『人声天語』第4回「たとえ胴太貫折るるとも…」(2001/4/2)

胴太貫(どうたぬき)」とは、「重ねも厚く身幅も広くもっぱら実戦用の戦場刀。 骨を斬っても刃こぼれひとつしない。」と言われる、「子連れ狼」こと拝一刀の愛刀。 相手の刀を斬る等言うに及ばず、甲冑ごと斬り殺す、挙げ句の果てに何体もの石仏さ えも一刀両断にしてしまう、頑健無比な事この上なし。

私はかつて、自分のギターは胴太貫の如く、絶対折れないと信じ込んでいたが、(実 際いかなるパフォーマンスを行っても折れなかった)ある時遂に折れてしまった。

そして先日のAMTのライヴで、またその愛用のギターを叩き壊してしまった。

私が現在愛用しているギターは、元々は今は亡き名古屋のB級メーカー「FRESHER」製 である。「元々」と云ったのは、実際に今現在FRESHER製なのは、ボディとピックアッ プのみだから。私が東京アンダーグラウンドと呼ばれる(?)シーンに関わるように なった94年頃から使っているのだが、ツアーで酷使するせいもあって、前述の初め てネックが折れた時以来、しょっちゅうネックやアームは折れるし、ぺグは吹っ飛ぶ し、内部の回路も断線する。その度に自分でリペアしているので、工具一式はツアー 時の必需品となっている。
家には、折れたネックやら壊れたブリッジやらが、ゴロゴロ転がってる。更にネック が折れる度に中古のギターを買って来ては、ネックを移植しているので、ネックを奪 われたボディ達もゴロゴロ転がっている。これらジャンクも、パーツ取り用として、 日の光を浴びる時を待っている。

元々、FENDER製のストラトキャスターを持っていたのだが、これがどうにも自分にしっ くり来なかった。ある日、友人宅へ行った折、彼の所持するFRESHER製のSTRAIGHTER( ストラトキャスターではない!)なるバッタもんを発見。ちょっと触らせてもらうと、 これが本当に素晴らしかった! そこで彼に、私のFENDERと彼のFRESHERを交換して もらえないかと交渉。交渉は勿論即決。彼はバッタもんが本物に、私は不要なギター が自分にフィットしたギターに、各々交換することが出来、こうして私は愛機を手に 入れたのだ。

私のギターへのこだわりは、自分の望む音が出ると云う事以外では、いたってシンプ ルである。
ローズ指板且つデカヘッドのネックであり、 勿論シンクロタイプのトレモロユニッ トが搭載されたストラトタイプで 、更に白ボディに鼈甲タイプのピックガードであ れば言う事なし。これはまさしく今現在使用しているタイプであり、実はこういう事 に関しては保守的なのだ。

ストラトはセットネックである等、壊れてもリペアが簡単で良い。前述の様に、四六 時中リペアしているので、アメリカでは「フランケンシュタイン・ギター」と笑われ た。確かにツギハギだから反論出来ない。
しかし何故この1本に、それほどまでこだわるのか。勿論コントロールし易く、タフ であるからだが(一度だけ、リペアする時間が無く、他のギターを使ったことがあっ たが、たった一度のライヴで完全に粉砕)やはり愛着があることが他ならぬ理由であ ろう。何本かギターを持っていると、ギターが嫉妬し、いきなり弦が切れたり、音が 出なかったり、トラブルが続出する。女性問題と同様、煩わしいこと極まりなし。ギ ターに関してのみ、1本でも不自由しないので、結局今はこの1本しか持っていない。

私は機械音痴な上、手先が不器用だと思うのだが、ギターをいろいろ改造することが 好きだ。改造と云っても特殊ギターに改造するのではなく、いたってささやかなディ テール等だが。ヨーロッパでは、自分で家を建てられない(設計/施工の意)者は一 人前の男ではないそうだ。日本では家の建造物的構造から想像し難い話ではあるが、 確かに一理ある気もする。同様に、自分でせめてギターのメンテ/改造ぐらいは出来 ないと、一人前のギタリストと言えないのではないか。ギターと云うものが、いかな 構造をしているか程度の理解は必要だろう。それはマシン(ギター)をコントロール する為に、 構造等全てを理解しておかねばならない と言う、例えばF-1パイロット 等にも通じる一種の鉄則であろう。

かく云う私は、全くの独学で 楽器を始めた為、普通のチューニングなるものを知る のに4年もの歳月を要したが、即ちそれは、当時レギュラーチューニングなるものを 必要としなかっただけのことである。楽典的な音楽の知識は本来音楽については後付 けであって、そのようなことを学ぶ以前に、自分自身の楽器のなんたるかを知ること の方が重要ではなかろうか。

あの拝一刀が、共に冥府魔道を歩んで来た「胴太貫」が遂に折れた時、柳生一門の屍 から刀を取らずに、その折れた愛刀で柳生列堂と戦い死んでしまったかの如く、私も やはりこのギターと生死を共に…等と云う気持ちはサラサラ無い。それはやはり私が 「剣の道」ならぬ「弦の道」に於いて、いまだ未熟者であるからか。はて、「弘法筆 を選ばず」とも云うが…。

(2001/4/2)

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