『人声天語』 第57回「誕生日にかく語りき」

ツアーから帰国してみれば、案の定雑務の山にして、秋のUSとヨーロッパ・ツアーのブッキングやら、レコーディング予定やら、今後のリリース計画やら、ウェブサイトの更新やら、通販業務やら、更に7月に来日するPlastic Crimewaveの件やら、8月に行うGURU & ZERO (GongのDaevid AllenとCottonと私で結成したニュートリオ)のライヴの詰めやら、もう何から始めればいいのやら。今や恒例となったメールの山に、またしても目を通し返信するだけで1週間強を費やす。幸いにして、ここ最近涼しいことが、せめてもの救いか。

昨日は大阪のオメガ・サウンドにて、AMTの新譜のヴォーカル録り。久々に聴くCOTTONの「うた」には、一同驚愕。やはり素晴らしいヴォーカリストである事を再認識しつつ、このアルバムの完成がとても楽しみである。因みにこのアルバムは、仏Fractal Recordsから今秋リリースとなる予定。

そして本日付けにて、私もまたひとつ歳を重ねる事となり、そろそろ「大人」としての自覚を持たねばとも思う次第。何しろ未だ社会的にはガキのような無責任さであり、勝手気侭に生きて来た故、斯様なままで果たして良いものか、等とも思うのであるが、されど矢張り人間そう簡単には変われぬ故、きっとまたこのまま歳を重ね、老いさらばえて行くのであろう。
結婚なんぞ当の昔に諦めており、子供と云う自分の遺伝子なんぞ、端から後生に残す心積りもなければ、況して自分の遺伝子が残るなんぞ、きっとこの世界にとって何の有益性もなければ、斯様な罪作りな行為が許される筈もなし。元来、過去に対する執着もなければ、未来に対する希望も持たぬ、今現在この刹那のみを生きている私にしてみれば、後生に何かが残ってしまう事程、空恐ろしい事はない。今や次々とリリースされている私の作品群も、出来る事なら私の死と同時に、この地上から消滅して欲しいと思うし、その瞬間に、世界中の人々の記憶から、私に関する一切合切の事柄も忘却されて欲しいと願う次第。
ならば作品をリリースする等と云う形を残す行為は、全くもってその意に矛盾する行為ではないのか、と思う御仁もおられるだろうが、それとこれとはまた話が別で、今現在私は幸か不幸かこの世に生を受けており、私に課せられし使命は全うせねばならぬ。それが果たして何であるかなんぞ、私の知る処ではないが、取り敢えず今、音楽を生業とする限り、これもまた私に課せられし使命のひとつなのであろうし、定められし運命でもあろう。ただ私の死と共に、これらの私に関する一切合切のものも消滅して欲しい、これは叶わぬまでも、私個人のささやかなる願望である。何にせよ、死んだ後もとやかく云われるのだけは、御免被りたい。勿論、葬式も必要なければ、墓なんぞも必要なし。間違えても追悼なんぞして欲しくもなければ、灰を憧れの土地オクシタンの高台からでも蒔いてくれなどして戴ければ、それで幸せあまりある。そもそも自分の人生や生命についての意味や価値なんぞ、自分のみで完結出来ておればそれでよし。「死して屍拾う者なし」これにて充分なり。

されど誕生日なるもの、この歳になると、公言するのも恥ずかしいような照れくさいような、何とも厄介な代物である。祝って戴けると云う事は、何にせよ感謝せねばならぬし、この年令まで無事に生き長らえた事にも感謝せねばならぬのだろうが、さて祝って戴ける程の立派な人間でもなければ、何とも後ろめたく、何処となくむず痒いような感覚さえ覚える。
歳を重ねる事には全く抵抗はないが、さて「人生五十年」と云うならば、既に晩年にして、かつての偉人ならば、その偉業を達成しつつある人生の円熟期であろう。では私は一体何を成し得たのかと云えば、一体何を成して来たのか、享楽の果ての人生とも云える生き様なれど、それなりに苦労もあったか。されど斯様な事、即忘れてしまう質なれば、矢張り享楽の限りを尽して来た幸せ者と云えるか。勿論それ故に払わされた代償も多かれど、タダで手に入るもの等あろう筈もなし。
時折、今もしも十代に戻れたら如何な具合か等とも思うが、仮に今持ち合わせる経験や知識をも携えて戻れるなら兎も角と考えた処で、何につけても未熟である故の「恐いもの知らず」な無鉄砲さが売りの十代なれば、矢張り然して面白いものでもなかろう。何事も一度きりなればこそ、面白いのである。確かに十代やニ十代にはロクな事はなかったが、まあ今となれば、斯く悲惨な時期があればこそ、斯様な気侭な暮らしを営む事も出来、そして感謝も出来ると云うものであろうか。「人生一秒の無駄もなし」とは、よく言ったものだ。

今や便利な世の中にして、誰もが簡単に録音やらリリースやらライヴやら出来る御時勢なれど、では果たしてそれが良いのかと云えば、如何なものか。
ハードディスク・レコーダーやらの普及で、いとも簡単に録音が出来、低価格のCDRの普及で、容易に「それらしい」フォーマットで作品を作る事も出来、カラーコピーやPC等の普及で、かなり本格的なジャケットなんぞも容易に作成できる。取り敢えずノルマさえ払えばライヴハウスに出演も出来、自主製作盤の流通もディストリビューターの登場や取り扱い店の増加により、容易になったと言えるであろう。
私がカセットレーベルを始めた1980年当時には、当然これらの優れもの等は存在もせず、C-46のテープが3本1000円以上もした御時勢なれば(お小遣いの相場が月1000円の時代)、日本橋の電器屋にて割安の箱売りのテープに、時給450円のバイト料全額を注ぎ込み、1枚30円したモノクロコピーでジャケットやラベルを作ったものである。また倍速ダビングどころかWデッキさえAKAIの1機種しかなかった折であるから、2台のデッキで延々とダビングしたものであった。さて「売る」と云った処で、自主製作盤を扱うレコード店なんぞ殆ど無い時代、漸く1件の輸入盤店に置いて貰えた程度。ライヴと云えば、ライヴハウスに出演するなんぞ至難の技で、3ヶ月に1度も出演出来れば御の字で、結局は友人のバンド等と企画を組み、そこかしこでチラシを蒔いては、何とか活動を維持していたような次第。勿論、当時最も格安であったソノシートと云うフォーマットでさえ、高校生の私にはとても手の届かぬ代物であった。
今や貧乏であっても、100万円程度の金であれば、何とか金策出来る術も身につけた「大人」なれば、何とか自分の好きなように物事を進める事も出来、あの頃の苦労があればこそ、今現在の自分が置かれている状況にも感謝出来る。

果たして20年後、一体今度は何を思うのか。世間では定年退職に近い年令なれば「第2の人生のスタート」なんぞと呼ばれる頃合であるが、人生に第2も第3もあったものか。明日をもわからぬ人生に於いて、20年後なんぞ考える事自体不毛なれば、「なるようにしかならぬ」であろう。せめて死ぬる際、勿論如何程かの未練はあろうが「やるべき事はやりきった」と思えるよう、日々決死の覚悟をもって「遊びきりたい」ものである。まかり間違えても、「子連れ狼」の柳生列堂よろしく「河端も老いた」とは言われたくないもの。遊びきらずして、何の為の人生ぞ。
さて、いざ死に及びし折、我斯く語るるや。
「我が人生に一点の悔いもなし」

(2002/6/28)

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