『人声天語』 第59回「少年漫画は男のバイブルだ!」

AMTの録音も順調に進んでいるようでそうでないような、ツアーのブッキングもまた然り。何せ酷暑にして、更には台風まで来襲し、雨上がりの蒸し暑さこそ地獄。そんな中、来日中のPlastic Crimewaveの観光ガイドを務め、今週は大阪と姫路にてライヴも有る。今月末から来月にかけて、ライヴが連発している上、今月末は愈々AMT新譜3枚の締切りである。そう云えば一向にUEHのCDが工場から届かぬではないか。商品が無いと云う事は、レーベルに絶対入金がないと云う事で、気付いてみればレーベルの台所事情は火の車、またしても50万円借り入れている有様。夏の酷暑にも関わらず、レーベルの懐は既に氷河期に突入。

懐が寒いのはレーベルのみならず、私も同様。何しろPlastic Crimewaveと共に中古レコード店やら古本屋やらおもちゃ屋やら巡っておれば、ついつい私も散財している始末。
長年探していた特捜最前線のエンディングテーマ「私だけの十字架」の初回プレスEP、ヘンリー・マンシーニ楽団による「チャーリーズ・エンジェル」のEP、会田刑事こと天地茂のジャケットが渋い「昭和ブルース/非情のライセンスのテーマ」のEP、その他ヨーロッパ映画のサントラEPを大量に衝動買い。
AMSにてアグネス・ラムのカードセットを購入。古本屋にて今更ながら寺山修司関連の本を大量に発見するや、矢張り買わずにはおられず、更にはサンドラ・ジュリアンのEP2枚「サンドラの森」「愛の詩」も、勿論前後の見境なく大枚をはたき購入。 しかし何と云っても最大の掘り出し物は、アストロ球団で有名な中島徳博が描き下ろした「悪たれ騎士道」が掲載されている週刊少年ジャンプ1975年15号である。これは当時、第3回愛読者賞チャレンジ作品として描き下ろされた一話読みきりの短編で、私の知る限り一度も単行本に収録された事はないと思う。

当時アストロ球団の大ファンであった私は、中島徳博の描き下ろしと云うだけでも興奮したものだが、更にこれが甲子園版アストロ球団とも云える、まさに「高校野球漫画斯くあるべし」と、今日びの軟弱漫画とは一線を画する大傑作。少年だった私の脳裏に強烈な衝撃を与えた本作を再び読みたくて、一体どの単行本に収録されているのかと探し回ったものであるが、結局見つけられず終いにて、時の経つのと共に「はて、あの作品は本当に存在したのか?実は私の勝手な妄想ではなかったか?」とまで思える程で、されどストーリーの細部に渡ってのディテールまで記憶している故、「否、きっと存在したに違いあるまい」と、ひたすら古本屋にて週刊少年ジャンプのバックナンバーを探し回る日々に明け暮れた。 数年前、長年絶版状態であった「アストロ球団」が、太田出版から復刻された際、発売予告にて最終巻には単行本未収録の読切り特別編も収録されると聞き付け、もしやあの「悪たれ騎士道」も収録されるのではなかろうかと、淡い期待を抱いていたのであるが、矢張り収録されておらず、がっかりしたものであった。誰に訊ねた処で、本作に関してはっきりした記憶を持っておらぬどころか、殆ど誰も知らぬ様子にして、いよいよもって「矢張りあんな作品は存在しなかったのでは?」と云う疑念が膨らんできていた矢先、この巡り会いである。27年ぶりに見た「悪たれ騎士道」は、私の記憶とほぼ完璧に一致するストーリーで、 その時の私の興奮は、とても語れるものではない。

さて肝心のストーリーであるが、大雑把にあらましを述べると…。
夏の甲子園を目指し、西九州地方予選を戦う長崎県代表対馬海王高校は、2年連続して決勝戦後半で、エース勘差大介の自滅によって、甲子園出場を逸していた。そして今年も矢張り勘差は、6回までノーヒットノーランで押さえていながら、7回に突如崩れてしまう。彗星の如く現れたリリーフ毛利つかさにマウンドを譲りたくない彼は、「いくらガンバッたところでな、甲子園をめざすかぎりおれの風上には立てねえんだ~っ」とワンマン風を吹かせる。対馬全島民の願いを乗せたピッチャー交代の監督采配に、勘差は「なにがチームワークでえ!きこえはいいがひと皮むけば甘ったれ精神でえ!ことわっとくがな甲子園に行こうが行くまいが、これからもおれは、おれのための野球をやってくぜ!」と、ベンチで甲子園でヒーローになった時の為にとサインの練習を始め、ナインからも愛想を尽かされる。亡き兄の夢も背負いマウンドに立つ毛利は、対戦相手を徹底研究しており、見事海王高校を悲願の甲子園初出場へ導く。校歌を聞きながら、勘差はプロ野球入りの打算を思い巡らせ、毛利は亡き兄の夢を叶えようと誓う。
夏の甲子園大会開幕を5日後に控え、海王ナインは甲子園を目指すべく船に乗る。ところが嵐で船は沈没、勘差が泳げないと知った毛利は、自分の命と引替えに勘差を助ける。救命船に引き上げられた毛利の最期の言葉「(勘差)大介が気がついたらつたえといてくれ…甲子園をなめるな…大介の将来に対する計算や野心など、全国からよりすぐられた…実力もあり純真な高校球児の前では無に等しい。つまらん野心をすてれば立派に完投できるとね!甲子園…ガンバ…」 は、生き残った捕手菊地の口から勘差に伝えられる。更に菊地は、毛利が自分の命を投げ捨てて勘差を助けた事をも述べ、勘差はショックを受ける。

開幕を3日後に控えた博多の病院にて、出場棄権の知らせを受けた勘差は、「おれひとりでも…甲子園で戦ってくる!」と甲子園へ向おうとするが、それを見た菊地が、「おのりゃあ自分の野心のためにゃ友だちの死体もふみつけるちゅうんか~っ!このドグサレ野郎が~っ!」と殴り掛かる。そしてそこで菊地が見たものは、勘差の腹のさらしに書かれた「くたばれ甲子園」の文字であった。そして「(毛利)つかさにたむけの土をとりに行く」為に、 生き残った勘差、菊地、吉田の3人は、組み合わせ抽選会へ出向く。
「本来ならば出場棄権のところ…死んだ球友にむくいたい…からだの動くうちは戦いたいという3人の姿勢と事情をくみとり、特例として出場が認められ」9人対3人の変則野球が繰広げられる。後半崩れると云うジンクスを打ち破り、勘差は7回裏まで0点に押さえるが、既に3人共体力の限界も越え、既に気力のみでプレイしている有様。勘差は7回を過ぎた辺りから殆ど意識も薄らぎ、ただ「甲子園をなめるな」と云う、毛利の最後の言葉だけを抱いて投げ続ける。一体もう何回なのかさえ判らぬままに、ひたすら毛利の為に完投を目指す勘差は、外野の吉田がグローブに確かにボールを取るも、ラッキーゾーンに倒れて行くのを見た時、サイレンを聞き、遂に倒れる。
「甲子園大会出場校34校の全キャプテンの自発的な行為により、今、真紅の大優勝旗が、精も根もつきはてた3人の球児の上にかけられました~!」気を失い倒れた3人の上に大優勝旗が掛けられた時、勘差の頬に涙が流れる。
「それは試合に負けた無念さなどではなく、青春の行動は打算ではないと、死をもって教えてくれた…大いなる友への惜別と『ざんげ』の涙であった!」(完)
「高校球児にとって甲子園とはなにか?男の夢と友情を描破する会心作!」のコピー通り、女性キャラなんぞ全く出て来ぬ、男の為の男の漫画である。

今日びの漫画に私が全く興味を失ったのは、漫画家自身のアイデンティティーが薄らぎ、その画風や作風から容易に誰の作品かさえも見分けられぬ有様で、人気作品の二番煎じの道を目指すと云う、現在の新進漫画家の意識の低さのせいである事に他ならぬ。70年代の少年漫画誌上は、個性的作風を模索する作品で常に彩られ、それ故に名作怪作問題作が次々と世に送られ、あるものは歴史的名作として名を馳せ、又あるものは単行本化さえされずに消えていった。少年漫画は、男の子達に「男の生き様とは何か」を熱く語りかけ、少女漫画は、女の子達に「全ての女の子が抱く淡い夢」を見せていた。それでこそ「少年誌」「少女誌」である意味があろう。少年サンデーの仕組んだ「ラブコメ」ブーム以降、少年漫画は急速に軟弱化し、少年ジャンプのアホな友情路線による人気作品の延命化を発端に、これら編集発行サイドの意識の低さが露呈する中、男の生き様とロマンを最も硬派に語っていた少年キングの廃刊で、「少年漫画」と云う「啓蒙漫画」は完全に死滅したと言える。
少年漫画にそもそも愛だの恋だのは不要であり、男と男の世界を熱く語ればこそ、そこに真の友情の姿も描かれよう。何事に於いても重要であるのは、其所へ到達する「過程」であり「結果」ではない。故にかつての少年漫画に於いては、例えば野球漫画の魔球であれ、それを生み出すまでの苦悩、そして打ち崩す為の努力こそが、そのストーリーの中心として描かれていたが、「リングにかけろ」以降、次第にそれら過程よりも「どちらが強いのか」と云った結果に重点が置かれるよう変化してきた。それもこれもバブル期のガキ共は、裕福な「国民総中流意識」と呼ばれた豊かな時代に生まれた為、何事も「我慢せずに」買い与えられた事に起因する。故に彼等は、それを手に入れるまでの我慢や苦労を嫌い、ひたすら安易に結果を求める。そして僅かでも自分の思うようにならぬ、若しくは我慢せねばならぬ情況に追い込まれるや、いとも簡単に「キレた」と云っては安易な暴挙に出て、自分の未熟な精神を露呈しては、しかしそれを露呈する行為自体をも誇示してみせる。「キレる」と云う行為は、逃避の摺り替え以外のなにものでもなく、また自分の心情を曝す事で同情を買おうと云う打算以外のなにものでもなく、それは私にとっては全く「キレていない」情況である。
先日、深作欣二の「バトル・ロワイヤル」なる映画を漸く観たのだが、今日びあそこまで戦い抜ける精神力を持った少年が、1クラス中にあれ程も居るとはとても思えぬ。また描かれている友情も、全て「女絡み」でお粗末極まりなし。現在の家庭事情や社会的背景を象徴していると云えば確かにそうであろうが、男の友情も安くなったものである。「ぬおおおおおおお~っ!とむらい合戦じゃ~っ!」っと四六時中絶叫していた、かつての少年漫画の熱き男の血潮は、哀しいかなここにはない。

今現在、少年犯罪やらいじめが社会問題化する中、かつての熱き少年漫画を、学校教材に指定してはどうか。そもそも教師が生徒を殴れば「体罰」と問題視されること自体が、大いに問題である事に、何故誰も気付かぬ。殴られて初めて殴られる「痛み」を知る事が出来、故に「殴る」と云う意味も理解出来る。されど今日びの若い軟弱教師なんぞは、学生の頃に殴られた事もない「可もなく不可もなく」と云った学生であったのであろう、故に「殴り方」「殴り具合」も知らずに殴るから、不用意に怪我を追わせてしまうのであろう。大学にて教職を選ぶ輩には、自衛隊1ヶ月間入隊なんぞを義務付けてみてはどうか。
無闇に「暴力を許すまじ」と教える事自体、大いに間違えている。少年期は、暴力から学ぶ事も多い。
「どつかれたらどつき返せ。」
その根性なくして、その後の人生如何にして独りで生きていけると云うのか。徒党を組まずして何も出来ぬなんぞ、情けない事極まりなし。中学生の時分、上級生50人に対し独りで喧嘩し、当然の如くボコボコにされたが、後日1人ずつ呼び出して全員シバいたった事がある。その後、誰も私に喧嘩を売らなくなった。勿論私は武道の心得があった訳でもなく、とりわけ喧嘩が強かった訳でもない。ただ少年漫画から「男とは何たるものか」を学んでいた私は、ホセ・メンドーサを恐怖のどん底に叩き落とした矢吹丈の如く、如何なる大きな敵にも立ち向っていく戸川万吉の如く、如何な逆境であれ燃え尽きようとするアストロ球児の如く、男に生まれた限り男として生きようと思っただけである。

若い人達からしてみれば、「古い」の一言で嘲笑されてしまうのかもしれぬが、されど「男の生き方」に古いも新しいもあるのか。
お互い牽制しあって愛想笑いを浮かべながら徒党を組んでるお前らには、百回転生した処で理解出来ぬか。哀れよのう。

(2002/7/14)

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