呆気無くイラク戦争は終焉し、一方でSARS騒動が巻き起こる斯様な御時世の中、5月中旬より再びツアーに出なければならぬ。どうやら一昨年のアメリカ・ツアー中に起きた同時多発テロ以来、何かと騒ぎに巻き込まれ易く、先達てのフランス・ツアーではイラク戦争が勃発、せめてツアーぐらいは周囲にいらぬ心配を掛けずに行きたいもの。ツアーに合わせてリリースする予定のAMT Soul Collective Tour記念CDとPardonsの2ndは、プレス工場にてアートワークファイルに問題が生じ、果たしてツアーに間に合うのか。
斯様な心中穏やかでないここ数日、闇雲にヤフオクにてしょうむないものを落札し続けている。モーニング娘の矢口真里の応援腕章からレコードやら書籍に至るまで、その節操の無さはそのまま金の無さに反影される。池玲子のグラビアが掲載されているプレイボーイ誌から永井豪の漫画本まで、金が無けれど物欲は抑えられず、果たしてツアーのフライトチケットは購入出来るのか。されど特に「エロ」に関するしょうむないものに対し、物欲を抑える事は至難の技で、結局は適価ならば入札してしまう。そして気付いてみれば、永井豪の漫画はかなりのコンプリート状態に。
永井豪は私の最も愛する漫画家の1人であり、彼の作品との出会いは、小学1年生の時に友人宅に置いてあった「週間少年マガジン」に於ける「デビルマン」であった。当時デビルマンはテレビアニメとしては異例の、土曜夜8時半と云う、子供向け番組の時間帯から外れた時間枠で放映されていたにも関わらず、当然毎週欠かさず観賞していた。されど少年マガジン誌上にてお目にかかったデビルマンの姿は、テレビアニメ版のヒーロー然とした姿ではなく、尻尾の生えた毛むくじゃらの野獣の如き姿であり、その姿に痺れた私は、その後ひたすら少年マガジン誌上でデビルマンを追い続け、あろう事か「牧村美樹が生首を曝される」と云うシーンを観て大ショックを受けたのである。テレビアニメの最終回では「妖獣ゴッド」との死闘の果て、デビルマンの正体が不動明である事を、牧村美樹に知られてしまう云々と云う、ウルトラマン以降の変身モノの典型的最終回を迎えるのに対し、永井豪自ら描き下ろすデビルマンは、全てが滅亡へ向かう終末思想的なエンディングであり、況してや最終回には不動明さえ無惨な屍を曝し死んでしまうと云う、僅か7歳の私にはあまりにショッキングなラストシーンであった。一方で、シレーヌの姿がほぼ全裸である事に欲情する側面も既に持ち合わせており、以来テレビより漫画の世界を好むようになって行く。
近所の本屋にて、兎に角永井豪の単行本を買い漁る事に終始し、「ハレンチ学園」「あばしり一家」「オモライくん」「まろ」「学園番外地」に始まり、店頭に並んでいなかったサンコミックスの「ズバ蛮」「学園退屈男」「あにまるケダマン」「魔王ダンテ」「キッカイくん」等は、わざわざ取り寄せてもらい購入していった。またこの頃から永井豪の連載は少年漫画各誌に及び、週刊少年チャンピオンでの「キューティーハニ-」週刊少年マガジンでの「バイオレンスジャック(後に月刊マガジンに移動)」や「イヤハヤ南友」週刊少年サンデーでの「ドロロンえん魔くん」や「おいら女蛮」週刊少年ジャンプでの「マジンガ-Z」(後にテレビマガジン誌に移動)月刊少年ジャンプでの「けっこう仮面」週刊少年キングでの「心霊探偵オカルト団」増刊少年キングでの「リョコー少年団」等、それらの長期連載作品を筆頭に、短期連載作品や短編読み切り作品等も含め、欠かさずチェックせんと、私は各誌の発売日に本屋の店頭で立ち読みに耽る漫画少年と化して行く。
当時私が永井豪作品をこよなく愛した理由は、「エロ」と「バイオレンス」の二つであった。
兎に角やたら意味も無く可愛い女の子が裸になる、これに私の中に眠っていた何かが完全に覚醒され、人声天語第17回「人生はエロ劇画だ」でも触れたが、それまでは怪獣ばかりを描いていた小学2年生の私は、ひたすら「ボインの女の子の裸」ばかりを描くようになる。
一方で友人からマジンガーZやゲッターロボを描いてくれと依頼されても、最終回のボロボロにやられた姿ばかりを好んで描いてみせ(ゲッターロボは石川賢作品での最終回の姿)、デビルマンを描いてくれと依頼されれば、漫画版の毛むくじゃらの姿で且つシレーヌにやられた時のような片腕を失った無惨な姿を描いてみせ、テレビ版しか存ぜぬ友人を困らせたものである。
永井豪のもうひとつの魅力であるバイオレンス・サイドは、たとえ主人公であれ、徹底的に残虐なやられ方をする処にある。「ハレンチ大戦争」を読んだ時には、イキドマリの作者への訴えも空しく、今迄画面狭しと暴れ回っていた登場人物の殆どが呆気無く殺されて行く、この愛読者の各キャラへの思い入れさえも無視したあまりに冷徹なストーリー展開に、何故か私は大いに興奮したものであった。「人の命の重さ」や「思い遣りの心」等これっぽっちも感じさせない永井豪のバイオレンスさとあまりに利己的な冷酷さに、少年期の私は知らず知らず大いに影響され、20歳を過ぎる頃にある女性から指摘される迄、自分が人格的に完全に片輪者として育ってしまった事に気付かなかった。
最近になって永井豪作品(特に自分が少年期に愛読していた作品群)を読み返すにあたり、私は自分の想像以上に彼の作品が、私の人格形成に大きく影響を与えていた事に気付いたのだった。
「 学園退屈男」の早乙女門土のゲリラとしての性格や、ハレンチ学園に於ける反体制的色彩から大きく影響を受け、それらは当時愛読していた織田信長やナポレオンそしてヒトラー等の偉人伝と見事融合を果たし、私は所謂異端的且つ反体制的思想を好むようになって行く。小学3年生辺りから、このひねくれた性格は現れ出し、団体行動を極端に忌み嫌う一方で、反体制的な問題発言を繰り返し授業を妨害してみたり、授業ボイコットを扇動してみたりと、年令を重ねる毎に次第にクラスに於ける「思想的ゲリラ」と化して行ったのである。結果この思考形体は、後に「ロック」との出会いによって変容し、そして遂には今に至る。
また一方で、永井豪の漫画に於いて、特にしょっちゅう裸にされる女の子キャラは、まずもって人権は認められず、単なる「モノ(玩具)」若しくは「奴隷的存在」として描かれる事が多かった。女の子は常に無理難題を押し付けられ、勿論逆らう事は許されず、結果的には裸にされてしまう。されど裸にされた処で、「いや~ん」と頬を赤らめ涙を流し羞恥心に満ち溢れた表情を見せてはおれど、その表情はいつも何処か笑みを浮かべており、心の奥底では全裸にされ陵辱される事を心待ちにしていたかのようであるのだ。御陰で私は女性に対し「思い遣る」気持ちを育む事を知らずに大きくなり、女性に対しあまりに利己的な男として育ってしまった。結果、20歳を過ぎる頃、ある女性からこの欠点を指摘された上、我が人生に於いて初めて「女性からの逆襲」される憂き目を見る事となり、遅ればせながらも漸く女性に対する「思い遣り」の心を学ぶのであった。
また、未だ人生に於いて一度たりとも女性に対し如何なる嫉妬心をも抱いた経験さえあらぬ事(人声天語第26回「嫉妬という名のエゴ」参照)、所謂女性に対し如何なる執着心や独占欲が生じない事さえも、永井豪作品からの影響によるものではなかったかと思われるのである。
永井豪作品に見られる「登場人物をモノとして扱う」作者ならではの利己性と、彼の作品によく見られる「ヒロインの悲劇」が、私に女性に対する独占欲や執着心が孕む危険性を教示したのではあるまいか。「まろ」の玉子の君は藤原道々に攫われ、「凄ノ王」の雪白は集団レイプされ、牧村美樹は悪魔狩りの群集に惨殺され、仮に斯様な悲惨なケースでないにしろ、常に誰かに衣服を剥ぎ取られ全裸を公衆に曝す羽目となる、斯様な辱めを自分の愛する女性が受けたら一体どうなるであろうか。「力ある人間が好き放題に振るまい、弱き人間は常に泣きを見る」永井豪が私に教えた社会の摂理とは斯様な弱肉強食の世界であったように思う。自分が然程強い人間ではない事なんぞは、たとえ小学生であろうとも悟る事は易しく、故に私は自己の中で知らず知らずに「摺り替え」「代償行為」によって、女性に対する独占欲や執着心を消去していったように思われてならぬ。「愛する女性は常に危険に曝されている」と云う危機感は、私自身を不安にさせるに充分の要素であり、故にたとえ自分の愛する女性が「公衆の面前で全裸にされても」「誰かに陵辱されても」平気でなければならぬ精神を育む必要があったのであろう。
果たして作者である永井豪本人が実生活に於いて、如何な社会生活を送っているか、女性に対し如何な価値観を持っているかはなんぞ、一読者でしかない私は到底知るに及ばぬが、彼の作品から多大なる影響を受け、私の人格形成が行われた事は紛う事なき事実であろう。
ただ私の人格形成に於いて救いであったのは、永井豪作品を読むにあたり、ついでに他の漫画家の作品も同時に読む機会を得た事で、当時の少年漫画に於ける「男の友情」「バンカラ気質」「義の心」と云った類いの「男の世界」を知る事で、辛うじて「人間不信」や「超利己主義」に陥らなかった事であろうか。(人声天語第59回「少年漫画は男のバイブルだ!」参照)
ところで最近モーニング娘の矢口真里にハマった最大の理由は、「おいら」と自分の事を呼称する事にある。永井豪作品では「柳生十兵衛みつ子」「あばしり菊の助」「女蛮千代(女蛮子の母)」等、女性でありつつも男性的強さを持つ、時には男性よりも遥かに強いキャラクターが多く存在し、果てはWWFのチャイナに先駆ける事20年以上の「リッキー」のような筋骨隆々としたマッチョな美女、若しくは極悪人ハンター「法印大子」のような怪物的美女まで登場する。そんな中、これらのキャラ程は強くはなけれど、少々突っ張ってみせ、しかし本当は女性の弱さを秘めていた牧村美樹の姿こそ、永井豪の美女列伝の中でも最も魅力的キャラのひとりであり、その彼女が自分を「拙者」相手を「オヌシ」と呼称する辺りに(我々の界隈ではこれを「牧村美樹弁」と名付けている)私は猛烈な愛おしさを感じてしまうのである。(かつてのプレイボーイ誌等では、女性に対し「**子クン」なんぞと呼称していたが、これもまた私にとって魅惑的なスタイルである。但し今斯様な風に女性を呼んだ処で、それこそ「エロ係長」と間違われるのが関の山であろう。)
今日び自分の事を「拙者」なんぞと呼称する女性なんぞおらぬだろうが、せめて「おいら」と呼称する矢口の可愛さに、すっかり参ってしまったのである。
何処ぞに「拙者」「オヌシ」と呼称する美女はおらぬものか。それで且つ名前が「柳生十兵衛みつ子」ならば、我が人生捨てても構わぬやもしれぬ。これも時代劇フリークの一面をも持つ我が哀しさか。
(2003/5/2)