『人声天語』 第107回「旅姿4人衆ぶらりアメリカ彷徨記(Acid Mothers Temple US tour 04)」#12

6月18日(金)

午前8時半起床、洗濯機にてツアー最後の洗濯。朝飯は持参した食材処分として、明太子スパゲッティの素をそばに和えて食す。2年前のヨーロッパ・ツアーに於ける連日パスタ地獄の反動から、その後パスタ嫌いになってしまった私ではあったが、ここに来て漸くトマトソースのスパゲッティーなら食せる程にまで回復したのではあるが、実はこの和風スパゲッティーの素こそが、私をパスタ嫌いに陥らせた最大の要因であった事、ここに判明す。てっきりスパゲッティーのあの食感が嫌いなのだと思い込んでいたが、この明太子そばなる代物、食感はまるでスパゲッティーなれば、されどあの悪夢が脳裏にフラッシュバックすると云う事は、即ちこの中途半端な和風テイストこそが、本来あるべきスパゲッティーの美味しさを大いに損なわせていた云う事なのである。もう二度と妙な和風スパゲッティーなんぞ食わんぞ。スパゲッティーはトマトソースで充分なのである。明太子は炊きたて御飯に乗せて頂こう。これではまるでカリフォルニアロールを食って「寿司が嫌いだ」と云うアメリカ人と同じではないか。今はイタリア人に深く謝罪したい気持ちでいっぱいである。
午前中はネット接続し雑務。昼飯はSamお手製のチキングリル。これがまた滅法美味なれば、Sam曰く「Jonが持って来たソースを適当に混ぜた」らしいが、味は紛れもなく「定食屋のすき焼きの味」なれば、何とも郷愁を誘う。その後Samと郵便局へ、最後のレコード箱を日本へ発射。結局今回のツアーでレコード5箱を発射した計算になるが、果たして何枚買ったのであろう。自宅は既にレコード棚を増設する余裕さえなければ、また今年は夏以降ツアーに明け暮れる故、ゆっくりレコードを聴く時間さえあろう筈もなく、では一体何故に斯様にレコードを買ってしまうのか。来年こそ休みを取ってゆっくりレコードを聴こう…と思う。

週明けの月曜日には日本へ旅立つSamとこれにてお別れし、午後2時Philadelphiaへ向け出発。途中事故渋滞にてハイウエイが通行止めなれば、違うハイウエイへ迂回すれど、未だBoltimoreにさえ遥か届かぬ地点にて、何とこちらも事故渋滞なれば、これは2時間以上は遅れそうな勢い。されど渋滞を抜けてからのJonの果敢な攻めの走りにて、何とか午後7時、今宵の会場であるFirst Unitarian Churchに無事到着。既に表ではかなりの人数が開場を待っており、スタッフが「渋滞で到着が遅れた為、今からサウンドチェックを始めますので、開場は1時間後となります」とアナウンスを入れる。会場は何と教会の地下なれば、当然の如くエアコンなんぞは存在せず。サウンドチェックを手早く済ませれば、会場内の通路にて移動中古レコード屋が出店しており、津山さんはここでも目敏く数枚購入、私は敢えてチェックせず。結局津山さんは今回のツアーに於いて、LPレコード178枚とカセット70本を購入。
夕食は日本食レストランからのデリバリーにて、私は鉄火丼+味噌汁をオーダー、大層美味なれど御飯が多過ぎる為、今宵の夜食にとキープしておく。会場内は禁酒禁煙なれど、あまりの暑さなれば楽屋にて用意されたビールを呷る。

午後10時演奏開始、満員御礼の450人以上の入りなれど、この密閉された地下のホールにはエアコンがない故、ステージ上は壮絶な灼熱地獄にして、会場内は完全にサウナ状態と化し、汗もナイアガラの滝の如く流れ続け、何と床やエフェクターがあまりの水蒸気で水浸し状態なれば、ワウを踏みに行けども思わず滑る程。2曲目辺りで、既にメンバー全員意識が朦朧として来れば、聴こえる音も何やら彎曲して聴こえる具合にして、歌おうにもキーが全く判然とせぬ等、26年間の音楽活動にて初めての体験。サウナの中で2時間大暴れしている状態を想像して頂ければ、この地獄の様もさぞ想像に易い事であろう。あまりの灼熱地獄にして完全な脱水状態、アンコールは即ち死を意味する程の状態なれば、当然の如くアンコールはなし。
終演してみれば、床はステージも客席も共に水を撒いたような状態、終演後も30分以上全く汗が止まらず、幾ら水分補給した処で全くおぼつかぬ。一種の熱中症状態なれば、殆どこれは、頭から水を被らずにはおれぬ真夏のサッカー選手の心情か。今回のツアーに於いて、灼熱地獄のステージは幾度かあれど、今宵ばかりは全くそれらとは比較にさえならぬ。終演直後、楽屋に戻りて先ず口にせしはビールや水にあらず、甘いアイスティーであった事が、何よりも全てを物語る。

終演後、私に「Do you remember me?」と話し掛けて来る男性あり、覚えておらぬと答えるや、彼は嘗て我々一同が彼の家に泊まったと話し出すや、思い出した!1999年初めてここPhiladelphiaを訪れた時のプロモーターBurnyであった。彼は仕事が忙しく、それ以降我々が度々Philadeliphiaを訪れど、残念ながら顔を出す事が叶わなかったとかで、我々一同思いがけぬ再会に彼と抱擁を交わす。あの1999年の赤貧ツアーの際、我々のPhiladelphia行きのフライトは悪天候で12時間以上遅れ、空港に迎えに来てくれた彼とそのまま会場へ直行、何とか無事にライヴを行った経緯にて、彼には大層心配を掛けたのであった。終演後、彼の自宅へ投宿した我々は、当時あまりにひもじく、それを知った彼は深夜にも関わらず手料理を振舞ってくれ、我々一同大いに感激したのであった。あれから5年、彼との再会は、当時の苦労を思い出させると共に、されど多くの人々によって助けられ支えられて来た事をも再度思い出させてくれ、何とも懐かしく嬉しい出来事であった。
また、サイケ・ファンジン「Nice Pooper」発行人Andyから、ルチャ・マスクがメンバー全員にプレゼントされた。彼はサイケ・マニアであると同時に、熱烈なプロレス・ファンなれば、いつもCactus JackのTシャツを着てライヴ会場に現れ、いつぞやはMick Foleyの名試合の数々を編集したビデオを頂いたり、また私にCactus JackのWanted Dead Tシャツをくれたのも彼であった。近い将来、謎の覆面サイケバンドが拝めるやもしれぬ。
Cotton & Billの顔も伺えたが、今宵は然して話もせず。Cottonは自前でビールを持参、楽屋の冷蔵庫にて目敏く冷やしており、何とちゃっかりしている事か。昨夜もどうやら自分達のCDRをShopzoneにて販売しようと持参していた様子なれど、普通辞めたメンバーが、以前在籍していたバンドのライヴ会場にて自分の作品を売らんやろ。どうやら経済状態は相当厳しい様子なれど、それも自ら選びし道なれば、しっかり自分達の手で打破して行って頂きたいもの。厳しいようだが、それが我々から彼女へのエール、人生そんなに甘くはないで。

我々はPhiladelphiaを拠点に活動するUSインディー界の重鎮BArdo Pondのメンバーが住む大きな家へ投宿。Fur SaxaのTaraちゃんも一緒に、皆でビールを呷り打ち上げ。流石に今宵のライヴで相当疲労したのか、津山さんは咳込みつつも即寝成仏。はじめちゃんは、暑いとマットレスを窓辺に移動し就寝、しかしGパン履いて寝袋に包まっておれば、そら暑いやろ。東君はJonとビール片手に歓談、どうやらあまりの発汗にて、すっかり風邪が抜けたとか。私はBardo PondのリーダーMichelやFur SaxaのTaraちゃんと話し込み、鉄火丼の御飯の残りにふりかけをまぶして夜食とし、午前5時頃にソファにて就寝。

6月19日(土)

午前8起床、朝飯として、最後の一袋となりしサッポロ一番みそラーメンを、冷蔵庫から玉子を拝借しぶち込み食し、このツアー最後となるであろうシャワーをのんびりと浴びる。トイレに置かれていたヒッピー系雑誌に、AMTがカラー2ページで特集されているのを発見、大いなる勘違いな記事に思わず苦笑。
昼食は、Bardo Pondの美女ボーカリストIsobelちゃんの手料理にて、チーズオムレツサンド+コーヒー、そして仕上げは野菜ジュースV8。こちらの玉子は黄身の色がレモンイエローと薄く、味も日本のものに比べて随分淡白なれば、オムレツにした処で、玉子ならではの味の深みは皆無故、否応無しにケチャップで味を付けねば到底食えぬ代物。
なにげに置かれているタンブーラとサズを発見、東君と2人でジャムっておれば、そこへ津山さんが尺八を奏でつつ登場し、エスニックならぬエセニック・セッションが繰り広げられる。Bardo Pondのメンバー達がギャラリーとなれば、徐ろに津山さんが電気ドリル片手に「ジャミラ・ドリル・ダンス」を踊り狂い、一同大爆笑。この模様は、Bardo PondのギタリストJohnの手によりビデオに収められた故、機会があれば是非とも発表したい処。Johnが撮影した「Psychedelic Football Country」と呼ばれるMichael Henryなる初老のカントリー・シンガーのライヴビデオを観賞。斯様に素晴らしいミュージシャンが、多分アメリカにはゴロゴロ潜んでいるのだなあと思えば、きっとそこいらのパブなんぞでも、実はとんでもなく素晴らしい無名ミュージシャンが演奏しているかもしれぬ、嗚呼、これがアメリカの懐の深さであろうか。
Johnが撮影した昨夜のライヴビデオを観せてもらえば、なかなか秀逸の出来にして、ダビングして送ってくれるとか。いずれ今までの映像資料を纏めてDVDでリリースしたいとの思惑はあれど、編集する時間は当分なければ、果たして誰か手伝ってくれる奇特な御仁はおらぬものか。
またMichelとJohnのデュオによる録音を聴かせてもらえば、これがなかなか素晴らしく、近い将来AMTからリリースする事になるやもしれぬ。8月のKinskiのツアーの際に、ここに再び投宿する予定なれば、その時には是非何か一緒に録音しようと云う話も出る。このBardo Pondの家は、何故か妙に居心地良く、立派な録音スタジオも完備しておれば、またメンバー皆と気心も知れており、いつもゆっくりしていきたいと思うのであるが、何故か毎度の事、慌ただしく出発せねばならぬ日程となっており、本当に一度ゆっくり滞在してみたいもの。

Bardo Pondのメンバーと別れを惜しみつつ、午後3時、ツアー最終目的地であるBrooklynへ向け出発すれば、ニュージャージーにて大渋滞を食らう。ドライブイン内のバーガーキングにて、このツアー最後となるハンバーガーを購入、V8と共に食せば、これにて次に再びアメリカの土を踏むまでは、絶対にハンバーガーなんぞ食らわぬと決意。

午後5時半、今宵の会場であるSouth Pawに到着。サウンドチェックは、例によって阿呆エンジニア故、ファズを踏まず。「リハで俺にファズを踏ませるなんぞ百年早いわ!」案の定Psychic Paramountのライヴ中、Drewがモニターの音量を上げてくれと合図を出せども気付かず、見兼ねた東君がこの阿呆エンジニアに激怒し、ミキシングブースへ殴り込むや、東洋之vs阿呆エンジニアの抗争が勃発したのであった。
客入りはほぼ満員の300人弱。ツアー最終日の今宵、津山さん曰く「芸人魂を賭けた」パフォーマンス、先日購入せし馬と鳥のパペットによる寸劇「ロミオとジュリエット」遂にここで炸裂、これは大いにウケまくり、会場は大爆笑。最後の「Pink Lady Lemonade」にて、我々が切望してやまなかったGay Professorがゲスト参加。ステージ上は既に何が何だか判らぬ修羅場状態にして、客席も狂乱状態なれば、締め括りは矢張りギター逆さ吊り。そしてアンコール「La Nòvia」にて幕。これにて「1ステージ完全燃焼」を掲げた今回のツアー全25本のライヴ、全て終了。

終演後、楽屋にてPsychic Paramount一同と共に、ツアー打ち上げパーティー。ここでビールの肴にと、津山さんが虎の子の佃煮「やまぶき」を取り出すや、我々日本人は感激にして、Psychic Paramount一同にも大好評なり。そして遂にGay Professorの真骨頂ここに爆裂!

皆が彼のパンツに紙幣を挿むや、その後は狂乱の坩堝と化し、これぞロックンロールど阿呆なるか。津山さん曰く「アメリカはホンマに阿呆ばっかしや。」
持参したechoが結局1カートン程剰った故、このechoこそがマイ・フェイバリット・シガレットと明言するDrewに全てプレゼント。前回フランスにてツアーを共にした際、私のワウペダルが壊れた故、彼のワウペダルを拝借しておれば、別れ際に彼は、自分のワウペダルとechoとをトレードしてくれないかと言い出す程にして、結局現在私が使っているクライベイビーは、彼からecho2カートンで譲り受けたものなり。

狂乱の打ち上げパーティーもお開き、Psychic Paramont一行と再会を誓い合い、午前3時半、我々はJonの最後の運転にてJFK空港へ向かう。空腹なればガソリンスタンドにて、このツアー最後のホットドッグとV8を食す。一体今回のツアーにて、この野菜ジュースV8を何リットル飲んだ事やら。午前4時半のチェックイン・カウンターのオープンを待ち、そして遂にここでJonともお別れ。この1ヶ月間、寝食を共にし、ドライバーのみならず、機材の修理からその他多岐に渡り助けてもらっておれば、彼には大いに感謝して未だ余りある。我々一同が風邪を拗らせる中、彼のみが感染しなかった辺り、彼自身相当の使命感と健康への配慮があったからこそであろう。「Jon、本当にありがとう。」彼は今からDCの自宅まで戻り、このレンタバンを返却する仕事がまだ残っておれば、何をおいても無事に帰り着く事、切に願う次第。

午前5時、無事にチェックインを済ませ、Air Canada午前7時50分発Vancouver行きなれば、未だ搭乗まで時間もある故、搭乗ゲートにて皆でうたた寝。東君は、ツアー後半に購入したレコード約50枚に関し、送料をケチり自ら持って帰る道を選択しておれば、ここに来てそのレコードの重さに泣かされる顛末を迎える。私も嘗て200枚のレコードを手で持って帰り泣かされた経緯あれば、津山さんもまた同様にして、我々から彼へ一言「レコードをなめるなかれ!」
6時間のフライトなれど、機内にてひたすら爆睡していたが故、まるで一瞬で着いたかの如し。午前11時Vancouver空港着。
Vancouver空港のレストランにて、焼そばを食す。喫煙ルームにて、ここより関空行きに搭乗する大阪のオッサンらと遭遇、彼等の話によれば、台風6号の影響にて何でも5時間の遅れとか。我々は午後1時20分発成田行きなれば、定刻通りに成田到着予定。オッサン達曰く「なに今頃台風来とんねん!」「5時間遅れってなあ、飛行機会社の都合もあるやろうけどな、それやったら成田に飛んでくれや!」「ボケがぁ~!」今回のフライトチケットを手配する際、関空からの往復が満席で取れなかった故、成田からの往復と相成った次第であったが、何ともこれが幸いにして、出発する時も台風の影響に左右される事なく、帰国に於いてもまたしても台風の影響を受けずに済んだと云えよう。もしも関空行きに搭乗する事となっておれば、今頃まさにあのオッサン達と全く同じ文句を垂れていた事であろう。
強烈な追い風の御陰で、僅か8時間にて成田空港に到着。御陰で途中機内にて観賞していた映画「Green Card」が、クライマックスを前に時間の都合で上映が打切られ、何とも結末が気になって仕方なし。機内食は照焼きチキン丼なれば、旨くもなく不味くもなし。されど津山さんはシーフードを選んだとかで、その激不味ぶりに大いに憤慨しておられた様子。
今回は税関も難無く通過、名古屋行き国内便のチェックインを済ませ、津山さんは一足先の大阪伊丹行きに搭乗なれば、ここでお別れ故、搭乗ゲート前の売店にて皆で缶ビールにて乾杯、無事にツアーも終えられた事に感謝。

津山さんを見送り、我々3名も午後7時半発の名古屋行きに搭乗し、午後8時40分名古屋空港に到着。空港バスにて名古屋駅名鉄バスターミナルへ向かい、名古屋駅にて解散。私は名鉄とタクシーを乗り継ぎ、JFK空港を出発してから26時間後の午後10時、漸く帰宅。

これにて台風と共に出発し、台風と共に帰って来た「嵐を呼ぶ男達」の旅も幕。明日から猛烈な時差ボケに苛まされる事は間違いなしにして、手土産は風邪なり。そして私は3週間後には、再びヨーロッパ~アメリカと1ヶ月の旅に出なければならぬのであった。

(2004/6/24)

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