『人声天語』 第36回「記憶と記録、忘却と消却の果てに」

一年ならぬ一念の計は元旦に在りとばかり、意を決して「嗚呼、非情」ならんとした処で、やはり何を於いても先ず為さねばならぬ事と云えば、音の出るネックの備わりしギターを入手する事か。昨年に於いては、あまりにギターを壊し過ぎて、今や遂に1本もなし。差し迫る数々の締め切りに先んじて、楽器が無い事には端から話にもならぬと思い立ち、近年稀なる正月の大雪にも関わらず、徐に中古楽器屋等へ出向いてみれば、偶然出会いしMOOG社のLowpass Filter なんぞを衝動的に購入する始末で、結局ギターは買えず仕舞。嗚呼、此れは幸先良いのか悪いのか。1月中旬迄に送らねばならぬマスターが5本。未だ録音さえ終えておらぬ上、それに伴うジャケットも作らねばならぬが、近頃ジャケットのアイデアがめっきり枯渇し、これまた至って頭の痛い処。ギターがあればミキサーがなく、ミキサーがあればギターがなく、時間があれば金がなく、金があれば時間がない。どうにも世の中、うまく歯車が噛み合わぬものだ。さりとて次回のツアーに合わせて数タイトルをリリースする所存故、何としてもここで一発奮起せねばならぬ。そもそも迂闊に立ち止まろうものならいきなり食うにも困る等、我が暮らしまさしく回遊魚の如し。

ましてや暮れに仕掛けた爆弾も、時限装置の不調からか爆発5秒前にて時計が止まってしまった様子故、この厳しい冷え込みにストーブのひとつも置けぬこの部屋同様、我が熱き想いもすっかり凍てついてしまった次第。何と人生とは皮肉且つ辛辣なるものか。嗚呼、我が人生については、ささやかな脱線さえも一切認められぬ様子故、取りも直さず本来の然るべき道へ戻らねばならぬ等、何とも腑甲斐無きこと此の上なし。されどこの局面さえ何の抵抗もなく受諾出来得る事こそ、運命論者なる我が哀しさか。

年の暮れに、突如MOドライヴァ-が謀反を起こし、結果全ての資料等収めしMOディスクのデータが吹っ飛ぶと云う事態が勃発。いやはやまさかバックアップ用のMOのバックアップなんぞ取る筈もない故、全ての資料を始めとする様々なファイルを完全に消失、いきなり記憶喪失と等しい有様に。やはり「もの」として実際には手にしておらぬ、所詮は「データ」なるものの虚しさを、ここにまじまじと痛感。あまりの憤りに、あわやMOドライヴァ-さえも壊す処であったが、前回のプロマウス粉砕の一件が脳裏を過り、既の事で思い止まりし。
今回のこの騒動にて、ファイルしてありし私的書簡としてのメール等も全て消失してしまったわけだが、個人的な時間の断片を消されてしまったかの如き喪失感と、書簡と云えどメールなんぞ所詮は筆によってしたためられたものにあらざれば、実は斯様な書簡なんぞ最初から存在しなかったのではなかったか、更に結局は実像なきデータでしかなかったのだと云う虚無感から、まるで夢からようやく覚めた後の、淡い記憶の残り香の如き心持ちなる。

しかしよくよく考えてみれば、人の記憶等まさしく実像なき斯様なデータなるものと同じであり、なまじっか書簡若しくは写真なんぞと云う、いつまでも記録として残されしものを、至って未練がましく記憶の当てにする故、斯様な錯覚を覚えるのではなかろうか。
しかし人の記憶とは、都合良くも悪くも忘れるからこそ救いがあるのであって、もし仮に全ての出来事等がデータの如く克明にいつまでも記憶されておれば、そのあまりの辛さから、よもや自殺者は倍増するのではあるまいか。辛き事等忘れ得るからこそ救われるのであり、一方で、時折何の兆しもなく思い出されるからこそまた苦悶するのである。かつて人工頭脳について某科学者が、「人間の脳の最も不可解且つ難解な部分とは、忘却と云う機能であり、この点さえクリア出来れば人工頭脳は完成出来る。」と語っておられた。一体何をもって忘却されるべき事象は決定されるのか、そしてまた時折、何故忘却の彼方にありし事象は再び思い出されるのか、この点が最も不可解であるとか。確かに、忘れたいが故に忘れようと努めて忘れるものと、忘れたくないにも関わらず忘れてしまうものがあり、片や、忘れた筈であったにも関わらず思い出されるものと、やはり思い出さぬものがある。このスイッチたるは何処にあるのか、さてまた何が契機となりON/OFFされるのか。
まして時折、記憶されている内容が時を経て、彎曲していたり誤っていたりする例は稀ならず、何故人の記憶とはこれ程不正確不鮮明であるのか。否しかし一方で、どうでもよかろう些細なる事を、自分でも驚く程にいつまでも正確鮮明に記憶している例も稀ならず。私なんぞは、かつての自分の彼女の名前をド忘れしてしまう事さえあれど、一方で、中学生の頃の彼女の電話番号なんぞを、この20余年もの間で一度たりとも回した事さえないにも関わらず、今もって何故だか後生大事に憶えていたりする。自分にとっての「憶えていたい」若しくは「忘れたい」と云う優先順位とは一切関係なく忘却してしまったり記憶していたりと、どうやら忘却や記憶に関わる脳回路の構造は、自分の意思とはあまり関係なく出来ているのであろう。

かつての甘酸っぱい思い出等は、時を経て熟成されたのか、次第に酸っぱさは薄れてより一層甘くなり、かつて辛酸を舐めさせられし辛いばかりの思い出は、いつしか辛かった心持ちは緩和され、更には何故だか滑稽さを増して酒の肴としての笑い話と化す。またかつて寺山修司が、「実際にはなかった事さえも過去に於ける事実となり得る」と書いていたが、人の記憶構造の不可解さを考慮すれば、斯様な事も起り得よう。過去に対する願望や後悔が、実際の記憶をねじ曲げてしまう等、誰もが思い当たる節あろう。よくよく考えてみると、果たして斯様な事柄は、本当に実在したのであろうか、今改めて疑心暗鬼にさえなる自分の過去とは、一体何なのか。
しかしもしも人が、過去の一切の記憶をまるで消去するかの如く持たぬとすれば、到底自分自身を形勢するどころか、果ては維持する事さえ不可能であろうし、はからずとも発狂するか自殺するか、それともそれこそ所謂完全なる痴呆者ならんか。さりとて一切の記憶を全く彎曲せずに、まるで記録せしが如く正確無比に記憶しておれば、いつまでも克明極まりない過去に犯せし罪状の数々やら業の深さに、詰る処猛烈な自己嫌悪に陥り、やはり果ては発狂するか自殺するかであろう。どちらにしても、記憶されている過去が不鮮明な故に、人はその人成りを形成し、そして未だ見ぬ未来に、僅かながらでも何かを期待若しくは失望するのではなかろうか。
また時折、不意に忘却の彼方に在りし何かを思い出さされるが故、其所に郷愁の情やら後悔の念が生まれ得るのではなかろうか。そしてその都度喜び、または悶え苦しむ事で、やはりその人成りを形作っているのではなかったか。

改めてこの「記憶と忘却」と云うシステムの完成度の高さを考慮すれば、唯単純に「記録と消却」しか出来ぬコンピューターのお粗末さは、語る迄もなし。故に如何に情報処理能力が向上しようが、決してコンピューターが感情や人格を形成する事はないであろうし、仮に「記憶と忘却」を可能とするコンピューターが現れたとしても、使う立場の人間からすれば、これ程役に立たぬコンピューターもないであろう。入力せし情報を手前勝手に忘却されたり彎曲されたりしては、一体何の為のコンピューターなるか。

記録した膨大なるものを後生大事に抱えているうち、自ずから人はある種の保守性を見せ、また一方で、全てを消却してしまった後は、何かしら一種の開放感に似た清々しささえ感じ得る。故に収集家は、かつて「オタク」等と蔑称されたが如く引き篭りがちであり、身辺整理好きな輩は、自ずからフットワーク軽く放浪しがちである。
私の母は所謂整理好きなのか、何でも即捨ててしまうが為、かつて数々の「宝物」を捨てられてしまった経験を持つ故か、逆に私は至って物持ちが良く、また何でも保存しておく習癖があるようで、云うなれば前者のタイプであろうが、時折全てを捨て去りたくなる衝動に駆られ、実際に今迄数度、全てを捨てた事があるのだが、その時の爽快さたるや、まるで自分が別人にでも生まれ変わったかの如く、とても言葉では言い表せぬ程のものであった。また子供の頃より父が、「三日前より以前の事等忘れてしまって構わぬ故、兎に角前(未来)を見据えて生きよ」等と説いた故、私は至って過去の事柄に対する執着薄く、また一刹那で大旨忘れ去れると云う特技なるを身に付けている。結果私の記憶とは、至って記録と云う情報に依存しがちで、要は何らかの記録に頼らねば、ついつい一瞬にして全てを忘却してしまうと云う記憶構造を持つ。されど極度の面倒臭がり且つ過去への執着皆無な上、日記等記すを忌み嫌い、遂には自分の過去なんぞ、まるで残されし写真等からしか想起出来ぬ程あやふやなものと化しているが、さりとて何の不都合も生じぬ。されどもし私が几帳面に日記等したためていようタイプなら、当然自分の過去の拠り所はその日記と相成る次第で、それこそ記録が是即ち記憶と摩り変わってしまう故、今頃はあまりの自己嫌悪で自殺でもしておるか、若しくは日記を焼却し、さながら結局は自分探しの旅にでも出ているか。

そもそも記録と云われる、変化せずに全く凍てついた状態で、されど半永久的に残るもの等、どうにも好きになれぬ。森羅万象全ての事象はうつろいゆかねばならぬ。
例えば私の音楽等についても、私の死と同時に、世界中の私の録音物全て消滅して欲しいと、これこそ切望してやまぬ。出来ることなれば、私の死と同時に、世界中の人々の記憶から私に関する項目さえ消滅して欲しい上、一切の記録や記載からも私に関する項目は、まるで私と云う人間なんぞ最初から存在すらしなかったと云う程に、完全に消去されて欲しいと切に願う。音が本来、録音と云う一連の記録作業を除けば、一刹那のみしか有効ではないかの如く、私自身も斯様にありたいと、何時の頃よりからか思う事頻り。構えて墓なんぞ望まぬし、「死して屍拾う者なし」で大いに結構。歴史に名を残す等、永遠に汚名を曝すようなもので、斯様な様は命在るうちで至極充分、生きている間ならば尻も拭える。そもそも私が死して後、私の意思やらも及ばぬ時間まで、云々言われるはあまり気分の良いものでもなかろうし、かつて付き合いし女性が今やすっかり私の事等忘れ去りて現在の彼女の暮らしを営むが如く、死後は至って斯く在りて欲しい。

記憶は忘却される故、その意義があるのであろう。では記録もそうではなかろうか。如何なる重要な記録さえもいずれは消去され、消された記録は僅かな人々の記憶にのみ留まり、しかし遂には忘却されていく。後生大事に保存せねばならぬものなんぞ実は何も無く、消えて失われていくからこそ、それが記録されし意味を初めて見い出せるのではなかったか。然して記録にも、せめて有効期限は必要であろう。
となれば、我がMOドライヴァ-の為したる痴れ事も、致し方なしと納得せん。さすれば自ずから、これは私に全てを捨てよと諭しおるかと察せらるるに、況んや我が過去の記憶愈々もって不明確となり、なれば増々もって今年こそ何やら一大転機たるも訪れようや。されど私は、一切の期待さえもこれこそ不毛と信ずる輩なれば、忘れられゆく過去と一切何事をも期待せぬ未来の間に立ち、ただひたすら「今」を受けとめるのみの運命論者であり、はてこれはもしや「ただの痴呆者」ではあるまいか。若しくはこれこそ「自堕落な暮らしの心構え」なるか。何も留めずうつろいゆくのみの生き方こそ、まさしく真のボヘミアンなれば、これぞAMTスタイルなり。
放蕩こそ至上の美徳なれ。

(2002/1/04)

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