いよいよAMTのツアーが、あと1週間と差し迫ってきた。今回は2ヶ月間で約40本のライヴをこなさねばならぬ、かなりの強行軍である。再び激不味料理に四苦八苦しつつ、旅先でのトラブルに右往左往しつつ、珍道中を繰り広げる事となろう。もしも帰国後時間があれば、またツアーレポなんぞを綴ってみたいと思う。ツアー直前と云う事もあって、連日e-mailによるインタビューが後を絶たぬ。されどインタビューなんぞと云うものは、至極退屈なもので、大抵が同じような質問である為、こちとら以前のインタビューの折に用意した英訳なんぞを、コピペで送りつけるばかり。故に、たまに趣向の変わった質問なんぞ来れば、大慌てで英訳を依頼せねばならぬ有様。簡単な質問であれば、自分で英訳するのであるが、何しろ哲学的な質問等であれば、日本語で答えるだけでも精一杯である。
一方で、国内のあらゆるメディアのインタビューは、丁重にお断りさせて頂いている。かつて幾度か取材に応じた事もあったが、私の話した内容なんぞ、面白可笑しくカット/編集され、それこそ「言葉のアヤ」で口から出たような言葉を、まるでそれが主題であるかのような扱いに、流石に呆れ果て、では一体何の為に、御丁寧にもこちらが時間を用意してまで答えたのか。これには自分の「お人好し」さに愛想も尽き、以後決してインタビューアを信用しないことにしている。そもそもAMTや私の音楽なんぞ大して好きでも無く、それどころか大凡聴いてもおらず、それで真面目に取り上げてくれる筈なんぞあろうか。
それでも頑なに、電話でインタビュー依頼を寄越す輩もおられ、「インタビューには一切応じません」と云った処で、「大してお時間は取らせませんから」なんぞと宣う始末。「時間を取らせない」インタビューと云う事は、「大した掲載スペースもない」と云う事であり、「当誌としては、別に取り上げなければいけないと云う訳でもないけれど」と云う胸の内まで見えて来るではないか。更にこちらがインタビューを承諾した訳でもないうちから「で、次回はいつ東京に来られますか?」との問い。「はあ?どういう意味でしょうか?」と問えば、「経費が出ないんで、ライヴ前に楽屋へお邪魔してインタビューさせて頂こうと思いますが。ついでにライヴレビューも載せようかと思いますので、私とカメラマンの2人を招待しておいて下さい。」とのお申し出。何故見も知らぬ雑誌社の人間を、招待せねばならぬのか。「ついで」で書かれるライヴレビューなんぞに、何故私が骨を折らねばならぬと云うのだ。否、それ以前に、何故ライヴ直前の大事な時間に、それも楽屋でインタビューなんぞされねばならぬのか。「経費が出ない」とは云え、せめて何処ぞのバーか喫茶店で、ビールの一杯やコーヒーの一杯ぐらいは、御馳走してくれてもよさそうなものではないか。
沸き上がる不快感を押さえつつ「そのインタビューって、ギャラとか出るんですか?」と、敢えて尋ねてみれば、「えっ!ギャラですか?出る訳ないでしょう。」と、予想通りの返答に「でも貴方は、そのインタビューを寄稿することで原稿料がもらえるわけでしょう?」更に続けて「では何故インタビューされた側にはギャラどころかコーヒー1杯、ビール1杯が出ないんでしょうか?」と思わず応酬すれば「いや、ビール程度なら差し入れしますけれど…。」そういう問題ではなかろう。
次第にはらわたが煮えくり返ってきて「ところで…、なんでワシが楽屋でインタビューされなあかんねん、っていうか何で東京くんだりまでわざわざ行かなあかんねん?ええっ?言うてみい。ワシはなあ、東京には行かへんのんじゃ。そんな事も知らんと、ようヌケヌケとインタビューとか言うて来れんのう、われ。インタビューしたかったら、そっちが名古屋まで出向いて来い、ボケェ。」そこまで言うか言わぬうちに、向こうが電話を切ってしまった。
無論ギャラなんぞに一切こだわりはないが、インタビューアの誠意さえ感じられぬようなインタビューなんぞ、仮に承諾した処で、いざインタビューされているうちに、ぶっちぎれてどつき回してしまうやもしれぬ。そんな事にでもなれば、それこそ一体後で何と書かれる事やら。
また時折ある「ディスクレビューを掲載したいので、サンプル盤を送ってくれ」等と云う電話は、ミュージシャンをナメているとしか思えぬ。以前は斯く言われて送ってみたものの、結局ろくに聴かれももせず、この手のレビューではお馴染みの語句が適当に並べられた凡評が掲載され(内容は好意的ではあったが)、そもそも「タダ」で貰ったものであるから、評と云えども斯様な程度なのであろう。勿論、如何に絶賛されようが酷評されようが、掲載後何らかの反応があれば、送った甲斐もあろうが、一切リアクションもなく、結局は編集者が1枚サンプル盤をせしめただけに過ぎぬ。ディスクレビューがどうしても載せたければ、己で勝手に店頭なりで購入して、勝手に書けばよいではないか。自分の身銭を切って買ったものであればこそ、その善し悪しや好き嫌いについても、正直に書けると云うものであろう。第48回でもちらっとこの話に触れたが、「『金を出してでも』取り上げたいと思ってくれる輩の熱意なればこそ、こちらも信じられようもので、信用は金で買うものではないが、金で推し量る事は出来よう。」
されどテレビに比べれば、雑誌等の印刷メディアは、まだマシな方か。
昔やっていたバンドで、テレビに度々出演したものだが、大抵の番組では、カメラリハーサルの名の下、十数回も演奏させられた上、いざ本番ともなれば、結局リハ通り動ける筈もなし、動くつもりもなし。されど後日、放送されたものを観てみれば、ディレクターの目論見通り、インタビューも含めて見事に編集されまくり、まるで自分達とは別のバンドかと思わざるを得ぬ程、全くもって滑稽なバンドにでっちあげられてしまっていた。斯様な事が続くうちに、私のテレビ不信は酷くなる一方であったが、結局バンド解散と共に、テレビ出演の機会もなくなり、現在に至る。
かつてトレンディードラマのエキストラなんぞをやってみた経験もあるが、その現場たるや、あまりに酷いもので、俳優は殆どシナリオさえ読んでおらず、「えっ、次はどうすればいいの?」と、ディレクターにワンシーン毎に尋ねている有様。その「適当」な撮影ぶりには、流石に驚きを隠せず、ワンシーン毎にメイクやヘアスタイルを直しに寄るメーキャップ・アーティストに囲まれつつ、横からマネージャーが差し出すシナリオを見ている様に、「役作り」に徹するプロの「役者魂」は何処か、と思う事しきり。斯様に適当なる主役の演技に、わざとらしい称賛の拍手を送るディレクターなれど、何かにつけてこちらエキストラには文句をつける。幕の内弁当がギャラの我々は、何が悲しくて斯様な「クソ」ディレクターに、散々文句を云われねばならぬのか。
以来、トレンディードラマを観るにつけ、この事が想起され、常にシラけた気分に陥ってしまう。映画監督がテレビドラマを作っていた70年代の、フィルム撮りによる古き良きドラマでなければ、今や楽しんで観る事が叶わぬ有様。況してや最近の、芸能人の内輪ノリで構成されるバラエティーなんぞ、観るに耐えない酷さなれば、思わずテレビをぶち壊したくなる衝動に駆られてしまうので、絶対に観ぬと固く心に誓っている。
十数年前、某深夜ラジオに出演した折は、「2時間番組なので、飲みながら気楽な感じでやりましょう。」と、テーブルに酒がしこたま用意されており、一方でディレクターから「くれぐれも放送禁止用語には気をつけて下さい。」と、注意されていたにも関わらず、調子良くボトルをガンガン空けていくうちに、もう呂律も回らず、ただの酔っ払いの戯言状態で、更にCM中に下ネタで盛り上がるや、そのまま番組が始まっても、その勢いは既に制止すること不可能で、「オメコ」やら「マラ」やらを連呼。DJとディレクターが制止しようにも、暴走し始めたら止まらぬ私のマシンガン・トークは、「なにビビっとんねん、この根性なしが!『オメコ』とか何があかんねん?誰でも言うとるやないけ『オメコ』ぐらい。うっとおしい事ほざくな、ボケがぁ。」と、更に絶好調となり、怒り出したディレクターの叱責にも怯む事なく「じゃかあしんじゃ、このチンバがぁ。」結局途中でトークはカットされ、音楽が流されたらしいが、この事件以後、二度とラジオ出演の依頼は来ない。
放送コードなんぞと云う鬱陶しいものを、そもそも素人の私が守れる筈もない。「オメコ」なんぞ、女性なら誰でも持ち合わせているものであり、それが何故マズいのか。されど、医学用語としての「膣」やら「ヴァギナ」ならいいのだろう。「オメコ」と云ったからとて、一体誰が傷つくというのか。マスコミに於ける斯様な気遣いなんぞ、私にとっては何の意味もなさぬ。そういえば、町蔵のかつてのバンド「腐れおめこ」をオンエアするとなれば、一体どうすればいいのか。そんな心配する必要もないのだが、今や文化人の町田康氏の略歴紹介なんぞあれば、避けては通れぬではないか。(端からINU以前の活動なんぞ紹介されぬか…。)ふと思い出したが、元ガーリック・ボーイズ/元ルーズ・ハロウィンの中谷が、その昔ヴェルヴェット・フラワーズと云うバンドをやっていた頃、こんな歌詞を歌っていた。「世界は一家、人類は皆おめこ」
「オメコ」を語らずして、人の何が語れると云うのだ。マスコミなりレコ倫なり映倫なり、何故斯様に阿呆なのか。そもそも誰もが、生を受けて最初に出会うのは、母親の「オメコ」であろうが。
国内のマスコミ各位殿。
何はともあれ、私個人といたしましては、今後とも一切のインタビュー等取材に応じるつもりはございません。またこちらから、如何なる資料の送付も行いません。
以上、御了解下さりますよう、宜しくお願い申し上げます。
河端一
(2002/10/04)