマーAlessimo宅へ。彼と軽い夜食を取りつつ世間話をした後、ちゃんとしたベッドにて就寝。
「5月24日 Goliziaにて」
朝7時起床。別段時差ぼけもなく、久々のベッドに感謝。シャワーを浴び、Alessimoが起きて来る迄、彼のCD棚から70sイタリアものを聴く。JGの最年長者である彼は、若くして大学教授だそうで、今日も午後から2時間程仕事をせねばならぬらしい。彼と朝のエスプレッソを飲み、一緒にPadova市街へ出かける。PadovaのセントラルでMarcoとJGのヴォーカリストMarco(以下MarcoJG:2人が同名なのでややこしい事この上なし)と待ち合わせ。Alessimoは大学へ。
私達は先ずMarcoの経営するレコード店へ赴く。ここは一楽さんが山口にて経営するDiscBoxのようなもので、メジャーなメインストリーム系からマイナーなサイケのリイシュ-やらインディペンデント系まで幅広い在庫を誇り、何でもアングラ系在庫を抱えるこの街唯一のレコード店だとか。ここでFranco Battiatoの70年代の作品のCDを纏めて購入。シールドの新品にも関わらず1枚6ユーロと激安。他にも欲しい70sイタリアものを尋ねてみたが、CDリイシュ-されても即廃盤らしく、既にソールドアウトとの事で残念至極。
その後2件しかないと云う中古レコード店へ、70sイタリアン・ロックのLPを探しに行ったのだが、1件は潰れ、もう1件は丁度店主が外出するところで、我々を眼前にしつつ店じまいと云う、全くもってイタリア的シチュエーション。
仕方がないので3人でオープンカフェにてビールとピザを注文。行き交うイタリア美女に目が疲れる。
その後、中世のイタリアの画家Giottoの展覧会が開催中との事で訪れるが、美術館であるにも関わらず昼休みで、次の開館は2時間後との事。何とイタリア的な事か。Giotto展は諦め、教会を巡りツーリスト気分を味わった後、MarcoJGは今晩の準備があるとかで別れ、Marcoと再びオープンカフェにて赤ワインを飲む。
そろそろAlessimoの仕事が終わる頃だと、大学へ彼を拾いに行く。駐車場は満車な上、次から次へと車が入って来る為、場内は殆どパニック状態。何しろ進行方向が皆てんでバラバラであり、そこいらでクラッシュ連発。これもきっとイタリア的な日常光景なのであろう。
漸くAlessimoと合流し、Marcoの車で今晩のライヴ会場のあるGoliziaへ向う。車で1時間の筈が、大渋滞で結局3時間をも要した。渋滞の原因は、合流地点でのルールが皆無の為、そこいらでトラブルが勃発した事に因る。嗚呼、これもきっと典型的なイタリアの日常光景なのであろう。
Goliziaは、田舎のとても美しい所で、スロヴェニアと隣接している為、標識等もイタリア語とスロヴェニア語との両方で並記されている。
今宵のクラブArt & Co.は、アートカフェのようなスペースで、ギャラリー等も持っている。ここのエントランスでイアン・ペイスのソロ・コンサートのポスターを発見。その隣には今宵のチラシが貼られている。
食事の際、私が「イタリア語で1~10」を教えてくれと問うや、5が「チンクエ」だと知り、「それは日本語では『Eat my dick(チン食え)』だ」と教えるや、JGの連中はそれ以来「チンチンクエ!」を連発。
大して広くないこのスペースに、満員の100人程度の客入り。パスティスと赤ワインを交互に注文しつつ、JGのパフォーマンスを観る。流石アートっぽいスペースの為か、私のソロ・パフォーマンスの反応も良く、とても気持ち良く演奏出来た。そして昨夜に続き、JGとのセッション。昨夜とは異なる彼等のレパートリー2曲を演奏。再び好き放題にやらせてもらい、2曲で1時間にも及ぶフリークアウトなセッションとなり、最後は勢いで恒例のギターにチョークスラムまで喰らわせてしまった。これがまた大ウケで、終演後持参したCDやらTシャツは瞬く間に売れて行った。11月にAMTで再び来るのが、とても楽しみである。
JGのキーボード・プレイヤーと話をしてみれば、彼はれっきとした職業ミュージシャンであり、仕事で日本やアメリカにも行った事があるらしく、年長者っぽい風体なので、しっかりした意見等も伺え面白かった。特にイタリア人は、日本やドイツと共に第2次大戦の敗戦国であるが故に、その後の復興ぶり等も含めてとてもプライドがあるらしく、兎に角何があっても英米にだけは負けたくないらしい。ならば今やアメリカを日本のアンダーグラウンド系やドイツのクラウトロックが震撼させている中、是非ともイタリアン・ロックも頑張って欲しいものであるが、70年代末にイタリアン・ロックは完全に死滅したらしく、そもそもイタリア人はロック等の音楽愛好者が予てより然程多くないらしく、況してプログレともなれば、今や誰も興味がないとか。そもそもイタリアにてOpus AvantraのLPどころかCDさえ見つけられないと聞いた時には、流石に驚きを隠せなかった。
さて未だ「チンチンクエ!」を連発するJGの連中は、そのまま下ネタに突入。私もパスティスとサンブッカを交互に飲みまくるこの地獄行きコースにて、負けじと下ネタ連発で応酬。下ネタは万国共通のようで、大いに騒ぎ、宿泊先へ着いたのは朝4時。流石に即寝成仏。
「5月25日 Bolognaにて」
朝10時起床。昨夜の演奏で右手親指の爪に弦を食い込ませてしまい、爪が半分剥がれて内出血。痛い。
さて名残り惜しがるJGの連中と再会を誓い、Marcoの車でGoliziaを後にし、Padovaへ戻る。彼と今後のビジネスの話やら世間話をしているうちに、Padova駅に到着。駅で彼と別れた後、彼の弟のGFが私を見つけ呼び止める。彼女はこの2日間、ライヴでライトショウを担当していたのだが、そのヴィデオを私に渡そうと、今朝から駅で待っていたそうだ。この気持ちには感動、イタリア人はフランス人よりハートフルな分、フランス人よりポイントは上か。今後はイタリア女性に乗り換えるか等と思いつつ、Bologna行きの列車を待つ。
しかし待てど暮らせど一向にその前の列車が発車せぬ。まさかと思い、再度プラットホームをチェックすると案の定、私の乗る列車の発車ホームが変更されている。全くもってこちらではよくある話だ。兎に角ここはイタリアであり、油断禁物。
無事にBologna行きの列車に乗ることも出来、2時間もすればBolognaへ着く。Padovaから今晩のオルガナイザーGinoに到着時間も電話してあるので安心である。
向かい合わせたアラン・ドロンばりの美青年でさえ、矢張りハンカチで鼻をかむ。こちらでは誰もがハンカチで鼻をかむ。この習慣は、私達日本人には少々理解出来ないものであろう。何しろ鼻をかんだ後、そのハンカチは当然ポケットに仕舞われるのであるから。そしてそのハンカチは当然再び幾度となく使用されるのであり、一体1日が終わる頃には、そのハンカチは如何様な姿に相成り果てているのか、想像したくもない。
斯様な事を考えているうちにBolognaへ到着。
Ginoが迎えに来ている筈であるが見当たらず、再度彼のモバイルへ電話すると、時間を間違えていたらしい。いきなりイタリア的である。彼を待つ40分の間、駅前にて美女ウォッチング。否、本当にイタリアは美女揃いであり、それもイタリア系、フランス系、東欧系、スペイン系等いろいろおれど、揃いも揃って美女ときており、嗚呼、何と素晴らしきかなイタリアは。
漸くGinoが到着。笑顔を絶やさぬ気の良い陽気な45歳。彼は、イタリアの音楽雑誌Blow Up誌のライターでもある。
ホテルへチェックイン後、噂で聞いていた中古レコード店「Underground」へ行くが、意外に何もなく少々失望。逆に店員にAMTのCDを卸してくれと頼まれるが、今回持参した大量のCDは、既にPadovaとGoliziaにて殆ど売れてしまっていた。兎に角AMTのCDは、イタリアでは入手困難らしい。
さて今晩の会場はLink Clubと云う、Bolognaでは有名な大きなクラブである。1階と地下に合わせて4つのホールと2つのダンスフロア、更にカフェと図書館まである。私が演奏するのは、地下のミラーボールが回る小ホールである。小ホールと云えど、キャパ200人はあろう広いスペース。
6時からサウンドチェック。その後は、Ginoと周囲を散策。最近オープンしたばかりと云うオープンスペースは、カフェ、ギャラリー、クラブ等を含むとても良い雰囲気の場所で、多くのアーティストの社交場ともなっている様子。勿論多くの人でごった返し、そして当然の如く美女尽し。その後、近くの広場でのFestaへ。
ローカルバンドがアメリカン・スタンダードを演奏しているのだが、イタリア語によるアメリカン・スタンダードはかなり滑稽で、逆にきっと日本語で歌われるこの手のものも、彼等にとっては同様に滑稽に聴こえるに違いあるまい。ワイングラスを傾けつつ、老若男女がこの演奏を雰囲気を楽しんでいる光景は、矢張りヨーロッパ的で、踊り出す老夫婦に不自然さも感じられない。ステージ前でトライバル系の若い男女5人が踊り狂う。その中の1人の女の子がスーパーキュートなれば、思わず見とれてしまった。
開演が深夜12時30分からなので、9時頃に近くのレストランにて、Ginoや彼のボスであるRico、そして今宵大ホールにて演奏すると云うGallon Drankと云うUKパンクバンドと共に皆で食事。私は赤ワインとピザを注文。流石イタリアでは連日パスタとピザに明け暮れているが、今の処はこれと云って問題なし。今回はイタリア・フランスと云う事で、殆ど食材やら調味料等持参しておらぬが、多分大丈夫であろう。
Gallon Drunkのメンバーの1人が、タバタ(Zeni Geva)そっくりで、そう云えば以前イスタンブールでもタバタに激似のギタリストと出会った事があったが、いやはや彼の顔は万国共通なのか。何しろ声や笑い方、キャラクターまでそっくりで、これには本当に笑ってしまう。彼のGFは日本人らしく、そう云えば先日のUKツアーでドライバーを務めてくれたロンドン・パンクスBenも東洋人のGFであったし、ストラングラーズのJ.J.バーネルも確かそうであったような気がするが、ロンドン・パンクスは東洋女性がお好きなのか。
開演前に、インタビューのヴィデオ撮影を行う。インタビューを英語で答える事にも幾分慣れて来たので、然程問題なく終了。いやはやそれよりもこのカメラマンの女性がウルトラ美形にして、私なんぞを撮影するよりも、私が彼女を撮影したい。
1階入り口のバーカウンターのバーテンを務める女性もスーパーキュート、否それどころか客やスタッフも含め、可愛い女性が芋を洗うようにゴロゴロしているではないか。嗚呼、何と幸せな場所であることよ。この美女率の高さは、私にとっての美女天国であるIstanbulやToulouseを軽く凌ぐやもしれぬ。恐るべしBologna。
さてこの日のステージは、ギターに因る倍音を重ねてフィードバックさせる事から始める。ラストに壮絶な倍音とフィードバックの嵐の中で、Pink Lady Lemonadeを演奏。これは会場の音響具合がかなり「まわる」事もあって、本当に気持ち良かった。
終演後、CDも好調に売れたのだが、矢張り男性客が圧倒的に多くを占める。これに少々寂しい思いを感じつつ、RicoのGFとジンを飲んでいると、数名の女性がこちらをチラチラ伺っている。目が合うやサインをせがまれ、更に中の1人が自分の肩の入れ墨を見せ、その意味を教えてくれと云う。見れば「愛」と漢字で彫られており、Loveだと教えるや「You!」といきなり迫って来るではないか。この女、もしやこの手口で日本人等を片っ端から食わえ込んでいるのではなかろうか。何にせよ、もう少し可愛ければ、今夜はホテルのツインに1人で泊まっている為、是非とも誘いたい処であるが、この美女天国の中、矢張り理想はかなり高く設定されており、御丁重にお断り。もしこれが英米ならば、間違いなく彼女を誘っていたであろうが、何しろここはイタリアであり、まるでハーレムである。
結局朝5時までクラブで飲み倒し、ホテルに着いた時には、既に陽が昇っていた。折角のホテルに泊まれる時に限りこういうものだ。Ricoは午後3時までステイ出来ると云っていたが、明日はMilano、Emanueleに久々に会うので、きっと朝早く出発するであろうから、勿体ないと云えば勿体ない話である。このホテルの部屋には、カンディンスキーとダリの複製が飾られており、とても良い感じの部屋である。矢張り「愛」の入れ墨に応えておけば良かったか、そんな想いも今や後の祭り。
「5月26日 Milanoにて」
結局朝9時30分に目覚め、さっさと用意をしてホテルを出発。今朝のフロントの女性もこれまたフランス系美人で、タクシーを待っている間のひとときを彼女と談笑。素晴らしきかなBologna。
ICに乗り込み、いざMilanoへ。1stクラスはガラガラで、コンパートメントを1人で占領。昨夜クラブから持って来たビールを飲みつつ、車内アナウンスの女性車掌の声に聞き惚れる。これは検札の時が楽しみだ等と思っておれば、結局検札には現れず終いでMilanoに到着。
Milano駅にはQBICO RecordsのEmanueleが迎えに来ていた。彼と知り合ったのは、1999年冬のロンドンにて、彼が奥さん同伴で、イタリアからわざわざAMTを観に来た時であった。その折、彼は私のEarly Works 10枚組ボックスを購入し、その後彼がそれをLPにてリイシュ-したいと申し出て来た事から彼との仕事が始まった。 Emanueleは兎に角喋るのが早い上に、イタリア訛りが酷く、当初彼の英語は殆ど理解出来なかった。また何を生業にしているのかは知らぬが、羽振り良く見える。更に猛烈なマニアで、一柳が作曲を手掛けた例の横尾忠則の2枚組ピクチャーLPやら、アヴァンギャルド系の限定プレミア盤やら、更にはLa Monte Youngのプライベート・ライヴ録音テープ群等、ブートさえ作れそうなレア音源まで所持している。
また彼は、今迄会って来たMarcoやGinoとは全く異なるタイプの典型的イタリア人である。美食を好み、サッカーを愛し、綺麗な女性に目がなく、気が短い事この上ないが、陽気な事極まりなく、マシンガンのように喋りまくり、車の運転に至ってはもう殆どカーチェイス並みで、危険度100と云った処。
さて駅で彼と再会を喜んだ後、先ず明朝6時30分のLyon行きユーロシティー(EC)に乗る為、駅にてそのリザベーションを済ませ、Emanuele宅へ赴く。
彼の奥さんの手料理は、Sardinia島出身と云う事もあり、今迄食べた料理の中でもズバ抜けて美味い。この日も私の為に既に昼食を用意してくれており、重量級ステーキの他、グリーンピースとハムの炒め和え、茄子の唐辛子風味炒め煮、トラ豆と豚肉の炒めもの等のサイドディッシュが並ぶ。Emanuele宅では、昼はいつもシャンパンを飲む。この豪華な昼食まで、今日は未だ何も口にしていなかったので、一気に平らげる。イタリアは、本当に飯が美味いので安心である。
Emanueleは、彼の新たなコレクションやら、彼のレーベルQBICOからリリース予定のConrad Shnitzlerのテープを聴かせてくれ、その間に3人でシャンパンを何本も空けた。
ここで漸くPCと遭遇。メールチェックをしようとしたが、新着29件中4件程に目を通しただけで、サウンドチェックの時間と相成ってしまった。
今回のMilanoは、新たに出来たと云う小劇場Teatro Estremoでの演奏となった。Milanoほどの大都市に良いクラブがないと云うのも不思議な話だが、この小劇場はなかなか雰囲気も良く、今後はここで色々な催しが行われると云う。今宵のコンサートについては、イタリアの大手新聞3紙も取り上げており、Emanueleの尽力の跡が伺える。 今宵の前座は、Allunと云う女性3人によるインプロバンド。何でも彼女らは台所用品やおもちゃを駆使したパフォーマンスを繰り広げるとか。
会場へ到着し、サウンドチェック。音響具合は素晴らしい。気持ち良く音が「まわる」空間である。その後、Allunのサウンドチェックの様子を眺める。一見普通の可愛らしい3人の女性が、日用品を使ってアヴァンギャルドな演奏をする様は、なかなか可愛いものだ。XA Recordsからカセットを出したばかりの頃の少年ナイフと同じ空気が漂う。
その後、Emanueleと彼の家へ戻り夕食。彼の奥さんは、レースがあしらわれた純白のかなりセクシーな衣装に着替えて、我々を迎えてくれ、彼は大喜び。
今度は多種のハムやらサラミやらが、まるで日本の菊盛りか波盛りの如く綺麗に盛り付けられている。夜は白ワイン、何でもMilanoでは白が好まれているとか。夕食と云うよりは、軽いスナックと云った感じであるが、昼が重量級だったので丁度良い。そう云えば前回も斯様なスタイルであったと記憶する。これがMilano流なのだろうか。兎に角白ワインのボトルを次々空け、程よく酔った辺りで、奥さんも同伴し会場へ戻る。
Allunのメンバーが、バックステージにてメイクをしている処を目撃。いやはやこれは何だ。思わず「Great!」と声を掛ける。
10時30分開演。客入りは満員の100人程度。
先ず最初にこの劇場オーナーの挨拶。イタリア語なので、何を云っているのかは全く判らないが、モバイルを取り出し電源を切るようにと呼び掛ける心配りは嬉しい。スピーチ後「ブラボー!」の声が飛び拍手喝采。
続いて、壮絶なメイクを施したAllunの3人がステージに登場。至って真面目そうなコンテンポラリー系客層を前に、狂ったパフォーマンスを披露。素顔でプレイしていたサウンドチェックでの可愛い空気感は、既にここにはない。
それにしてもこの客層や会場の空気から、これもまたアカデミックなものに見えて来るから不思議である。Bears等で演っておれば笑い飛ばしてしまう処だろうが、ここでは何やら明らかに違う空気が漂っている。後で聞いた話に因ると、かなり政治的なメッセージが込められているらしく、成る程道理でただのアホって感じではない筈だ。
さて続いて私のパフォーマンス。びっしり詰め掛けた客が、セッティングする私を凝視しているので「If you want to sleep, you can sleep.」と軽いジョークを飛ばしてからスタート。
この日のセットは、今回のツアーで何かと話題を提供しているギター用テルミンと、エフェクターの「ブーン」と云うノイズをディレイとハーモナイザ-でドローン化した、かなりスペイシーな感じから入る。ホール鳴りが心地良く、客層の醸し出す空気感もあって、かなりコンテンポラリー色の強い内容となった。終演後、劇場オーナーからカーテンコールの挨拶を頼まれ、再びステージへ。
ロビーにてCDやTシャツを販売。Emanueleも自身のレーベルQBICOの新譜「Baroque Bordello/1st Trip」(これは私の1979年録音作品)のLPを販売。QBICOのLPは、いつも綺麗なピクチャーディスクで、ジャケト・デザインも美しい。今回も彼自身の手に因るデザイン。
メイクを落としたAllunの3人と記念撮影。「メイクしている時も素敵だけれど、今の君の方がもっと素敵だよ」と、至ってイタリア的(?)コメントをすると「私も貴方のサーランギが好きよ」と見事に返され「ほなら俺の事は好きやないんか?」とジョークを飛ばし合う。
その後Emanuele宅にて、関係者一同で打ち上げパーティー。時既に深夜1時。これでもかと云う程白ワインのボトルを空ける。しかしEmanueleは、奥に巨大なワイン貯蔵庫でもあるかの如く、次々とボトルを持って来る。知らぬ間に「マコティーノ」と云うイタリアン・ネームまで付けられ、今日のコンサートの事、その他音楽やらアートについて盛り上がる。常々思うが、ヨーロッパのミュージシャンや関係者は、揃ってアート全般に造詣が深い。所謂アート系とでも云うか、インテリとでも云うか。されどイタリア人の場合、そこに突如下ネタが入る等、兎に角嫌味にならぬ処が良い。自慢げに語る訳でもなく、知らぬと云えば画集等取り出し説明迄してくれる。Emanueleは、普段は結構ヤクザな感じではあるが、こういう側面では別人のようで、毎度驚かされる。関西人も結構近い感じであるが、何にせよ私自身も含め、説教臭くなる事が難であろう。 宴も酣の深夜4時、ここで遂に奥さんの作ったパスタが登場。これがまた美味い。トマトとチリのみのシンプルなものだが、ピザも同様、シンプルなものの方が絶対的に美味い。
このパーティーで、テキサス出身のアメリカ女性と知り合い、我々2人はイタリア語が話せないので、自ずから2人で話が弾み、挙げ句にはWWFに至るが、矢張り彼女もWWFは好きではないらしい。勿体ない話だ。
結局朝5時にパーティーは終わり、そしてここで漸く私は眠る事が出来た。朝6時30分のECに乗る為、6時には起床せねばならぬ。あと残り1時間しか眠れないが、何しろ昨夜もホテルにて4時間ばかり眠っただけで、あと列車内で仮眠した程度だった為、一瞬にして眠りに落ちた。
「5月27日 Bordeauxにて」
朝6時にEmanueleに起こされ駅まで送ってもらう。朝のMilano駅は、先日昼にPadovaへ行く時に見られた賑わいは当然なく、静かなものである。
今日はBordeauxでコンサート。これはかなりの移動距離である。以前Jeromeに、どのルートから行けば一番良いか尋ねた処、MilanoからLyonを経てParisへ一度戻り、ParisからBordeauxへ行くのが良いだろうと教えられた。そして時刻表を見る限り、朝6時30分にMilanoを出れば、Bordeauxには午後7時着の予定である。今日からは、フランス人ギタリストJ.F.Pauvrosとのデュオによるツアーである。午後7時ならば、彼は既に飯でも食べている頃ではあるまいか。(後で聞いた話では、LyonからAvignon、Montpellier経由でToulouseを廻り、Bordeauxへ行く方が遥かに早いそうだ。但し列車の本数が少ない為、上手く乗り継げないと悲惨な結果になるとか。)
さて6時30分発のLyon行きECに無事乗り込むや、一瞬にして爆睡。結局Lyonへ着く迄の6時間、4度の検札の際に起きたのみ。しっかり寝たので気分も良くなり、そしてここLyon part Dieu駅にて、Lyon~Paris間とParis~Bordeaux間のTGVのリザベーションをする。昨日Milano駅にて、これらTGVのリザベーションもしようと試みたのだが、矢張りイタリア国内ではフランス国鉄SNCFの予約は出来ないと断られた。それにしても何故Parisまで戻らねばならぬのか。Lyon~Bordeaux間を直接繋いでくれれば、さぞや早く着くだろうに。況してやLyonからではParis-Lyon駅へ到着する為、地下鉄へ乗り継ぎ、更に乗り換え1回を経てParis-Montparnasse駅迄行かねば、Bordeaux行きTGVには乗れぬ。更にParis-Montparnasse駅は、最寄りの地下鉄の駅からかなりの距離があり、結果Paris-LyonとParis-Montparnasse間の乗り換えに1時間は見ておかねばならぬ。
前回のソロツアーの際も、Paris経由でLyon~Bordeaux間を移動したが、Lyon~Paris間でTGVが2時間遅れ、その為にBordeauxへは開演直前に着いた記憶がある。せめて今回は無事定刻通りに着いて欲しいものだ。
このLyon Part Dieu駅、数日前にはここで野宿したなあ等と思い返し、まだ僅か4日しか経っておらぬ筈であるが、もう既に1ヶ月も前の事のように感じる。イタリアは何につけても良い所であった。是非今度は、AMTで訪れたいものだ。
またイタリア女性の方が、圧倒的にフランス女性より可愛い気がする。勿論今回は未だ私の美女天国Toulouseを訪れていないので明言は出来ぬが。何よりもしかめっ面のフランス女性に対し、あの陽気なイタリア女性、矢張り軍配はイタリア女性か。
今回の滞在中にイタリア語を少々覚えたが、フランス語よりも発音が簡単そうな上、何よりあのリズムの感じさえマスターすれば、読みはほぼローマ字読みであるから、然程難しくはなさそうである。ならば帰国後、真面目に勉強してみるか。
1時発のParis行きTGVに乗り込み、ここでEmanueleの奥さんが「列車の中で召し上がれ」と渡してくれたケーキとビスケットで遅い朝食。その後また爆睡してしまったようで、ある紳士に「着きましたよ」と起こされてみれば、もう掃除夫達が乗り込んで来ている。Lyon~Parisの2時間の旅も結局爆睡。
慌てて下車し、急いで地下鉄乗り場へ。先ずライン1にて当駅Gare de LyonからChatelet迄行き、そこでライン4へ乗り換えMontparnasse Bienvenueへ行かねばならぬ。今後の事もあり、地下鉄の切符を纏めて10枚購入。勿論この方が割安な事は云うに及ばず、Parisの地下鉄の切符は、持っていればいつでも使えるので便利である。余ってもまた次回のツアーで使えばよい。
眠りこけていた御蔭で、乗り換えに充てていた1時間は、ここで既に20分が経過。地下鉄Montparnasse Bienvenue駅に到着した時点で残り15分。ここからフランス国鉄SNCFのParis-Montparnasse駅迄は、地下鉄1区間分程度の距離があり、この荷物を抱えての移動はかなり辛い。更にこのParis-Montparnasse駅迄は、階段の上り下りが矢鱈と多く、本当に旅行者泣かせである。
漸くSNCFへのアクセスである動く歩道迄辿り着くや、何と故障中で動いておらぬ。このとんでもない距離をまたもや荷物を抱えて歩く羽目となった。更にTGV乗り場は3階である。ここでの乗り換えは、今迄もムジカ・トランソニックやAMTで来た時も、何度となく時間ギリギリで走った経験があり、本当に憂鬱極まりなし。かつてToulouseの彼女に会いに行くにもここからTGVに乗らねばならなかった為、このParis-Montpernasse駅には何かと思い出も多い。
何とか3時55分発のTGVに無事乗車。Bordeauxのオルガナイザーに到着時間を電話せねばならなかったが、斯様な時間的余裕はなかった。Lyonから一度かけたが、その時は応答メッセージのみで、結局メッセージを残す事が出来なかった。取り敢えずBordeauxに到着してからでも問題あるまいと、楽観的に自己完結。
1stクラスさえ満席で、早い目にリザベーションしておいて良かった。Parisに着いてからと思っておれば、席の確保は無理だったかもしれぬ。TGVには新幹線のような自由席はない為、必ずリザベーションが必要で、こちらでは改札口と云うものが存在せぬ故、車内での検札が全てであり、もしリザベーションをしておらねば、ペナルティーを課せられてしまう。
今日のこのMilano~Bordeaux間の移動分のユーレイルパスは、昨日Bologna~Milano間で検札が来なかった為、昨日の欄に鋏が入っておらぬ事をいい事に、日付けを今日に書き直して使用。1日分浮いたので、途中で1日どこかへ出掛けられる。何か予定を考えておこう。
午後7時Bordeaux着。ここでオルガナイザーCecileに電話しピックアップを依頼。駅の外で約10分程待つ。Bordeauxは、予想と異なりかなり冷える。いつもは春先でさえ暑い印象があったので、これには少々驚いた。漸くお迎えが到着し、先ずホテルへチェックイン。この辺りから、何やら腹具合が悪くなって来つつあったが、さして気にも留めず会場へ向う。
今宵の会場は、Halle des Chartronsと云う、市街の広場内に建つドーム型の小ホールである。
J.F.Pauvros(以下JF)は、既にセッティングを済ませ、ステージ上でギターを弾きまくっていた。久々の再会にフランス流挨拶を交わした折、彼の一言「Great hair my friend!」
軽くサウンドチェックも済ませ、近くのレストランにてスタッフ一同と食事。ここに来てツアー前からの多忙もあり、かなり体力を消耗しているので、ステーキをオーダー。皆で談笑しつつ、本場赤ワインを片手にステーキを平らげる。
JFと話してみれば、彼は今回のツアーについて、私以上に何も知らされておらぬようだ。私も出発前に、漸く会場名と各オルガナイザーの電話番号を入手しただけにとどまり、後は「Bordeauxに行けばJFに会えるから」とだけ云われていた。故に彼が全てのインフォメーションを持っているのかと思いきや、彼に至っては、明々後日のGrenobleや6日のToulouseの件さえも知らされていないと云う。今回のこのデュオツアーは、Fractal Recordsによるものであるが、現在その当人Jeromeは日本へ旅行中で、今更どうする事も出来ぬ。結局成りゆきに任せるしかなさそうである。幸いにして明々後日は、JFもオフであった為、取り敢えずGrenobleのコンサートはキャンセルせずに済む事となった。
またこのBordeauxのオルガナイザーCecileに対しても、Fractal側からの連絡がなく、結果フライヤーを製作するにあたり、私に関する資料が見つけられなかったらしく、綺麗に作られたフライヤーを見てみれば、私の写真の代わりに東君の写真が印刷されている。これには一同大爆笑。彼女は、私に謝る一方で、スタッフ一同に懸命に弁解しており、何ともまあ可哀想な話である。
さて開演。このドーム型小劇場も、音の残響具合が心地良い。JFとのデュオはお互いに考えている事が判り過ぎる程なので、行き着く処が常に同じで、その都度、演奏中に何度も顔を見合わせては笑ってしまう。終演後彼は、即興でここまでユニゾンする事はとてもアメージングだと語っていた。JFの多彩なギターワークに、私のギタードローンとサーランギが絡む。唯一悔やまれたのは、お互い「ブーン」と云うアンプからのノイズが酷く、静寂なセクションや沈黙すべき箇所で、このノイズが気になった事か。如何にもエクスペリメンタル系ファンらしいインテリっぽい客層が席を埋め、終演後もまるでクラシックのコンサートの如き一呼吸ついてから拍手が来る。JFは「まるで東京みたいで、ストレンジだ」と笑っていたが。
終演後、近くのバーへスタッフと繰り出す。結局朝3時迄皆で飲み倒し、その後JF共々ホテルに送ってもらい、ベッドに入った時は既に午前4時。
「5月28日 Rosina de Peiraを訪ねて」
JFと朝9時に1階レストランで会おうと云っていたのだが、矢張り7時起床。今回のツアーでは、本当にベッドで眠れぬ日が続く。御蔭で体はかなりの過労気味。シャワーを浴び、TVを観て暇つぶし。ジダンが怪我したらしく、これが今朝の一大ニュースのようだ。
9時にレストランへ行ってみたが、JFはおらず、1人で軽い朝食を済ませる。この辺りから昨日以来の腹具合の悪さが一段と酷くなって来た。
今日はライヴこそないが、その代わりに今回のツアーの最大の目的であるRosina de Peira宅を訪ねる日となっている。Rosina de Peiraとは、私の愛してやまぬOccitanの代表的トラッド女性シンガーである。出発前からRosinaにメールでアポを取り、彼女が在宅していると云う5月31日迄の間で、私の唯一のオフ、即ち今日こそがその約束の日なのである。彼女は英語が全く判らない為、フランス語の話せる友人同伴で来て欲しいとの事だったので、Audreyに依頼。彼女が快諾してくれたので、今日Toulouseの駅で待ち合わせる事になっている。
されどAudreyが最近引っ越してしまった為、彼女の新しい電話番号が判らぬ有様。メールで知らせてくれと頼んだのだが、肝心のPCに殆ど出会わぬ為、未だ彼女からのメールをチェック出来ぬまま、遂に今日に到ってしまった。Toulouse界隈で電話番号が判るのは、彼女のバンド仲間Fredericのみであるが、何度電話してみても、何やらフランス語のメッセージで違う番号を告げている様子。その程度までならフランス語は理解出来るが、肝心の番号となると猛烈な早口の為、私のフランス語力では到底聞き取れぬ。このままAudreyに連絡取れぬとあらば、Toulouseまで行った処でどうすれば良いものか。最悪の場合、Toulouse駅からタクシーで、彼女の新住所を頼りに訪ねるしかあるまい。まあなるようにしかなるまいと、取り敢えず荷物を纏め、再びレストランへ。レストランではJFが、W杯の日韓地図を眺めつつコーヒーを飲んでいた。
彼は一先ずParisへ戻り、明日直接Lyonへ向うと云うので、Lyonでの待ち合わせ時間等を決めつつ談笑。そこで思い出したのがFredericのメッセージの件で、彼にFredericのメッセージを聞いてもらうと、矢張り新しい番号に変更されていると云う。漸くFredericと連絡がつき、Audreyの新電話番号を入手。これでAudreyに自分のToulouse到着時間を告げる事が出来、一安心。迎えに来たCecileに、JF共々Bordeaux駅迄送ってもらう。
駅でJFと別れ、Toulouse行きのTGVに乗り込む。かつて私がJFとのセッションの約束をドタキャンした経緯もあって、JFが皮肉混じりに「Toulouseはマコトのホームタウンだろ」と云う程、確かにToulouseへはよく来ているし、今や土地勘さえある。久々に眺めるToulouseへ到る迄の車窓からの景色も懐かしい。しかし突然、腹具合が更に悪化。旅先での体調不良ほど厄介なものはない。
Toulouseに到着。この駅には出口が2ケ所ある。今日はいつもとは違う出口の方へ出てしまった為、いつも待ち合わせていた出口の方へ歩いて行く。ふと遥か彼方を見れば、何やら巨大な業務用マイクロフォンとヴィデオカメラを担いだ男女3人組の姿が見える。そう云えば今や映像作家の卵であるAudreyは、彼女が前回のAMTツアーに同行した時のように友人Estelleを連れて、私がRosina宅を訪ねる姿を撮影したいと云っていた事を思い出した。
撮影用であろう「MAKOTO」と書かれたサインボードを持ってわざとらしく待つAudreyと、撮影班の期待を見事裏切り、全く異なる方向から歩いて来る私の姿を見て「Why?」を連発。そうそう人生とは思っている通りにはいかぬものなのだ。
さてEstelleの運転で、Audreyと彼女の級友の男性、そして私の4名は、いざRosina de Peira宅へ向う。車で走る事1時間、途中素晴らしい景色の中を通り過ぎつつ、次第にまるで中世のような空気に変わってくる様子に、流石に興奮を隠せない。最後に一気に山道を駆け上がると、そこには本当に小さな集落、と云うよりもただ5~6軒の家が立ち並ぶのみ。たまたま井戸端会議をしていた数人の御婦人方に、Audreyが尋ねる。「Rosinaの家は何処?」「その先だよ」もうすっかり景色から人までが、中世のまま止まっているとしか思えず、本当に今は2002年なのか等と、自分が一体何処にいるのかさえ怪しくなって来た。そんな遠い空気を感じる中、何とも眺めの良い丘陵の上に建つ、いっぱいの花で飾られた彼女の家に遂に到着。
入り口には花がアーチを作り、何とも甘い香りをそこいらに漂わせている。
さてEsteleと級友がカメラとマイクを構える中、私とAudreyが呼び鈴を鳴らす。最上階の3階から何やら話し声が聞こえるが、一向に気付く気配なし。Audreyの「Bonjour, madame!」の絶叫数度目にして、3階の窓から遂にRosinaが顔を出した。「明日来るものだと思っていたわ。」
何でもRosinaは、今日より明日の方が都合が良かった為、その旨をメールしてくれたそうなのだが、如何せんその時点では私はもうツアー中である上、メールがチェック出来なかった事もあり、斯様な事知る由もなく、結局今日参上した次第。勿論明日はLyonにてコンサートがある故、どの道今日しか来る事は叶わなかった。
「日本からわざわざ来てくれたなんて信じられない」と温かく出迎えてくれ、勿論今の彼女は私が良く知っている写真での姿より歳はとっているが、その笑顔は写真で見たことのあるあの笑顔と同じであった。
「こんなものしかないけれど」と出されたと缶コーラを飲みつつ、色々Rosinaに質問する。彼女は当初「昔の事はあまり憶えていないわ」と云っていたのだが、長時間に渡って丁寧に彼女の半生を語ってくれた。その内容は、全てAudreyのヴィデオに収められているが、またいずれ何らかの形で発表出来るかもしれぬ故、ここでは敢えて詳細には触れぬ。ひとつだけお知らせするならば、Martinaは、日本の解説等では妹となっているが、娘の誤り。因みに彼女は今、ソロでトルバドールを歌っているとか。
その後Audreyが、彼女にAMTが「La Nòvia」をカヴァーしている事を告げると、「これかしら?」と何と歌い始めた。嗚呼、大感激…。僅か眼前50cmの距離で彼女の生の歌声を聞けるとは。
更にAudreyは、前回のAMTのUSツアーのヴィデオから、La Nòviaのみを編集したテープを持参しており、それを彼女に観せると云う。未だにヴィデオデッキの使い方が判らないと云うRosina、そこでAudreyがテープをセットする。漸くスタート、冒頭のアカペラのセクションから爆音のバンド・アンサンブルへ突入するや、Rosinaは「Waw!」と私に抱きつき頬にキスしてくれた。これには私を始め一同唖然。彼女は「日本のロックバンドが、オクシタン・トラッドをカヴァーしているなんて信じられない」と、とても喜んでくれ、その後もオクシタン・ミュージックについての質問等に、とても丁寧に答えてくれた。またミュージシャンとしての哲学等も伺う事が出来た。
Rosina de Peiraとは、Peira(Payra)地方のRosinaと云う名前であり、勿論彼女の本名ではない。しかし実は、本名が中世からの歴史に由来する素敵な意味がある事を最近知ったと云う彼女は、もし次作品を出せるなら、是非本名を使いたいと話していた。 私の今回の訪問を「まるで宇宙的な出来事」と語り、さえずる小鳥の声についても「ほら、『oui』と云ってるわ。」何と素敵な感覚なのだろう。彼女の人柄を知り、哲学を伺ううちに、私が人生に於いて今迄出会ってきたミュージシャンの中でも、桁違いに器の大きなグレート・ミュージシャンである事をひしひしと実感。そもそもまだ会ってから少しの時間しか経っておらぬのに、この親近感は何だろうか。
さて最後にAMTの「La Nòvia」のLPも手渡し「嗚呼、目的完遂か」と思いきや、今夜Rosinaは、Toulouseで行われるOccitan Festaに出演するとか。この千載一遇の機会をわざわざ逃す手はあるまい。勿論我々も同行する事に。しかし彼女は、それがToulouseの一体何処で行われるのか良く判っておらぬらしい。ただ場所の名前だけを頼りに、後は人に尋ねながら行くと云う。この楽観的発想こそ、まるで私と同じ思考回路ではないか。
夜にまたToulouseで再会することを約束して、帰路につく。Toulouseへ戻る途中、大きな虹が、延々と続く緑の大地から聳え経つのを見て、まるで虹が我々を見送っているかのようであった。
さてToulouseにてAudreyの級友と別れ、我々3人は先ず今夜に向けて、ヴィデオカメラのテープの補充を済ませ、その他雑用を幾つか片付けた後、いざOccitan Festaへ。会場は、広い河原に張られたサーカステントで、その周りには屋台も並ぶ。我々がテントへ着くや、ゾロゾロと人が出て来る。どうやら終演してしまったようで、これは一生の不覚と思っている処に、我々を見つけたRosinaが話し掛けて来た。何と実は彼女も、場所が判らず1時間以上も道に迷った御蔭で、結局間に合わなかったと云う。この頃から私の腹具合は絶不調に突入し、既に今日1日、朝食のクロワッサン以来、何も口に出来なかったどころか、今や殆ど脱水状態である。されど斯様なチャンスは滅多にないと、トルバドールに扮した語り部の野外パフォーマンス等を観賞。木の胯に寝転がり唄う姿は、きっと中世も斯様な風であったのだろうと想像させる。
その後テントに戻りRosinaが、私の事をテント内に残っていたスタッフ皆に紹介。100%オクシタンの中に1人の日本人、これ程自分が「外国人」である事を思い知らされた事は、実は今迄なかったように思う。されど皆、温かく迎えてくれた。まるで日本大好きな外人が、田舎の祭に神輿を担ぎに来たようなものか。
この頃になると私の体調は、既に立っている事さえ辛い程となり、それを見たRosinaが「貴方の健康の為に」と1曲唄ってくれると云う。それ迄ダンス音楽を演奏していた2人と軽く打ち合わせをするが、どうにもうまく合わないようで、結局彼女はアカペラで「Les Montanhols」を歌い始めた。その素晴らしい歌声について、とても私の拙文如きでは書き表わす事等及びもつかぬ。更に彼女は皆に、私がロックバンドでLa Nòviaをカヴァーしている事を告げ、何とここで本家本元の「La Nòvia」を披露。これには会場中も大合唱。
更に「A L’ombreta D’un Albar」「Vila De Castethnau」「Arieja O Mon Pais」等、立続けに10曲程歌う。知らぬ間に私もRosinaに誘われ、皆と一緒に輪になって歌っていた。勿論曲はどれも全部覚えているが、歌詞は幾度となく聞いているうちに覚えた出鱈目オック語で、されど斯様な事等お構いなし。最後は「Se Canta」がエンドレスで歌われ続ける。そして気付いてみればあれ程酷かった腹具合もすっかり良くなっている。彼女が云っていたように、「歌」には本来こういう力もあった事を認識。これぞ本当の「歌」なのだなあ。
その後、再びダンス音楽が始まり、Rosinaを始め、純血オクシタン娘のAudreyまで踊り出す。
さて夜も更け、宴もお開きに。予想外の終演後のハッピー・ハプニングであったRosina de Peiraのコンサートに、皆も未だ興奮覚めやらぬ風で、お開きと云いつつも歌声とダンスは続く。その歌声を聴きつつ我々とRosinaは会場を後にする。またの再会を誓い「アデューォ。」(オック語に於ける「さようなら」であるが、直訳すると「神と共に」だそうな。)
嗚呼、何と素敵な女性なのだろうか。生まれて初めて出会った、巨大な母性を感じさせる女性であった。斯様な日に体調の悪い自分が呪わしかったが、御蔭で彼女の歌声が聴けたかと思えば、それもまた我が星か。
何はともあれ、一生忘れ得ぬ素晴らしい1日であった。この機会を作ってくれたRosinaとAudrey、Estelleに改めて感謝。
「5月29日 Lyonにて」
Audreyのアパートに泊めてもらい、朝のコーヒーを御馳走になってから、学校へ行くと云う彼女と別れて、私はToulouseの駅へ向う。今日はLyonにて、再びJFとのデュオのコンサートである。10時30分にToulouseからMarseille行きの列車に乗り、MontpellierにてDijon行きのTGVに乗り換えLyonへ行くのだが、そのMarseille行きがいきなり10分遅れで到着。Montpellierでの乗り換え時間は20分しかない為、これ以上遅れられると乗り継ぎ出来ぬかもしれぬ。それでなくとも今回はLyonが鬼門になってそうで、どうも嫌な感じである。まだ明後日もLyonを経由せねばならぬので、尚の事である。
結局Montpellierには、然程遅れる事なく無事到着。ここでLyonへ向うDijon行きのTGVのリザベーションを済ませ、1時34分のDijon行きTGVに無事乗り込む。兎に角酷い下痢と脱水症状なのだが、ここで水分を取るとトイレから出られなくなるので、都こんぶを舐めるのみ。何とか今日1日を都こんぶで乗り切って、明日から体調を戻したいものだ。旅先での病はそれだけでも辛いが、ツアーに於いては日程をこなしていかねばならぬ為、寝ている事さえ許されぬ。何につけてもタフでなければ、この稼業は務まらぬ。
3時30分、再びLyon Part Dieu駅に到着。JFとの約束は4時であったから、少々早く着いた事になる。オルガナイザーへ電話してピックアップを依頼。オルガナイザーのDamianが迎えに来てくれたが、地下鉄で移動、どうやらクラブは山手にあるらしく、更にケーブルカーに乗り換える。ケーブルカーを降りてからの荷物を抱えての上り坂は、脱水症状の私には過酷な事この上なし。更にLyonは大快晴でかなり暑く、体内の水分が一気に汗となって噴出し、今日の会場Kafe Muzykに到着した頃には、完全に体内の水分がエンプティーとなっていた。
この辺りは中世からの古い街並らしく、雰囲気はとても良い。先ずは水分補給にビールを1杯頂く。JFは何でも6時頃到着するらしいので、セッティングを済ませた後、Damian宅へ行き洗濯をする。あと日本でやり残して来た用事を片付ける為、電話を拝借、更にメールのチェック。漸くここで、全メールのチェックをする事が出来た。リリースの件、ブッキングの件等、山のような雑務の中から、取り敢えず早急に片付けなければならぬ分のみ返信。メールを見ていると、本当に憂鬱になってくる。ノート型PCを持ち歩けば、さぞや便利であろうが、そうするとツアー中ですら雑務に追われそうで、矢張りあまり持ち歩きたくはない。
クラブへ戻ると、JFもセッティングを終了しており、軽いチェックの後、近くのレストランへ。流石にあまり眠っておらぬ上、極度の空腹で疲労度100と云った処か。体調と相談しつつ、軽く食事を取る事にし、赤ワインにフォアグラとサラダをオーダー。矢張りフランスに来た限り、フォアグラは毎回1度は食べておきたい逸品。
10時30分開演。この日はデュオで3セットを演奏。Bordeauxではお互いアンプのノイズに泣かされたが、今回はその辺りもお互い改善対策を施して来たので、気分良く演奏出来た。
終演後、軽く赤ワインを煽りつつ客と談笑。その後、Damian宅へ。JFは別の家に泊まるようなので、クラブ前で別れる。Damian宅にて、奥さんと3人で映画や音楽について語りつつ、お茶を頂く。薬も貰ったので、明日はもう少し体調も良くなるであろう。
「5月30日 Grenobleにて」
朝再び薬を飲み、途中JFを拾って、DamianにLyonの駅迄送ってもらう。少々時間があったので、以前入った駅構内のバーで、JFとパスティスを飲む。あの時のバーテンが「こんにちは」と日本語で挨拶して来た。到着初日の夜を思い出す。
さて列車に乗りJFと雑談しているうちに、1時間でGrenobleに到着。オルガナイザーXavierが迎えに来てくれており、先ず彼の家にて赤ワインと軽い昼食を取る。彼の祖母の手料理はいつもの如く絶品。一服してからクラブへ向う。
今日の会場Crocoleusはスクワットで、多くのスタッフがここで共同生活しているようである。サウンドチェックに於いて、JFに機材トラブルが発生。昨日からお互いギターアンプを2発ずつ使う事にしたのだが、彼のラインセレクターの調子が悪い。結局原因不明のまま、何とか対処した様子であったが、明日早朝にParisへ戻りリペアすると云う。
庭のガーデンセットで夕食。薬が効いたのか、体調は良好。ぞろぞろと客も来始め、私の友人達も続々と現れた。昨年結婚したMarylaneとDrew、AMTと一緒にツアーをしたOWUNの面々、その他懐かしい顔触れが揃った。赤ワインを片手に皆と雑談。アメリカ人のDrewは随分フランス語が上手くなっているが、Marylaneに言わせると、皆が英語で話し掛ける故、なかなか上達しないとか。Drewは会った早々に一言。「マコト、一体いつになったらフランスに引っ越して来るんだ?」「綺麗なフランス人の彼女ができたら」「なら簡単だ、1週間ここに滞在して毎夜バーにでも行けば、マコトなら直ぐできるさ」
さて開演。先ずJF御得意の足にギターを擦り付けるノイズと、私の十手に因るグリッサンドから静かにスタート。
ところが私の前に1人の酔っ払いが、犬を連れてステージ上に座り、何やら喚いている。挙げ句の果てに犬が私のエフェクターの上に座ったので、思わずその輩を蹴り上げ「どかんかぁ、このボケェ!」と日本語でステージから降りるように催促するが、犬は退いたが、それでも尚この輩は退こうとする素振りさえ見せないので、「どかんかぁ、このあほんだらぁ!」と再び蹴り上げる。更に私は客席に「誰かこいつを連れ出せやぁ、こら!」と日本語でまくしたて、その語感とゼスチャーで理解したのか、数人の客が彼を外へ連れ出した。しかしここでステージは一旦中断。気を取り直して始めたのだが、もう既に冷静にはなれず、この日は2セットとも超ハード且つラウドな展開となった。JFも機材トラブルのせいでフラストレーションを感じていた様子で、結局は大爆音ドローンとなってしまったが、客は大喜び。
開演前の食事の際、JFが「君はとても静かな男だ」と私を評していたので、「もしも日本語で話したなら全然違うだろう」と答えたのだが、その時彼は、私の答に首を傾げて笑っていたものであった。それがいきなりこの騒ぎのせいで、関西弁でまくしたてる私の姿を目の当たりにし、その時は相当驚いたらしいのだが、後で Xavierから昨年のソロライヴの顛末を聞いて「クレイジー」と大笑いしていた。
何しろ昨年の二の舞いは御免被りたかった。昨年はソロでここGrenobleへ来たが、演奏開始早々、矢張り1人の酔っ払いがステージへ上がって来て、いきなり足でケーブルを引っ掛け演奏不能となり、怒り狂った私はその輩のドタマをギターで殴り、そのままギターを投げ捨て帰ってしまったのだった。今日ももしソロだったならば、同じ顛末となっていたかもしれぬが、JFが居たので多少の自制心が働き、救われたと云った処か。
終演後、ここGrenobleにはAMTファンが多いので、CDやTシャツも順調に捌けた。 片付けも終わった後、スクワット最上階にて、スタッフや友人達と打ち上げ。朝4時まで談笑。年に1度しか会えぬ友人達ではあるが、彼等と会える事は、ツアーに於ける至福のひとつであろう。
さて宴も終わり、Xavier宅へ。JFは、朝7時のTGVに乗ると云っているので、皆さっさと就寝かと思いきや、ベッドに入ってからJFがジョークを連発。こいつ本当に朝起きられるのか。
(2002/6/22)
『人声天語』第56回 特別編「ソロツアー2002(伊・仏)雑記」2/3
「5月31日 Parisにて(1)」
朝9時起床。矢張りJFは、今起きたばかりの様子で、結局10時30分のTGVでParisへ戻ると云う。JFを見送った後、Xavierと昼食。今日からW杯開幕、況して午後1時からフランスvsセネガルである。Xavierは「きっとサッカー狂のヒロシ(東君)も観ているだろう」と笑っている。2時のTGVにてParisへ向う。Paris-Lyon駅には、日本から帰国したばかりのFractal RecordsのJeromeが迎えに来る予定。
3時30分にParis-Lyon駅着。久々に会うJeromeと云った処で、先週日本で会ったばかりであったか。フランスがまさかのW杯初戦敗北で、街中は何やら静寂を保っている。まるでW杯なんぞ行われておらぬような空気である。何とも御都合主義のフランス人。
先ずはJeromeと今晩の会場であるInstant Chaviresへと向う。少々早く着いた為、近くのカフェで彼とビールを飲む。彼は、日本への旅行が余程楽しかったのか、散々日本での話を聞かされる羽目となった。
そこへJFが現れた。何でも今日の午後、彼等は今回のブッキングの件で、電話にて大喧嘩したらしい。私としてみれば、一応ここまでは滞りなく演奏出来たのであるから、今更どうでも良い事であるが、彼等にとってはそうでもなかろう。
取り敢えずクラブへ戻ると、既に1人2発ずつ計4発のギターアンプがステージに組まれている。機材的には、今回のツアー中ベストであろう。軽くチェックを済ませた後、スタッフ一同と夕食。
その後、JFと近くのバーへ繰り出す。オープンカフェで飲んでおれば、次々と彼の友人やら知人やらが集まり、既にちょっとした宴会である。このオープンカフェの持つこの空気感と、フランス人の見境ない社交性は、時折羨ましくもある。最後にJFが、エスプレッソとコニャックをオーダー、これが効くと云うので、私もついついオーダーしてしまう。
さてコンサートの方は、またもや2人ともアンプノイズに終始悩まされつつも、今回のツアーを通してのギター・アンサンブルについて、ひとつの完成型に近いものとなったと思う。
JFは、今回のツアーで新しい世界を発見したと云っていた。Jeromeも、JFのコンサートは幾度となく観ているが、今晩の彼は今迄の彼とは全く異なり、今晩のパフォーマンスが彼のベストだと云っていた。結局我々は、2時間半演奏し終了。
終演後、クラブで赤ワインを飲みつつ、色んな人と話す。現在フランス在住の元不失者のドラマーである村山氏とも出会い、後日セッションする話等も出る。Parisは流石に華やかであり賑やかで、色んな人に出会えて嬉しい限り。JFの友人の映像作家が、是非撮影したいと申し出、結局来週辺りに、何処かでレコーディングも兼ねたセッションをやろうと云う事になった。これは嬉しい限り。JFと演奏するのは本当に楽しい。
「6月1日 Parisにて(2)」
Paris滞在中は、Jerome宅に泊まる事にした。クラブの方でホテルを用意してくれていたが、荷物を抱えて今日再びJerome宅へ移動する事は御免被りたかった為、ここに腰を落ち着ける事に。
先ずは6日のToulouseでのデュオ・コンサートについて確認せねばならぬ。来週は、3日に村山氏とセッション、5日にJFと公開レコーディングも兼ねたセッションを行う事が決定。結局Toulouseの件は、未だはっきりせず。JFの提示している条件に対し、オルガナイザーであるAudreyの返事待ちと云う処なのか。まあいずれはっきりするであろう。
さて今日はParisにてオフであるから、当然中古レコード店巡りである。されど今回は鞄のキャパが然程ない為、なるべく買わないように心掛ける。しかし1件とんでもない店を発見してしまい、クセナキスを筆頭に現代音楽やら民族音楽やら、もう殆どパニック心理に陥り、完全に衝動買いへと暴走。挙げ句の果てには、持ちきれぬ程のLPを購入してしまい、さて一体これをどうやって持って帰るか、とても持って帰れそうにはないので送るしか術はなさそうである。
その後Bimbo Towerへ。ここで70sフレンチ・サイケバンドMahogany Brainの復刻CDを購入。ここはDragibusのFranqが経営するレコード店で、Parisで、否フランスで唯一AMTレーベルのタイトルを扱っている店であり、日本のアンダーグラウンド系は勿論、フレンチ・サイケデリック、エクスペリメンタル、モンドミュージック、エレクトロニクス等、幅広く扱っている。また日本のコミック等から果ては日野日出志のTシャツさえも扱っており、差し詰めParisのタコシェとでも云った感じか。ここで偶然、Chicagoのアホ・サイケ軍団の一端を担うノイズ女性デュオMetaluxのParisでのライヴのチラシを発見。何とFranqがオルガナイズしたとか。あのアホ軍団をChicagoから外へ出していいのだろうか。否しかし、その総帥Plastic Crimewaveも7月に来日するのであったな。
その後、皆でバーへ繰り出す。結局ここからバーを4件ハシゴ。最後はレストランバーへ辿り着き、ここで深夜3時過ぎにも関わらず、皆でステーキを注文。以前「深夜のステーキこそ真のParisのライフスタイルだ」と聞かされた事があったが、確かにここ迄ひたすら飲むだけであったので、かなり空腹であった事は事実。このレストランバーでは、ツーリストが犇めく中、歌手が自らカラオケマシーンを操作しつつ、甘い歌声でシャンソンを歌っており、この日もデンマークからの観光客の一行が突如踊りだし、店内はいきなりダンスフロア化。「これぞParisだ」とJeromeは私に説明していたが。 さて時間はもう既に4時を過ぎ、タクシーを拾おうとするのだが、土曜の夜と云う事もあり、なかなか拾えぬ。漸くタクシーにてJerome宅へ戻ってみれば、既に午前5時。それにしても今日は散財したものだ。軽く400ユーロは遣ってしまった。
「6月2日 Parisにて(3)」
Jeromeはいきなり風邪でダウン。私も流石に連日の疲れもあって、昼まで爆睡。今日一日は全く何もする気が起きず、ただひたすら放心状態で、テレビのブラウン管を眺める。多分斯様な状態は1年に1度あるかどうか。されどこれもまた良し。何しろここはフランスなのだから。
「6月3日 Parisにて(4)」
今日は、Studio Bleuにて午後2時から3時間、村山氏とセッションの約束をしていた。 時間を20分程遅れて到着。スタジオのスタッフに「日本人のセイジロウと云う人は来てないか」と尋ねた処、「黄色いドアの部屋」だと案内されたが、そこに村山氏の姿はなく、ではきっと彼も遅れたか、若しくは何かの事情があるのだろうと思い、1人で機材を拡げ、この際であるからと色々試してみる。JFとの共演によって私も色々な発見があり、それを試しているうちに、予定の3時間が経過して終了時間と相成った。結局村山氏は現れず終いで、まあこれも縁がなかったか等と思いつつロビーへ出てみれば、何とそこで村山氏と遭遇。実は我々2人は、別々の部屋に通され、各々1人で演奏していた事が判明。スタジオのスタッフに散々文句を言っては、結局スタジオ代金をタダにしてもらい、更に次回3時間無料で使わせてくれると云う話まで取り付け、スタジオを後にする。
折角だからと2人でバーへ。村山氏から色んな話を伺いながらパスティスを飲む。その後、近くのインド料理屋へ行き食事。フランスでの生活や音楽活動の状況、その他フランス語の話等、興味深い話を多く伺う事が出来、とても充実した時間を過ごせた。村山氏はLyon在住らしいので、日本へ発つ前日に、再びLyonで再会する事を約束し、夜11時頃に村山氏と別れ、Jerome宅へ戻る。彼は相変わらず風邪でダウンしており、1人で深夜テレビを観ておれば、シェイラ・チャンドラが歌っていた。動いている彼女を初めて観た。
「6月4日 Parisにて(5)」
漸くJeromeの風邪は快方へ。
先ず郵便局へ行き、先日購入したLPを日本へ送る。いつもは200枚程なら抱えて帰るのであるが、今回の装備では、とてもではないが持って帰る事は不可能である。況してやまだこの後Toulouseにて、オクシタンのレコードを買う心積りでいるのであるから、もう絶対無理であろう。
さて6日のToulouseの件は、結局Jeromeが仲介した事が裏目に出て、JFとAudreyの間で交渉が決裂したようで、キャンセルする旨を彼が電話して来た。されどどの道、私はToulouseにて9日にソロ・ライヴがある故、6日にはToulouseへ発つ予定である。 今後の予定は、9日にToulouseでのライヴの後、11日にLyonのKafe Muzykにて村山氏とセッション、そして12日にはParisから日本へフライトである。いよいよ残す処1週間となった。
帰国便のリコファームも済ませた故、これで先ずは一安心。何しろ行きの便をいきなり吹っ飛ばしてしまっていたので、出発の際に成田のANAのカウンターにて、ParisのANAへ私の帰りのチケットがキャンセルされておらぬかどうか確認するよう言われていたのだった。
さて今日は、W杯の日本vsベルギーの試合がある。日本大好きフランス大嫌いのJeromeは、勿論日本を応援、片や日本のW杯招聘に未だ疑問を持つ私は、アンチ日本となりベルギーを応援。テレビの前で、お互いに点が入る度に歓喜の声やら悲鳴を上げつつ、対照的なリアクションを繰り返す。また日本人サポーターが映し出される度に、彼は目敏く可愛い女性を探し出しては「Super Cute!」を連発。元来2人ともサッカーなんぞに然程興味もないくせに、その2人がテレビの前に並んでW杯を観戦している姿は、自分達でも相当滑稽である。結局2-2にて終了。即座に東君へFaxを送ってみる。きっと今頃テレビの前で、さぞや悔しがっている事であろうから。早速彼から返信が届く。何やらフランスと日本、遥か彼方にお互い居ると云うにも関わらず、同時に同じテレビ番組を観ていたかと思うと、何とも不思議なものである。
あまりに暇なので、その後に行われた韓国vsポーランドの一戦も観て、結局ぼんやりと一日を過ごす。帰国すれば、再び忙殺されるかの如き生活となるであろうから、今のうちに心身共に休めておこう。
等と思った処で、矢張り何もする事がないと云う事ほど退屈極まりない事はない。ぼんやりしている行為が次第に辛くなってきて、結局暇に任せてネットサーフィン。Maso君のサイトがアップされたと云うのでチェック。しかし矢張りネットサーフィン如きでは退屈を紛らわせず、今度はJeromeのレコード・コレクションを片っ端から聴きまくる。「Seesselbelg/Synthetik1」は良い。レア盤のCDリイシューであるが、これは是非入手しておきたい逸品である。Plate Lunch Musicからのリイシュー。強烈な電子音楽作品。
「6月5日 Parisにて(6)」
今日は昼食をJeromeと、彼のアパートに近いビストロで取る事にする。ここは彼のお気に入りの店とかで、佇まいは高級そうな雰囲気である。言うなれば、日本でよく見受けられるフランス料理店の佇まいが、ここにはある。されど周りを見渡せば、然程気取った空気もなく、日本で例えるならば、少し値の張る蕎麦屋と云った具合か。
茄子とチーズのカルパッチョ、白身魚(何の魚かは不明だが淡水魚だと説明された。切り身で出て来たのでかなり大きな魚であろう。)と法蓮草のソテー香草風味と云った感じの品を注文。赤ワインを飲みつつ話しつつゆっくり頂く昼食は、如何にもフランス流ランチ。日本での慌ただしい感じはここでは皆無。そもそも料理が出て来る迄、一体どれほどの時間が経過しているのか。日本でここまで遅ければ、客は既に怒って帰ってしまっているであろう。
デザートは、巨大なキノコの様な姿をしたチョコレートとアイスクリームで、これはこのビストロお薦めの逸品。そしてエスプレッソで締め。いやはや腹一杯どころではない。これは何やら再び腹具合が悪くなりそうな予感。
さて夕方5時に、Jeromeと共に今夜のJFとの公開レコーディング会場へ向うが、その前に先ずBimbo towerへ。FranqがCDをトレードしたいと云うので、残り極僅かとなった商品をBimbo Towerへ納品。結局デンマークの70sピンク映画のサントラ・コンピレーションと、70sフレンチ・アングラ・サイケバンドSemoolの唯一の作品Essais等とトレード成立。
この後いよいよ公開レコーディングする場所へ、Bimbo Towerから徒歩5分程度の場所。ここはフランスのミュージシャン・アソシエーションが管理している場所だそうで、かつて一度閉鎖された事もあったそうだが、その後アソシエーションが闘い勝ち取ったそうだ。 ここには多くのスタジオがあるようで、その中の小ホールのステージには、既にJFと私の為に、各々ギターアンプ2発ずつベースアンプ1発ずつ計6発のアンプがセッティングされている。
今回のツアーでは、ずっとノイズに悩まされていた為、今日はJeromeにアダプターを2つ借り、なるべく蛸足にせぬようにした処、ノイズ問題はすっかり解消された。
流石に3発のアンプを同時に鳴らすと心地良い。ステージ裏の小部屋には、レコーディング機材が既にセットされている。また今日のパフォーマンスは、JFの友人の映像作家によって撮影される事になっており、こちらも既に3台のカメラがセットされている。 この本来予定には全く無かった今日のセッションが、今回の我々デュオのハイライトとなるであろう。今回のデュオ・ツアーは、全公演ライヴ録音されているが、多分今宵の録音が、いずれCDとしてリリースされるのではなかろうか。
軽いサウンドチェックの後、赤ワインを飲む。JFの友人や知人から音楽関係者やジャーナリストに至るまで、多くの人が詰め掛けた。
さて1stセットは、映像作家の希望から、20分程度のセッション。いつもは時間等気にせずに勢いで演奏している故、少々こじんまりした印象が残る。
2ndセットからは、もう時間を気にせず、いつも通り好き放題に演奏。計6発のアンプ群が、大爆音のドローンを醸し出す瞬間、自分がその音の中で溺れてしまうかのような錯覚さえする。ギター2本ならではの、壮絶な音塊と倍音の嵐。
2ndセット終了後、ミキサー室へ赴き「マキシマム・ヴォリュームにしても大丈夫か」と尋ねると「あとどれくらい上げるんだ」とニヤニヤ笑っている。このエンジニア、私のレンジを軽く見抜いてセッティングしていた様子にして、「まだ上げても大丈夫」と余裕をかましている。こう云うエンジニアは大好きである。突如ゲインを3倍以上にアップしようが動じないこの男、録音に関して心配する事は全くないと言えそうだ。
3rdセットは、先ずサーランギを使って、現代音楽の室内楽の如き空気から始める。しかしラストは矢張り怒濤のギタードローンへ突入。このセットは相当長かったと思われる。1時間程度演奏したのではなかろうか。
終了時、私はもう殆ど燃え尽きかかっており、口をきく事さえ辛い程疲れていた。
ロビーで赤ワインを飲んでいると、JFが「もう1セット、20分程度やろう」と言い出した。もう限界が近い私ではあったが、この申し出を快諾。
ラストセットは、JFのメロウなギタープレイからスタート。即興によるギターアンサンブルが展開される感じは、私の最も好きなパターンで、とても気持ち良く演奏出来た。ただ先のセット終了時にギターをEQの上に落としてしまい、EQが動作せぬ為、マキシマム・ヴォリュームが得られなくなり、もう気力のピッキングとストロークで大爆音の壁を作る。当然の如く、20分なんぞ軽く越えてしまった事は云うまでもなし。
終演後、私は体力気力共に完全に消耗し、口をきくどころか立つ事さえ出来ぬ程。いつも演奏をする度に、自分の生命を削っているような感じがするのだが、今日1日で10年分程の寿命を削ったような気がした。斯様な演奏を毎日続けておれば、ものの1ヶ月も経たぬうちに死んでしまうであろう。
皆が赤ワインを飲み談笑する姿を、ソファに横たわって眺めているのが精一杯であった。
気が付けば既に午前3時30分で、タクシーを拾って帰る事にし、JFとはBastille駅前で別れる。未だ興奮覚めやらぬJeromeは「ビールを飲みに行こう」と元気一杯のハイテンションで、仕方なしに付き合う事にする。Jeromeお気に入りのバーの1件へ、これがまた凄い人混みで超満員である。この空気では、間違いなく朝5時までは飲まねばならぬ様相で、しかし何分今日は疲れているので、未だ飲みたそうなJeromeを説き伏せ、ビール1杯にて早々に帰宅。
未だ興奮覚めやらぬJeromeを尻目にさっさと就寝。今日は本当に完全に燃え尽きた。まさしく明日のジョーの最終ページの気分である。真っ白に燃え尽きた。されど私の白木葉子は何処にいる。
(2002/6/22)
『人声天語』第56回 特別編「ソロツアー2002(伊・仏)雑記」3/3
「6月6日 Toulouseにて(1)」
昼頃起床。流石に疲れ切っていた上、昨夜の就寝時刻は午前5時30分である。今でも体に疲労感が相当残っている。AMTのツアー時も相当疲れるが、それはギターを弾きつつホタエてるせいであり、またグループを率いている責任の重圧感からであり、今回はバンドも居らず、そして座って弾いているにも関わらず、この疲労感である。自分でも想像を絶するような集中力で演奏したのか、何やら1日でめっきり老け込んだような錯覚さえする。
今日はToulouseへ移動。今宵予定されていたデュオのコンサートは、既にJFがキャンセルしたので、9日のソロ・ライヴまでToulouseにてオフ。今の私の体調から察すれば、ベストなスケジュールであろう。JFが電話を寄越して来て再会を誓う。
さて地下鉄で再びあのMontparnasse Bienvenue駅まで行き、2時10分発のTGVに乗るつもりであったが、例によって地下鉄が途中で立ち往生、何と30分以上の延着。勿論この地下鉄Montparnasse Bienvenue駅とSNCFのParis-Montparnasse駅の間の移動は辛い事この上なく、更にこの延着の為にダメモトとは思えど全速力で走らされる羽目となったが、結局は矢張り間に合わず。御蔭で次のTGVを探す羽目となり、Paris-Montparnasse発Toulouse行きTGVは、先の2時10分発が最終であった為、一先ずBordeaux迄行き、そこで乗り継ぐ事にする。TGVのリザベーションをしに行けば、Bordeauxでストライキをやっているとかで、Bordeaux~Toulouse間にてTGVが走っているかどうか不明の為、Bordeauxにて再度列車をチェックしてくれとの事で、結局Bordeaux迄のリザベーションのみを済ませる。切符売り場の女性が、私の身なりのせいか、1stクラスだと云ったにも関わらず2ndクラスの席を手配。今更クレームをつけて替えてもらうのも面倒臭く、まあたまには2ndクラスにて庶民の暮らしを垣間見るのも悪くなかろうと、そのまま受け取る。
2時40分発のTGVに乗車。しかしやはり2ndクラスは狭い。飛行機のエコノミー並みである。常に快適な1stクラスに乗車していた為、えらく貧相に感ずる。更に隣の黒人がCDウォークマンでHIPHOPなんぞ聴いており、ヘッドホンから洩れて来る音が猛烈に耳障りである。黒人ならカントリー・ブルースを聴け、ボケェ。
5時40分Bordeaux着。さてToulouse行きの列車を探せば、矢張りParisでチェックしたのと同じ6時4分発のTGVである。ストライキ等と云っていたが、取立てて問題なさそうである。
但しTGVは必ずリザベーションせねばならぬ。5時40分にBordeauxに着いた訳であるから、未だ25分の余裕があるのだが、通常日本ならば如何に混み合っていようが、25分あればまず100%指定席の切符を購入する事も出来ようが、ここはフランスである。
フランスに於いて最も嫌いなもののひとつとして、この切符売り場の能率の悪さを挙げておきたい。兎に角人がいくら並んでおろうが、元来並ぶ事を然程苦にせぬフランス人であるが故か、窓口の開いている比率が非常に低い。10の窓口があれば大抵5~6の窓口しか開いておらず、酷い時なんぞ2~3にとどまる。更に何を話しているのかは判らぬが、兎に角1人の客に対しての所要時間が非常に長く、時には切符1枚に5~10分を要する。以前、TGVのリザベーションの為並んでいるうちに、その列車が出てしまった経験さえある。
今回25分の余裕を持っておろうが、私の前には既にかなりの人数が並んでいる。果たしてリザベーション出来るのかと焦っていると、漸く順番が巡って来た。既に5時55分、あと9分である。私はユーレイルパスを使用している為、座席指定を受けるのみにとどまるので、所要時間は至って短い。
さてこれで安心、プラットホームへ向おうと、もう一度チケットをチェックすれば、何と行き先がParis-Montparnasseになっているではないか。たった今、そこから来たばかりである。慌てて切符売り場へ引き返し、他の並んでいる客に「Pardon」と謝りつつ先程のカウンターへ行き、即座にToulouse行きのチケットと取り替えてもらう。この時点で6時。Audreyに到着時間を電話し、ホームへ行くと丁度列車が到着。
しかし何と再発行の際に、禁煙席にされてしまっており、まあたかが2時間の旅であるから、乗り遅れるよりはマシであろうと我慢する事に。
8時15分にToulouse到着。誰も迎えに来ておらぬようなので、駅のロビーにて美女ウォッチング。矢張り同じフランスでも、ここToulouseは桁違いに美女が多い。Parisとは月とスッポンである。
美女に見とれているうちに、Audreyと彼女のバンドUehのギタリストBenjaminが迎えに来てくれた。どうやらfifteenとfiftyとを聞き間違えたらしいが、昔から彼女とは同じようなトラブルを幾度となく繰り返している為、さして気にもならぬ。
JFのキャンセルとJeromeの対応にAudreyはとても腹を立てており、いきなり気まずい空気である。更にキャンセルになったと思い込んでいた今夜のライヴは、私のソロとUehのライヴに変更されており、てっきり今夜はオフだと思っていたので、何にせよ早目に来ておいて良かったと言えよう。もし仮に私が夜更けにでも到着してようものなら、彼女の怒りはどれほどになっておったか図り知れぬ。
駅からクラブSalon Bocalに地下鉄にて直行。UehのドラマーでもあるFredericが、シアターでの音楽の仕事がある為、遅れて来ると云うので、先に私のソロから始める。久々のソロである。JFとのデュオで色々発見等もあった為、イタリアで行ったパフォーマンスとは、随分異なったものとなった。ギタードローンと云うよりも、ギター1本によるオーケストラとでも云うべきものか、途中にサーランギ・ソロを挟み込み、計1時間の演奏。久々のソロはソロで矢張り楽しい。
その後Uehのライヴ。今回は彼等の1stCD発売記念も兼ねている為、CDの曲から演奏。2曲目「Cambous」にゲストで参加。またラストでは、インプロでセッションも行った。
本当に演奏中、彼等はずっと笑っている。これ程ステージ上で笑っているバンドは、未だかつて観た事がない。彼等は本当に音楽を愛し、楽しんでいるように伺える。私も含め殆どのミュージシャンが忘れ失ってしまった「何か」を、彼等は今尚持ち続けている。 Toulouseはとんでもなく田舎であり、ここには未だクラウトロックもミニマル・ミュージックも届いておらぬ。未だ音響派やらシカゴ派が支持を集めている。されどToulouseの人々は常にピュアだ。故に私の音楽も何の抵抗もなく受け入れてくれるし、AMTで演奏した際も、誰もサイケなんぞ知らぬ上、「サイケってもう昔に滅びた音楽でしょ?」と殆どの人が口を揃えるこの土地にて、されど皆がとても楽しんでくれ、AMTの帰って来るのを心待ちにしている人の多い事からも、Toulouseに潜む純粋さの一側面を伺い知る事ができる。
終演後、EstelleやFredericの弟Ludricも参加し、Audrey宅にて打ち上げ、と云っても彼等の場合、1人グラス2杯程度のビールと皆で赤ワイン1本程度のささやかなもので、兎に角皆ひたすら喋る。疲れていると云っていたFredericさえも喋りまくる。そして喋り疲れた頃がお開きとなる。
Audreyは、明日は多忙らしく、朝9時には学校へ行かねばならぬらしい。Estelleから、AMTのUSツアー時のヴィデオに於ける我々の会話を訳して欲しいと頼まれ、では明日の昼食をFredericとEstelleと共にする約束をし、その後Estelleと共に翻訳をする事となった。
年に1度か2度しか会えぬ彼等ではあるが、本当に良き友人達である。今回のツアーでは少々疲れ気味で、珍しく里心なんぞ沸き上がっていたのであるが、ここに来ると斯様な事など忘れ去ってしまう。
されど今回のツアーに於いて、色々と考えさせられた事も事実なれば、今後の自分の成すべき事についても、より色々な方面から検討せねばなるまい。
「6月7日 Toulouseにて(2)」
9時30分起床。流石にツアー終盤に差し掛かり過労気味である。ゆっくり湯舟に浸かりたいものだ。Audreyはもう出掛けたであろうと思いきや、いやはや未だ寝ている。斯様な事は放っておいて、散らかしっぱなしの台所を片付け、1人のんびり煙草を吸っていると、彼女が起きて来たが、すっかり遅刻のようで、ものの5分も経たぬうちに出掛けて行った。しばらく台所でぼんやりしていると、ルームメイトの女性が起きて来たのでコーヒーを飲みながら雑談。Audreyの話では、イタリア人である彼女の料理の腕前は相当なものらしく、これは機会があれば是非御相伴に預かりたいものであるが、そこへAudreyの幼馴染みと云う女性が、Audreyの誕生日のお祝いを持って訪ねて来た。この金髪の彼女も超美人にして、70sな香り漂うデニムのパンタロンスーツが似合っている。類は友を呼ぶとは正にこの事であろう。3人で片言の英語やらフランス語やら入り混じっての雑談。幼馴染みの彼女は帰り、ルームメイトの彼女も出勤し、残された私は、のんびりギターを弾いたり、レコードを聴いたり、久々に1人で過ごすゆっくりとした時間。
午後2時、Estelleがサンドウィッチにかぶりつきながらやって来た。一体一緒にランチを食べようと云っていた話はどうなったのやら、されどこれこそが典型的Toulouserなのであるから仕方なし。
さてUSツアーのヴィデオを観つつ、我々の会話を私が英訳。それを彼女が仏訳して書き記して行く。既にAudreyによってある程度編集されており、更に編集の為のシナリオのようなものも作られており、仏訳の必要な箇所も指定されている為、作業は順調に進む。しかし何にせよ、我々の会話ときたら下らないジョークが殆どで、その時の前後関係やらが判らないと全く意味不明で、更に津山さんの連発する下ネタを訳して良いものかどうか。改めてAMTの阿呆さ加減を、客観的に知る事となった1日であった。
Audryが帰宅し、Estelleは仕事終了につき帰って行った。その後UehのメンバーBenjaminとStephaneが訪ねて来て、今からUehの1stCDのジャケットの組み立てをやると云う。
取り敢えず朝から未だ何も食べておらぬ私は、近所のマーケットにてパスタ等を購入し、料理し始める。Benjaminも空腹と云うので2人分作る。私の料理の腕前は、かつてこれでもレストランのチーフコックを務めていた事もあり、決してこちらでも引けを取らぬであろうと自負している。当然の如くBenjaminも「美味い」を連発。当たり前である。私に限らず、日本人は「料理とは一体何たるか」を、世界で最も心得た民族である。イタリア料理もフランス料理も美味い事には間違いないが、日本人が作ればそれ以上に美味い料理が作れる事もまた間違いなし。況してフランス人の作るパスタときたら、決して美味いとは云い難し。
さて腹ごしらえも済み、4人でジャケット作り。このUehの1stアルバムであるCD2枚組は、我がAMTレーベルからリリースされた。オーストラリアの工場でプレスされ、日本とフランスに各々送ってもらっている。ジャケットは、カードボードの見開きジャケであるが、組み立て工賃をケチった為、お互い自分達で組み立てねばならぬ。今迄AMTの全タイトルのジャケットを組み立てて来た私と東君にとっては、別段大した仕事ではないが、彼等にとっては色々と問題があるようだ。完壁主義者のStephaneは、ディスク保護の為に内側にフェルトを貼ろうと訴えるが、他のメンバーは「面倒臭い」と文句タラタラ。そこで私が、AMT配給分は、従来通りのフェルト袋にディスクを収納する為、全く問題なしと云うと、一体何処で売っているのかとの問い。PC専門店ならば容易に入手出来ると云うと、彼等も明日探しに行くと云う事で、漸く話も纏まり作業開始。しかし4人で分業している割に、何とも効率が悪い上、Audreyに至っては端からやる気がない。この典型的フランス人的仕事ぶりに、思わず苦笑。私と東君2人の方が、遥かに効率良く作業も早いであろう。漸く55枚分完成し終了。StephaneとBenjaminの2人は、今からFredericに会いに行くと云うが、もう面倒臭い私はステイを希望、Audreyも「もう寝る」とさっさと就寝。
私と東君の場合、兎に角仕事終了後の「お疲れ様ビール」を目指し、恐るべき集中力にて作業するのだが、彼等の場合、先ず赤ワインを飲みつつ雑談に明け暮れ、そしてようやっと仕事に取りかかる。矢張りフランス人が賢いとは、とても云い難い。まだアメリカ人の方が仕事に対して熱心であろう。フランス人は口を揃えて「アメリカは強大なパワーを誇示するから嫌いだ」と云っているが、昼休みを3時間、夏休みを3ヶ月も取って遊んでいるフランス人が、何偉そうな事ヌカしとんねん。あれ程働いている日本人が、現在不況で苦悩しているとは、これこそあまりに哀れである。もっと働け日本人、そしてヨーロッパを凌駕せよ!
「6月8日 Toulouseにて(3)」
10時30分起床。またしても8時間程眠っていた。いやはや余程疲れているのか、普段4時間睡眠の私にしては珍しい事である。それでも尚、体はだるく重い。このToulouseでのオフは、どうせ帰国すればまた忙殺されるであろうから、ホリデーと云う意味では、私にとってとても貴重な時間である。
朝からいきなり赤ワインを飲みつつ、AudreyのCD棚からSoft Machineの1st+2ndのカップリングCDを聴く。Toulouseは、今尚音響派やらシカゴ派やらが人気を博し、そして多大な影響を与えているようで、日本やアメリカから約8年、フランス本土からも2~3年は遅れていると云われる。何しろ今尚、殆ど誰もCANさえも知らぬ。今や世界中を凌駕しているクラウトロックの風が、未だに届いておらぬ数少ない地域であろう。そもそも口を揃えて「サイケデリックは過去に死滅した音楽だ」と云っている程である。かつてAMTがToulouseにて初めて演奏した際も「ロックバンドがエレクトロ・アコースティック・ミュージックと合体しているなんて信じられない」と云われた程で、フランス人であるにも関わらず、未だにGongを知っている人さえ僅かなのである。
また日本のアンダーグラウンドについても殆ど知られておらぬ。ここでは例えば灰野敬二と云う名前でさえ殆ど知られておらぬ。知られているのはToulouseにて公演経験のあるAMT、RuinsとMelt Banana程度か。
昨日Benjaminに、彼の他のバンドについて尋ねた処「フリーロック」と云っていたので、「それはジャムロックみたいなものか」と尋ねると、彼はジャムロックもフィッシュも知らなかった。彼の云う「フリーロック」とは、どうやらアルタードステイツのようなものらしい。
一方で、誰がつけたかToulouse系と呼ばれる、所謂シカゴ系に影響を受けたようなロックともジャズともエクスペリメンタルとも云い難い、俗に云うポストロック系バンドが犇めき、Uehもいわばその中のひとつであろう。ただ他と圧倒的に違う点は、Fredericが居る事で、とてもピュアな音となっている事であろう。そもそもシカゴ系なんぞ大嫌いの私が、Uehをリリースしたいと思ったのは、それが大きな要因である。
さて今日はAudreyの誕生日なので、プレゼントを渡す。そう云えば、昨年も彼女の誕生日にToulouseに来ていた。映像作家の卵である彼女は、今日も自分の作品の撮影があるとかで多忙らしく、私はオクシタンのLPがありそうな中古レコード店を教えてもらい、レコード・ハンティングに出掛ける。以前彼女と行ったことのある中古レコード店も何軒かついでに廻り、その他Harmonia Mundi BoutiquesやらFnacやら、兎に角新品中古問わず目に入ったレコード店を片っ端から巡り、更には古本屋やオクシタン関連の文献ばかりを扱う書店等も巡り、兎に角オクシタン関連の音源を探す。目玉のオクシタン・ミュージック・センター(Conservatoire Occitan)は、土日定休なので、週明けの月曜日に行く事にして、ただひたすら漁る。されどオクシタンのLPは、ほとんど発見出来ず、仕方なくCDで我慢。かなりの枚数のCDを購入。しかしいつもの癖で、ついついフレンチ・サイケやサントラ等のLPを大量に購入。果たしてこれを手で持って帰れるのか。そんな事は後で考えよう。
その後6日に演奏したクラブSalon BocalにてStephaneと合流。昨日からここでエクスペリメンタル系のミニ・フェスティバルが催されているとかで、彼はUehのCDのプロモーションに来ているようだ。2人でビールを飲んで雑談していると、旧友Babuが現れた。彼は以前ベースで即興をやっていたが、現在はコンピュータを使って電子音楽を作っているらしい。その後もここで多くの知人やらミュージシャンと会い、色々プロモCD等も頂戴したが、果たしてどれが誰のものだったか。
地下のホールへ下りて、演奏を少し観る。大して面白くもないインプロで、終演後、彼等に共演を依頼されたが丁重にお断り。
Stephane、Babuと一旦Audreyのフラットへ戻る。ここでBabuが自分のヴィデオ作品やら電子音楽作品をラップトップで披露。ちょっとしたBabuコンサート。
その後、Babuと別れ、私とStephaneは、別のクラブClassicへ、AudreyとFredericは既に中にいると云う。明日の我々のコンサートで映像を担当するスタッフが、今晩はここでプロジェクションしていると聞きやって来たのだが、入り口のモギリの黒人に、我々は入場を拒否される。理由は良く判らぬがこういうことは多々あるらしく、まるで昔のマハラジャ等のディスコ・ブーム時を想起してしまい思わず笑ってしまう。 ここでBenjaminとも合流し、何でも何処やらでパーティーがあると云うので、Stephane、Benjamin共々行く事になる。これこそヨーロッパに於いて最も危険なパターンで、案の定、何処かも誰の家かも判らぬ場所へ連れて来られて、深夜にも関わらず爆音でブラジリアン・ミュージックが流れる中、お互い誰とも知らぬ多勢の男女がビール瓶片手に、飲めや唄えや踊れや太鼓叩けやで、もう部屋の中は煙っているは、こういう状況に於いては常に取り敢えずタダ酒を飲んでおくしかなく、別段可愛い女性がいる訳でもなく、知り合いがいる訳でもなく、結局我々3人はひたすらビールを飲む事に明け暮れるのみ。
帰宅したのは午前4時にして、今日は大いに疲れた。
「6月9日 Toulouseにて(4)」
今日は、廃教会La ChapelleにてUehとのコンサート。朝から皆集まり、会場設営からPA、照明、バー運営まで自分達の手で行われる、まさしく手作りのコンサートと云って良いだろう。
昼過ぎに会場へ着き、軽いサウンドチェック。ここは騒音問題があるらしく、あまり爆音は出せないそうで、私の演奏も先日のものとは、かなりアプローチを変えてみる所存。2発のギターアンプは、スピーカー部を天井へ向け、客席を挟み込む形で左右に設置。今日は教会ならではの音響効果を、大いに利用させてもらう。
サウンドチェック後、皆とモロッコ料理屋で食事。その後オープンカフェでお茶を飲んでいると、次々と誰かの知り合いがやって来る。Toulouseは小さな街なので、5分も歩けば誰か知り合いに会うようで、その度に皆話し込む。急いでようがお構いなしなので、なかなか事が前へ進んで行かぬ。これもまた如何にもToulouseらしい。
さていよいよ開演。客入りもほぼ満席。今日はOlivierが、全てDATで録音すると云う。会場の音響効果が素晴らしいので、とても心地良く演奏出来た。評判もすこぶる上々。もし録音状態が良ければ、リリースしても面白いかもしれぬ。
その後Uehと再び「Cambous」を演奏し、そのまま彼等のコンサートへスイッチ。
先日よりも演奏が堅いなと思った矢先、Fredericが突如ドラムからダイヴ。全く意味不明のパフォーマンスのようにも見えるが、彼もどうやら同じ事を感じていたようだ。その後Fredericはドラムセットへ戻り、再び彼等の演奏は続く。
休憩を挿み、Benjaminの妹でありダンサーのLisaが、兄Benjaminのギターに合わせての即興ダンス・パフォーマンス。この超美形兄妹のセッションは、微笑ましくもあり、とても好感の持てるものであった。何しろ未だ2人共若い故、今後に大いに期待。
その後は、私とUehによるインプロ。前回よりも遥かに良い感じで演奏出来たと思う。残念ながら、騒音問題による時間切れの合図が出た為、突如ギター・ノイズにて大暴れし、ラストはギターを投げ捨て終了。と思いきや、Fredericの弟Ludricがオルガンでパリミュゼット風の曲を披露。このフィナーレがタイミングと云い絶妙で、私も思わず大いに拍手。ラスト10秒のみ演奏した彼に、全てを持って行かれてしまった形。このとても爽やかなエンディングで、このコンサートは幕を閉じた。
私も含め皆が、何故だか最後にLudricの演奏したメロディーを口ずさみつつ撤収作業。
撤収作業後、Frederic宅にてスタッフ一同で打ち上げ。大量のビールと、若い2人LudricとLisaが作ったクスクス、Audreyが持参したのは、彼女が誕生日祝いに貰ったと云うティラミス、その他オクシタン名産のチーズやらを囲み雑談。フランス人は本当によく喋る。
フランス語が話せない私に気を遣って、Fredericが片言の英語で話し掛けてくれる。矢張りフランス語はマスターしておきたいもの。2週間も滞在していると、随分耳慣れてきて、語感のニュアンスが自然に耳に入って来るので、結構聞き取れるようにはなるのだが、何しろ単語力もなければ、文法もよく解らぬ故、結局は自分の知っている単語や文章が出て来た時のみ理解出来る程度。今回程、フランス語が必要だと思わされたツアーはなかった。ここはちょっと性根を据えて勉強してみるか。取り敢えず今回は、「Je」の正しい発音をマスター出来ただけでも、大きな成果である。今迄何度教えてもらっても、今一つ良く理解出来なかったのだが、何しろ「Je」は「私」の意であるが故、絶対に避けては通れぬ単語であるのだ。
深夜2時にお開きとなり、Stephane、Audreyと帰宅。StephaneがAudreyの階下に住んでいると云う事を、実は今朝初めて知った。Stephaneは一旦荷物を自室に置いてから「明日から仕事なので、今回はもう会えないだろうから」と、ハーブティー持参でAudrey宅を訪ねて来た。3人でハーブティーを飲みつつ雑談。
結局、朝5時就寝。明朝9時起床にて、オクシタン・ミュージック・センターへ行く予定だが、果たして起きられるのか。
「6月10日 Toulouseにて(5)」
朝9時アラームにて起床。珍しくフランス美女とのスウィート・ドリームだった為、非常に残念至極。昨夜Stephaneが「Fais de beaux reves(良いスウィート・ドリームを)」と云うセンテンスを教えてくれたので、斯様な夢を見たのだろうか。
早々にオクシタン・ミュージック・センターへ。ここにはオクシタン・トラッドに関する様々な資料が集められている。これは誰もが閲覧出来るようである。また楽器の練習教材や楽譜、様々なイベントの告知、その他ありとあらゆる情報がここに寄せられている。 またここでは正規盤以外にも、自主製作カセットやCDR等も置かれており、ローカル・トラッド・グループの音源を容易に入手する事ができる。
さて久々に来てみたが、大して新入荷がないどころか、CDコーナーが縮小されている。それでも10枚程購入。
Audrey宅へ帰宅後パッキング。今回Toulouseにて購入したCDやらLPやらを詰めてみると、何とか収納可能であった。兎に角明日Lyonへ行きさえすれば、あとは帰国するのみなので、なるべくここで荷物を送りたくはない。何とか手で持って帰れそうで一安心。
午後からは、AMTのドキュメント・フィルム製作中のAudreyのリクエストで、私の日本語によるインタビューを録音する予定。昼12時、Estelleがやって来て、いざマイクのセッティングを始めたのだが、トラブル続出。新たなマイクの手配にも四苦八苦。更に通訳のマサヨ嬢なる女性ともコンタクトが取れず、一体この先どうなるのか。通訳の彼女には10日前に依頼したきりだそうだが、Audrey曰く「日本人だから覚えているでしょう?」フランス人なら覚えておらぬだろうが、律儀な日本人なればこそ覚えているだろうと云うこの読み、日本人をよくよく知っている彼女ならではの発想だが、日本人でも忘れる奴は忘れるし、兎に角我々はマサヨ嬢からの連絡待ち。結局マイクは、Audreyの友人のエンジニアDavidへ依頼する事で無事解決。夕方6時、通訳のマサヨ嬢も無事到着。そして漸くインタビューの収録がスタート。
Audreyが、私の答が途中でカットされる事を嫌がった為、マサヨ嬢の苦労は並々ならぬものであったに違いあるまい。何しろ彼女の質問が長い為、それに伴いこちらの答も自ずと長くなる。
漸くインタビューが終わってみれば、既に9時をまわっている。すっかり空腹の我々は、近くのレストランへ。Fredericにも電話し、レストランで合流する事になった。レストランへ着けば、Audreyの級友達が偶然やって来るは、更にFredericも合流、そしてEstelleのBFまで偶然通りかかり、どんどん人数が膨らんで行く。1人増える度に、いちいち1人ずつにフランス流の挨拶を交わす為、挨拶だけで一体何分掛かっているのか。
食事も終えお開きに。Toulouse最後の夜に、多くの知人と会食出来た事はとても嬉しい。17年住んでいる名古屋ですら、これ程友人がおらぬのは一体何故だろう。皆と別れ、Audreyと帰路につく。
明日は早朝の列車で発つ為、今回彼女と会うのも今宵が最後となろう。「『さようなら』と云うのは嫌い」な彼女は、ただ「Bonne nuit(おやすみ)」そして「Merci(ありがとう)」
あの気の強いAudreyが見せる唯一の女性っぽい表情は、いつも常に別れ際にしか見る事が出来ない。
「6月11日 Lyonにて」
朝6時起床。発つ鳥後を濁さずと云う訳で、Audrey宅の台所を片付け、彼女宅を去る。 Toulouseの駅まで徒歩5分。購入したLPやらCDで、随分荷物が重くなった。
さて恒例の切符売り場での行列に並ぶ。7時53分発なので、50分余裕を持って到着しているから安心。相変わらず窓口ではトラブル続出しているようで、あちらこちらから厳しい口調が聞こえてくる。発車30分前にしてリザベーションを済ませる。まだ時間が30分以上もある為、構内のカフェにてエスプレッソを飲む。と、突如1人のバーテンと何処からともなく現れたセキュリティーが、外へ走り出す。どうやら食い逃げのようで、その男は直ぐに拉致され連れ戻されて来た。セキュリティーは勿論の事、バーテンさえもかなりの体格である。結局4人の警官がやって来て、男は引き渡された。たった1杯のコーヒー(1.15ユーロ)でこの騒ぎである。見せしめなのか、余程警官が暇なのかは存ぜぬが、朝から野暮な事である。
さて7時53分発Dijion行きTGVに乗車。今日はLyonのKafe Muzykにて、村山氏とセッションの予定。今回この本来予定になかったセッションの為に、わざわざLyonまで赴こうと思った一因は、先日ユーレイルパスの日付けを誤魔化して1日分浮かせた事で、もう1日何処かへ行く事が出来るようになった為。結局10日分のパスで、実際は11日移動する事が出来たと云う訳である。
11時50分Lyon Part Dieu駅着。一体今回のツアーで、何度この駅に降り立ったのだろうか。今回はどうもこのLyonが鬼門となっているので、何もないといいのだが等と思いつつ、村山氏に電話。駅前で待つ事10分程度、村山氏の代わりにFrankなる男性が迎えに来てくれた。彼の車まで行くと、助手席には村山氏が座っていた。挨拶もそこそこに村山氏曰く「昨日、足の指を骨折した」そうで「申し訳ありませんが、セッションは無理な状態です」との事。村山氏とのセッションは、前回のParisでもケチが付いている上、ここは今回の鬼門Lyon、これもまた仕方あるまい。村山氏はこれから手術に行くそうで、私は今夜Janeと云う男性の家に宿泊する事になっているらしいから、そこまで車で連れて云ってもらう。村山氏には「また次回と云う事で」せめてものお見舞いにと、都こんぶを進呈。
さてこれからどうしたものか。取り敢えずKafe MuzykのDamianと会う事にし、彼とカフェでビールを飲みつつ雑談。しかし彼は英語が殆ど話せぬ上、私はフランス語が殆ど解らぬ。結果、お互い英仏入り混じった奇妙な言語で会話する羽目になってしまった。その後クラブを開けた彼が、Lyonの名所を案内してくれた。
Jane宅へ戻り、近所の中華市場で出前一丁2袋と厚揚げらしきもの(炸豆腐)を、スーパーにて赤ワインとパエリアを購入。今晩は購入したCDでも聴きつつ、1人で1杯やるか。
それにしても、私のフランスに於ける嫌いなもののもう1つとして、スーパーマーケットのレジがある。
兎に角レジ打ちが非常に遅い。日本では想像出来ぬ遅さである。更に閉店時間が近づいてくると、客が未だ並んでいるにも関わらず、レジを次々を閉めてしまい、「ムッシュー、他の列に並んで下さい」と云う有様。混み合っている時間帯であれば、レジに到達するのに最低15分は要する。
更に閉店時間前ともなれば、店長自ら出入り口をロックし、精算の終了した客に対してのみ、店長自らロックを解除する。閉店と云った処で、未だレジには軽く30人以上は並んでいる。
そこへ1人の黒人男性が何かを買い求めたいらしく、どうしても店の中へ入れてくれと懇願するが、店長は断固として「non」更にはセキュリティーまで駆け付ける有様。別段あと30人もレジで並んでいるのであるから、この黒人客1人ぐらい増えた処で構わないではないかと思ってしまうのは私だけか。この商売っ気の無さとサービス精神の無さ、日本であれば斯様なスーパー、たった1週間で潰れるであろう。
漸く買い物を済ませ、出前一丁を作る。ここは中華街、トルコ人街の中なので、大抵の場合、住人は醤油等の調味料を持っていたりするのであるが、何とこの家には、食材どころか調味料さえ殆ど無い。冷蔵庫の中は、ジャムのみである。確かこの家には、計3人の男性が住んでいる筈であるが。そう云えばこの家にはトイレットペーパーさえない。住人達は一体どうやって処理しているのだろう。ツアー最終日にして、遂に奇妙な家に当ってしまった。矢張りLyonは鬼門だったか。
取り敢えず、出前一丁に炸豆腐をぶち込んでみると、これが結構美味い。薄揚げとうどんで「きつねうどん」なら、厚揚げとラーメンでは何になるのだろうか。更にパエリアを温めようと電子レンジを探すが、斯様なものはここには存在しておらぬ様だ。仕方がないので、フライパンにて炒め蒸しにしてみれば、米の芯もなくなり程良く仕上がった。一気にパエリアも平らげてから、赤ワインのボトル片手に、部屋に置いてあるコンポで購入したCDを聴く。
1人でのんびりしていると、一体ここが何処なのか、ついつい忘れてしまう。時折隣室から聞こえて来るフランス語の御蔭で、ここがフランスである事を思い出す。
しかしこう1人で過ごしていても、LyonとToulouseでは随分気分も違うものだ。勿論、ここが誰の家なのかも良く判らぬような場所に泊まっているせいもあるかもしれぬが、Toulouseは田舎なので、何にせよのんびりしている。あの空気感のせいで皆は「Too lose」と云うが、確かに彼処はフランスの「島根県」かもしれぬ。兎に角「もうどうでもいいや」と云うような、何か人間を駄目にする恐るべきパワーを持っている土地であるかもしれぬ。しかしそれ故に、あのピュアな感覚が、今尚生き続けているのであろう。あの得も云われぬ空気感こそ、Toulouseなのではなかろうか。
今日はLyonで1泊することで、あのToulouseから日本へのワンクッションとなり、丁度良かったやもしれぬ。Franco Battiatoのピアノ作品を聴きつつ就寝。
「6月12日 成田へ」
8時30分起床。久々に1人で静かに過ごせた御蔭か、体調はすこぶるよろしい。未だ他の部屋の住人は眠っているのか、とても静かな朝。天気は大快晴ながら、空気は未だひんやり涼しく素晴らしい。シャワーを浴びて朝食の用意。昨日購入した出前一丁と炸豆腐の残りで、再び厚揚げラーメンを作る。
朝聴く「Se Canta」は素晴らしい。改めて最も好きな音楽が、トルバドールやオクシタン・トラッドである事を確認。
そう云えば昨日、中古レコード店に行きたいと云った私に対して、Damianが「Lyonにはエクスペリメンタル系の良いレコード店がない」と申し訳なさそうに云うので、「別にエクスペリメンタル系のレコードなんぞ興味がない」と答えると、「エクスペリメンタル・ミュージックを演奏しているのに、エクスペリメンタル系のレコードを聴かないのか」と驚かれ、「自分で演奏出来る音楽、況してやエクスペリメンタル系のレコードなんか家で聴く意味さえない」と云うと、不思議そうな顔をして「では一体何を聴いているのか」との問いに、「トルバドールやオクシタン・トラッド、現代音楽や民族音楽、あとはサイケデリックロック」この答は、彼にとっては信じられぬようで、特にサイケデリックについては、ToulouseのStephane達も云っていたが「死んだ音楽」だと思われているらしく、何しろここLyonでさえ未だエクスペリメンタル・ミュージックやらエレクトロ・アコースティック・ミュージックやら音響派(こちらでもOnkyoと呼ばれている)やらが主流なのであるから仕方あるまい。
今や英米を筆頭に、その他ヨーロッパ諸国でもクラウトロック旋風が吹き荒れ、皆が挙ってリイシューCDやらを聴き漁っている状況の下、フランスでは、Parisを除けばそんな気配すらない。そもそもフランスでは「kraut rock」なる名称さえ通用せぬ。
差し詰めToulouseに至っては、こちらでも人気があるSonic YouthでさえもVirginかFnacと云った大手量販店で新譜のみが買える程度だそうで、旧譜については在庫さえ持っておらぬ有様とか。道理で皆、矢鱈とCDRでコピーし合っている訳だ。かつて青森でSYの新譜CDを見掛けた時「青森では当店でしか買えません」のコメントにとても驚いたものだが、これと同じような状況であろう。ならば今更シカゴ系を有り難がるのもわからんでもない。されど彼等、John Faheyをも知らぬとは、一体どうなっているのだ。 Fractal RecordsのJeromeが「フランスは完全に終わっている」と嘆いていたが、それも理解出来よう。村山氏も云っていたが「フランスでミュージシャンだと名乗る事は、とても簡単な事」らしい。矢張りミュージシャンが、最初から恵まれた状況等の下に居てはいけないのだろう。こちらでは色々な助成金が貰えたり、また映像やダンス等とのコラボレーションやインスタレーションの仕事も多く、ミュージシャンとして生きて行く事が至って容易だそうだ。この日本では考えられぬ様な恵まれた境遇こそが、「面白くもない似非ミュージシャン」を量産してしまう結果となっているのであろう。
日本に於ける状況の悪さは、世界でも目を見張る程で、そんな状況の中で活動しているミュージシャンの質が、世界的に見て優れているのも頷ける。フランスでミュージシャンを自称するレベルなんぞ、日本の素人即興演奏と大して格差ない。しかし幸か不幸かこの手の音楽の聴衆は、軒並み阿呆揃いなのか、下らぬ演奏ですら何故か絶賛したりしており、要するに「インプロ」と云うフォーマットに騙されているとしか言い様がない。これが結果、下らぬミュージシャン(インプロバイザー:私の最も嫌いな名称のひとつ)を続々と生み出す温床となっているように思える。
さてもう11時を過ぎたが、一向に誰も起きては来ぬ。そもそもこの家で本当に誰か寝ているのか。昨夜は別段ライヴがあった訳でもなければ、ただ単にここへ泊めてもらっているだけであるから、向こうとしても、私がどうやって何時に駅まで行こうが、斯様な事知った事ではないのであろう。1時5分Lyon発Paris CDG行きのTGVに乗るつもりなので、12時にはLyonの駅に着いていたい処。まあタクシーで行けば良いかと、用意をしてこのフラットを出る。そう云えば、結局持参したMDは一度も使う事がなかった。矢張り面倒臭いと云う思いが先立ち、どうやらライヴを録音する等と云う行為は、不精な私には向いておらぬようだ。表へ出ると丁度タクシーが通りかかったので、そのままタクシーにて駅へ。TGVのリザベーションを済ませると、まだ1時間余裕がある。ここで野宿した初日の夜、そしてJFとGrenobleへ向った日も立ち寄った構内のバーを再び訪れ、ビールをオーダー。
そろそろいい時間かと、私の乗るLille Europe行きTGVが発車するホームAへ向う。よりによってエスカレーターが故障の為、荷物を抱えて階段を上る。暫くすると構内放送にて、ホームFへ変更の案内。我ながら多少のフランス語が解るようになったと感心しつつ、また荷物を抱えて階段を下りる。しかしホームFで、待てど暮らせど列車は来ぬ。結局30分遅れにて到着。このTGVは、CDG空港は勿論、終着駅Lille Europeにて、Euro StarでLondonとも接続している筈である。斯様な重要な列車が30分も遅れて許されるのか、否、許してしまうのがフランス人なのだなあ等と思いつつ、列車は今回の鬼門Lyonを後にし、一路CDGへ。
CDGへは10分遅れで3時25分着。ターミナルバスに乗り、ターミナル1へ。ANAのカウンターへ着いたはいいが、出発の4時間前では流石に未だカウンターは閉ざされたまま。仕方がないのでマクドへ行き、昼食を取る。フランスのマクドでは、フリッター(フライドポテト)にタルタルソースが付いてくる。如何にもフランスらしいではないか。フリッターにマヨネーズと云うのは、こちらでは常識的な至ってポピュラーなスタイルであり、アメリカならばフレンチフライ(フライドポテト)にはケチャップ、イギリスならばチップス(フライドポテト)にはビネガーと云うのと同じである。そう云えばUSツアーの際、AudreyとEstelleは、何処へ行ってもマヨネーズを要求していた事を思い出した。 マクドはW杯のスポンサーなのか、店内にはフランス代表選手の写真が所狭しと飾られている。(それもその背景には、スタジアム内のマクドの看板が、うまい具合に収まっているアングルとなっている。)しかし既にフランスは予選リーグ敗退が決定しており、今や誰もW杯どころか、サッカーの話題さえ口にせぬ状況の下、このディスプレイは哀し気である。どうやら景品で、フランス代表の各選手の写真がプリントされたトールグラスが当るようなのだが、店員が大量の在庫を運び出している。結局このツアー中、フランスにてサッカーが盛り上がっているシーンは、一度も見る事がなかった。
斯様な事を考えつつ、煙草を吸いコーラを飲んでいると、1人のアラブ系の空港職員が、私に日本人かと尋ねて来た。「oui」と答えると、1枚の絵葉書を取り出し、これを翻訳してくれとの事。その手紙はシゲル君と彼の母親が、日本の知人に宛てたもので、何とこの絵葉書は彼が空港で拾ったものだとか。綺麗な絵葉書だから持っていたそうな。彼は仕事の合間、W杯の全試合を観ているらしく(それは「仕事の合間」ではなかろう)フランスが負けた要因やら、日本や韓国が健闘しているだの、オフィシャルのペナルティーの取り方に不満があるだの、自分の優勝予想だのを熱く語っていた。御蔭でよい時間潰しとなり、ANAのカウンターに戻ればチェックインが始まっていた。
さて漸くチェックイン出来ると思いきや、ボーディングパスは発行されたが、荷物のタグを発行するに充たり、何とコンピューターに問題発生。結局私はチェックインに45分もかかってしまう。その後、免税店でパスティス1本を買い求め、搭乗ゲートへ。うんざりする程の日本人団体ツアー客で溢れ返り、そこいらでお互いのツアー自慢やら、お土産自慢やらが繰広げられている。
「その大きな包み、何を買われたんですか」
「いやぁ、コーヒーセットで気に入ったものを見つけましてねぇ」
「さぞやお高いものなんでしょうな」
「いやいや、それが意外に安くてね、飾っておくものではなくて、普段使えるものをと思いましてね」
「そうですね、値段が高いからって言ってもねぇ、やっぱり気に入ったものでないとねぇ」
「そうなんですよ、値段が高くても、気に入ったものでないとねぇ」
この本当は値段が高かったであろうが、「安く買った」事を自慢げに語りつつ、されど「良いもの」であるとさり気なく主張する、相手に対し一見謙っているようで、実はそうではない、これぞ典型的日本人の会話。嗚呼、いきなり憂鬱な気分になる。まだ無責任ながらも物事をハッキリ言い切るフランス人の方が、矢張り付き合い易そうである。 午後8時30分、定刻より30分遅れて漸く離陸。幸いにして隣の席はベルギー人夫婦、周りもフランス人ばかりに囲まれている為、煩わしい日本人団体客の姿も見えず、声も聞こえず、少しはマシな気分である。
「6月13日 名古屋へ」
12時間近いフライトは、矢張り退屈至極。況してや禁煙なれば、書き物をする事もままならぬ。何しろ「考える」と云う行為自体が、煙草を誘発してしまう。習慣とは恐ろしい。結局赤ワインとブラッディー・マリーを交互に飲み倒し爆睡。音楽サービスもロクな物がやっておらぬ。私は大抵クラシックチャンネルを選んでいるのだが、特にこのANAのプログラムは最悪で、東儀秀樹なんぞの腐れニューエイジがオンエアされたりする。
午後2時45分成田着。荷物が出て来るのを待っている間、麻薬犬を連れた職員が「犬通ります」と云っては、矢鱈と私の周りにやって来る。荷物を受け取り税関へ行くと、いきなり別室へ連行されてしまった。そうなのだ。関西空港の税関は、いつも簡単にパス出来るのだが、成田では毎回止められているのであった。
別室にて5人の職員が、鞄を開けて隅から隅までチェック、更にレコードやら機材も全てチェック。当然ポケットの中に始まり、ボディチェックも。よく聞く「尻の穴」までは流石にチェックされなかったが、御苦労な事です。そもそもこんな身なりで「何か」を持って帰る程バカな奴などいるのか。否、いるから引っ掛るのか。確かに帰りがけに他の部屋をちらっと覗けば、如何にも「東南アジア帰り」と云う風体の若い男の子がチェックされていた。私は2時間後に名古屋便への乗り継ぎがあった為、職員達も慌ただしくチェックしたのみで「お疲れ様でした」と、国内線チェックイン・カウンターの方へ送り出してくれた。しかし何にせよ、疑われると云う事は、あまり気分の良いものではない。
ここまで何とか温存してきたechoの遂に最後の1本を吸い、最後のフライトに備える。 名古屋便に乗り継ぎ、午後5時45分に名古屋空港へ到着。東君が迎えに来てくれていた。車中で彼は、堰を切った河の如く、ひたすらW杯の事を喋りまくる。何しろ彼は、25年来の筋金入りサッカーファンであるから仕方なし。しかしどうやら日本はW杯一色の様子。出来れば私が帰国する迄に、2敗で予選リーグ敗退が決定していて欲しかった。フランス人もアホだと思ったが、矢張り日本人の方がより救いようがない。この俄サッカーファン、W杯終了後どうなるのやら。今回ヨーロッパの嫌な部分を色々感じた際、日本ならそんな事はない等と、日本人である事を誇りに思ったものだが、今やその日本人を恥ずかしいと思ってしまう。嗚呼、こんな日本が哀しいし、自分が寂しい。
(2002/6/22)