怒濤の録音スケジュールをこなしつつ、暇を見つけては溜まりに溜まったビデオを観る。今春より東映チャンネルにて、遂に「非情のライセンス」がスタート。これは「子連れ狼」「特捜最前線」等と並び、大いに私の人生に影響を与えたテレビドラマ作品。故天地茂の代表作にして、あまりの内容の「凶悪」さにカルト的人気を誇るが(ハイライズのギタリスト成田氏のマニアぶりは有名。勿論氏のユニット「凶悪のインテンション」の名前の由来は伺うまでもなかろう。)、何にせよ地上波での再放送が、私の知る限りほぼ皆無。当然の如く73年の放映当時に観て以来、実は私は一度も再放送等に巡り会う機会もなく、今回の放映で約30年ぶりにしてようやく再びお目にかかる次第。当時まだ私は小学生のガキでしかなかった筈であるが、兎に角私の脳裏には、天地茂の異常な程のクールさと、番組全体に漂う何とも怪しく危険な、まるで子供は決して覗いてはいけないかのような空気が、強烈な印象として今尚残っている。流石マニアの中屋氏(ナスカ・カー)に於いては、再放送も観ていたそうで、内容等も克明に記憶しておられ、氏よりいろいろな逸話を伺う度に、再放送若しくはビデオ化を切望していたのであるが、ここにようやくその悲願も成就された。東映チャンネルのサイトから、何度も放映リクエストを出した甲斐もあったと云うものだ。(東映チャンネルのリクエストに於ける放映率は非常に高く、今迄リクエストしたものについては、明らかにテレビでの放映は見込めそうにもない石井輝男や牧口雄二の異常性愛路線の映画作品以外は、偶然かもしれぬがほぼ全て聞き届けられている。)約30年の時を経て今再び目にする会田刑事は、やはり当時より抱いてきた印象と寸分の違いもなく「凶悪」であり、そしてあの頃感じた「凶悪」な危ない空気感も再び自分の中に蘇ってきた。偶然にも、私の今年のテーマは「非情」なれば、これもまた何か運命の巡り合わせか。取り敢えずは、狂牛病等取り沙汰される御時世ではあるが、会田刑事宜しく月に1度赤い血の滴る「凶悪のステーキ」を頂く事から始めるか。
さて私は現在ビデオデッキを5台所有しているが、録画用にして常に稼動しているものが2台、自室と居間の再生用に2台、そして最後の1台はβである。今尚βのデッキを所持している輩を自分以外に何人か存じているが、何故か全員マニアックな、私等の浅学では足下にも及ばぬ御仁ばかり。いやはやβはマニアの証しか、さてまたステイタスなのか。
高校生の頃迄、ビデオデッキがある家庭とは是即ち「裕福なる家庭」の証し、若しくは以前は8mmでソフトをコレクションしていたような余程の映画マニアであり、当時高価だったビデオデッキとは、私なんぞには至って縁遠き高嶺の花であった。
MTVなんぞも無かった当時、「動く外タレ」をテレビで観る事が出来たのは、NHK「ヤングミュージックショー」若しくは「ベストヒットUSA」を筆頭に僅かな深夜番組程度で、深夜2時から放映されたバッド・カンパニーのライヴを観る為に眠い目を擦り、朝5時から放映されたロッド・スチュワートのライヴを観る為に早起きせねばならぬ時代であった。当時は、「動く外タレ」自体物珍しかった為、自分の好き嫌いは別にして、スティービー・ワンダーからジョン・デンバーに至るまで、兎に角片っ端から観たものだ。それ以外では、ブートライヴビデオを流している梅田のロック喫茶で、またはロックマガジン主催のビデオ・コンサートで、ようやく自分のお気に入りの「動く外タレ」を観る事が出来た程度。
そんな折、大阪へライヴを観に行くつもりであったある日、新聞のテレビ欄にて「ヤングミュージックショー」のダイジェスト特集がある事を発見。しかし放送時間が見事にライヴとバッティングしている為、究極の二者択一を迫られる羽目に。今となってはそれが何のライヴであったか等、到底覚えている筈もないが、ヤングミュージックショーの出演者には、何とディープ・パープルの名前が。これは万難を排してでも観なければならなかった。何しろ当時の私は、あれほどパープルを愛していたにも関わらず、「動くパープル」を未だ一度たりとも観た事がなかったのである。そこで私は、何とか両方とも観る事は叶わぬものかと、考えに考えた挙げ句、一つの光明を見い出した。
近所に東芝系列の「手塚電器店」と云う、私がいつもカセットテープを購入していた小さな電器店があった。私は当時FM大阪をエアチェックする為、8素子のアンテナをこの店で購入したのだが、奈良盆地の西側に位置する私の家では生駒山が微妙に邪魔しており、どうしてもステレオで受信する事が出来ず、されどこの店では微妙な位置の違いからかステレオでクリアに受信出来ていた為、いつも録音したい番組がある折は、店頭のステレオを使って録音させてもらっており、録音している間は店主や奥さんとお茶菓子等よばれつつ世間話等していたものだった。そして私はこの日、ヤングミュージックショーの録画を、この「手塚電器店」に依頼してみれば、勿論二つ返事で快諾して頂けた。
当時はまだβとVHSのビデオ方式戦争真只中であり、東芝はβ方式を採用していた。こうして必然的に私は後に、βデッキを買わなければいけない道を辿るのだが、勿論後日βがビデオ方式戦争に大敗する等予想もし得なかった為、βで録画する事に対して熟慮する筈もなく、兎に角パープルをビデオで録画出来る喜びのみに打ち震えていた。何しろビデオで録画すれば、何度でも繰り返しパープルを観る事が出来る、この思いもかけぬ夢のようなハッピーハプニングに、私は兎に角興奮していた。
さてその1年後、ようやくビデオデッキを購入する資金も貯まり、では早速βデッキを求めて日本橋へ赴いた。当時丁度Hi-Fiが登場したばかりの頃でもあり、私の狙いは当然そのHi-Fiのβデッキであった。ようやく見つけたHi-Fiのβデッキは、なんと定価28万円也。Hi-FiのVHSデッキならば、半額の15万円程度で手に入れられる事を知った私は、この時初めて、何故自分はβのデッキを買わねばならぬのかと、たった1本のパープルが録画されているβテープを呪った。しかしどうしても自分の部屋で「動くパープル」を心置きなく堪能したかった私は、結果その28万円のβデッキを23万円迄値切り倒し、更に生テープ3本と、本当は欲しくもなかったデュランデュランのプロモビデオをおまけに付けてもらう事で商談成立。こうして私のビデオライフの幕は切って落とされた。
β3モードで録画したものでさえVHSの標準録画を凌ぐ等と、兎に角βの方が圧倒的に画質が良いと言われながら、しかし結局長時間録画での差で、VHSにビデオ方式戦争に負けていると聞いて、私はVHS派の阿呆ぶりに呆れ果て、そして自分が理由はどうあれβを選んだ事を誇りに思った。否、そう思わなければ、VHSに比べて倍額近くもするβデッキを買わされたのであるから、正に合点もいかぬ。
80年代半ばにもなり、レンタルビデオ店なるものが登場し始め、勿論私も足繁く通い始める。当初はβコーナーとVHSコーナーの格差は然程なかったが、次第にβコーナーは新譜の入荷数が激減し、遂には店の片隅に追いやられてしまった。当時レンタル料金は「ソフトの定価の1割」が常識で、1本のビデオを1泊2日借りるのに1500円~2500円は必要であった。更にレンタル店が、ビデオデッキ・レンタルやダビング業も行っており、いつも私は高い金を払ってソフトを借りるのだからと、必ず返却時にダビングも依頼しており、すると生テープ1本1000円に、ダビングが確か30分500円程度と記憶しているので映画1本では2000円程度、しめて4500円~5500円はかかる計算であるが、それでも1本2万円以上はする市販ソフトを買う事を思えば随分お得で、況してダビングさえすれば自宅で何度でも繰り返し観る事が出来るのだから、10回も観ればレンタル代は500円程度になる算段と自分を納得させていた。
しかし遂にレンタル店からβソフトが消え、更に店頭でのダビング業も著作権の問題で禁止され、いよいよ私もVHSデッキを買わねばならぬ日がやって来た。そして近所のディスカウントショップにて、何と2万円でシャープのHi-Fiデッキを購入。つい数年前に20万円以上も出してβデッキを購入した時との、このあまりの値段の格差に驚愕。兎に角これでようやくVHSデッキを手にした私は、ようやく1泊2日350円が常識となったレンタルビデオ店に再び通い始める事となり、そして借りた全てのビデオをβにダビングしたのは言う迄もなく、数々のエアチェックも含め、こうして我家には次第にβテープが溢れていく事となる。
そんなある日、観る度にβテープの画質が少しずつ落ちて来ているのではないだろうか、とβテープの耐久性に少々疑念を抱き始める。更にヘッドの汚れる度合いがひどく、こまめにヘッドクリーニングしていないと、観ている途中で画面がノイズで覆われ、結局中断してヘッドクリーニングせねばならなくなる。また久しぶりにかけるテープは、冒頭20秒程度の汚れがひどく、本編に辿り着く前に(常にテープのアタマ1分は送ってから録画するように心掛けていた。)ヘッドクリーニングを施さねばならぬと云う事も、稀ではなかった。されど普及率の違いからか、βのテープの方が入手し難く、値段も少々高かった。
周囲にあれ程居たβ派も、その頃には2人程度となり、されど彼等はED-βやβ-Proに買い替える程の「尊β攘V」の志士と化し、勿論彼等も「レンタルビデオ・ソフトの再生用」としてVHSデッキは所持しているのだが、あくまでも自らの明確なる意志によってβで録画再生する事に執着していた。中でも1人は、ダビングの際でさえ、勿論「送り」はVHSデッキの訳であるが、それでも「受け」のβのモニター画像しかブラウン管には映さない、究極の「尊β攘V」の志士であった。こういう輩が今も尚存在する限り、ソニーはβデッキを生産ラインから外す事は叶わぬであろう。況んやβの生産中止なんぞ決めようものなら、「天誅」の名の下、日本中に潜む「尊β攘V」の志士の一斉蜂起は避けられぬのではないか。少々状況は異なるが、もしマイクロソフト社の市場シェア率がもっと高くなり、アップル社が併合されでもすれば、全世界のマックマニアの一斉蜂起は確実で、下手すればタリバンよりも過激な行為に出るやもしれぬ。しかし常に少数派になってしまったが故のこだわりやら愛着と、そしてそこから派生する意固地さは、何れに於いても同じ様相を呈するようで、β派のこだわりは、βの衰退に反比例して更に強固となっていく。
そして元々然程深い思慮なくβ派になるべくしてなった私は、やはりもうソニーですらVHSデッキの生産を始めた辺りを境に、遂にVHS派へ転向したのだった。
されどβテープでのコレクションは、今や増えこそせぬが減る訳もなく、それらの中には貴重映像も多く、これらを観るには永遠にβデッキが必要である。若しくは貴重映像全てをDVDRにでも焼くかするしかないのだが、DVDRの録画方式が未だ統一されぬ現在、慌ててDVDライターを購入する事は、βでの過ちを繰り返す事にもなりかねぬので、当面はDVDR録画方式戦争の行方を静観する所存。それ迄は何としても、このかれこれ購入から18年以上を経た我がβデッキを温存せねばならぬ。愈々最近は、電源ON/OFFスイッチも接触不良気味にして、更にはソフトも腐ってきたのか、輪郭線が心なしか青く滲んできたような気もする。これは増々もって「βの余命長きにあらず」と云う兆しか、ならせめてヘッド交換でもと問い合わせた処、何とこんな旧モデルでさえ今だヘッド交換出来ると伺い知り、今更β派を擁護するソニーの心中察するに余りある。
そこで安心して、最近はβテープによる映画等を連日観ておれば、今やすっかり見慣れたVHSの画像とは、明らかに画面の空気感が違う事にふと気付いた。何故だかβの画面の方が遥かに、かつて足繁く通った阿倍野や新世界の2番館やら名画館で観たあの「映画館特有の暗さと湿っぽさ」を放っているのだ。βで70年代の東映作品、例えば多岐川裕美のデビュー作「聖獣学園」を観ると、鶴橋のうらぶれたピンク映画館で観たあの時と同じ匂いがするから不思議であり、またゴダールの「勝手にしやがれ」を観れば、大毎地下で当時の彼女と一緒に観た時と同じ、今や実際にパリを度々訪れるが故に忘れてしまっていたが、「幻想としてのフランス」を想起させてくれ、挙げ句の果てには、当時の彼女が愛用していたDEPの匂いやらまで漂ってくる始末。決してVHSでは堪能出来ない「映画館で観る映画」の雰囲気を、何故だかβは味あわせてくれる。名画館や2番館等の小さな映画館同様、時代の荒波を生き抜けなかったβの悲しみが、果たしてそうさせるのか。今にして気付くβの偉大さ。嗚呼、されど今や更に膨大に膨れ上がった私のビデオコレクションは、ほとんどVHSではないか。だからと云って、今更βに後戻りする事も出来ぬ相談で、せめて当時集めたβのテープを大切に保存するしかない。
と、βに対する愛惜の情に満ちる今、突如βデッキが御臨終。嗚呼、何と人生とは皮肉なものか。そして私のβへの愛惜の情は、哀惜の想いに取って変わられた。
「βよ、永遠に…。」
(2002/1/19)