『人声天語』 第112回「貧乏なら辛抱」

9月初旬から10月中旬まで7週間に及ぶGongのヨーロッパ・ツアーが、突如キャンセルとなった御陰で、私はこの7週間を日本にて過ごせる事と相成った。春よりツアーに次ぐツアーなれば既に精根枯れ果てておれば、これも神様からの贈り物であろうと、是が非でも有意義に過ごさんと思いこそすれ、結局難航するAMTのヨーロッパ・ツアーのブッキングに翻弄され、溜まりまくっているレコーディングさえも、既にギターを触る気力も喪失気味なれば、テープを回した処で如何ともせぬ状況。相次ぐツアー故に散らかり捲っていた部屋の片付けこそ終わらせども、この無気力状態はまるで季節外れの五月病の如し。今や全てを投げ出し何処へか失踪したい心持ちなれど、久々の超ド級赤貧状態なれば、多忙にて長らく叶わなかったビデオやDVD等の観賞に日がな明け暮れるのみか。

されど一様に貧乏と云った処で、果たして本当に貧乏なのかと云えば、今日食うにも困る程の困窮状態にあらず。所謂「銭形銀太郎」なる貧乏自慢のテレビ番組にて見受けられる似非貧乏と然して変わらぬ、云うなれば「贅沢な貧乏」とでも云った処か。歳を重ね人生経験を積んだ御陰か、食うに困る程の困窮赤貧状態に陥る前に、何かと金を工面する術なんぞも心得たものなれば、借金さえもマイナス貯金なんぞと摺り替えられる程、心の余裕さえあるではないか。20代の赤貧時代を思い返せば、今の状況は到底貧乏とは呼べぬ。

嘗て1ヶ月の食費を僅か3000円にて凌がねばならなかった頃なんぞ、毎食食うなんぞ夢のまた夢なれば、その困窮具合は、思い出した処で今や笑い話にこそなれ、当時は何と饑かった事か。
先ずは備蓄の食糧から手を付けるのは当然にして、それらを食い尽せば、次は小麦粉やパン粉を水と塩で発酵させチャパティ-の如き代物を作り、マヨネーズやケチャップ、醤油や味噌等、調味料を添えて貪り食う。小麦粉等が尽きれば、片栗粉を湯で溶き砂糖を入れて貪る有様なれど、未だこの辺りの状況でさえ、子供の頃のおやつがはったい粉やらそば粉やら片栗粉であったが故か、多少感傷に浸る程の精神的余裕もあれば、末期的貧乏と云うには及ばず。
さていよいよ片栗粉も尽き果てれば、いよいよ調味料をダイレクトに食す過程へと突入する。マヨネーズやケチャップは云うに及ばず、味噌やら粉末出汁やらをチビチビと舐る暮らしぶりは、貧乏である事を自覚させられるには充分な状況にして、幼少の頃、父より「人間は水と塩さえあれば生きられる」と聞き覚えておれども、いよいよ最低限必要な栄養が摂取叶わぬどころか、果てしなき空腹感を増長させこそすれ、充足感に満たされる事なんぞある筈もなし。人生に於いて初めてとも云える空腹感ならぬ飢餓感を感ずれば、ここで漸くこの事態の打破を考慮し始めるに至る。では1ヶ月3000円と云う食費にて、如何にこの飢餓的状況から脱却し得るのか。
スーパーマーケット等を巡りて考慮した結果、その3000円にて極薄10枚切食パン1斤とタバコ1カートン、そして安焼酎1本を購入し、冷凍庫にぶち込まれたその極薄10枚切食パンを3日に一度食し、それ以外の日は、空腹感がいよいよ頂点に達するや、タバコ数本を連続して吸い、何とも気持ち悪くなったあたりで食欲なんぞと云う煩悩を忘却の彼方へ葬り去るか、焼酎1杯を呷って近所を全力疾走し、酔いを無理やり回す事でさっさと寝るか、斯様な術に打って出たのである。
元来大食いコンテストにもノミネートされそうな程の大食漢なれば、この激貧時代は如何に辛かったか。当時住んでいたアパートからコンビニの灯りが拝めたものだが、当時はコンビニが期限切れ弁当を廃棄処分にする事なんぞも知らぬ故、一体幾度真面目にコンビニ弁当強奪を計画した事やら。空腹に耐えられなくなれば、鏡で自分の顔を眺めては「まだ大丈夫や」と言い聞かせれば、そもそも一体何が大丈夫なのかさえ既に意味不明なれども、何故か不思議と鏡の中の自分と対峙すれば、空腹感は自ずと収束したのである。
何かの折、友人が安食堂にて奢ってくれたりなんぞすれど、胃が極端に縮んでいる故、結局は僅かしか食せず、酷い時には胃が食物を受け付けぬ程の状態にして、結局数カ月で体重は46kgまで減少しウエストは60cm弱、体力は減退し衰弱気味なれば、いよいよ日常生活維持にも影響を及ぼす結果となった為、再びこの飢餓的状況から脱却せんと、満を持して就労を決意。そもそもは怠け者故、働くと云う行為を嫌悪する余り、斯様な飢餓的困窮生活に陥ったのであり、結局「食う為には働なねばならぬ」と云う人生に於ける教訓を、我が身を呈して学んだのであったが、その数年後には「彼女に食わせてもらう」と云う究極の術を見つけるや、矢張り元の木阿弥と相成ったのである。

私の人生は、慢性的金欠にして、今や多少の金欠状態では貧乏とも思わぬし、そもそも楽観的且つ刹那的な享楽主義者にして運命論者なればこそ、貧乏に起因する未来への切迫感や不安感も持ち合わせぬ。この飽食の時代に、五体満足でさえあれば餓死する事は先ずあり得ぬ上、社会から脱落した人生経験を持ち合わせる故、何かとその場凌ぎの金策する術も心得たもの。そもそも斯様な人生を送っておれば、到底まともな死に様なんぞ縁もなかろうから、末路も「独居老人孤独死」ならばまだ良い方で「身元不明者路上死」辺りが関の山であろう。生を受けしものは必ず死に行くのであるから、死に様なんぞ如何様でも同じ結果である。死に様やら死んでからの事を憂慮するよりも、如何に面白可笑しく生きるか、生きている限り執着すべき事は、この一点に絞られよう。極度の運命論者故に、迂闊な一切の希望を携えず、全ての事象を肯定的に受け入れるのみであり、如何なる難局さえも、全ては事前にお膳立てされていると信じればこそ、絶望感なんぞ抱く筈もなく、それ故に人生に於いて一度たりとも「落ち込んだ」等と云う経験さえ持たぬ。逆に至福の時であれ、いずれは訪れるであろう至福の終わりを思えばこそ、必要以上に浮き足立つ事もなし、唯その至福の刹那を、それ以上の無闇な期待感を伴わずに、あるがまま受け入れ満喫するのみである。

類は友を呼ぶのであろう、身の回りに裕福な同世代の友人なんぞ見受けられる筈もなく、故に斯様な暮らしぶりが、到って四十路手前の一般的な社会生活レベルであろうと、大きく誤認している事も斯様な暮らしを悠長に送っておられる一因か。そもそも「働く事は罪」的な人生哲学を抱く故、無職である事に幸せこそ感ずれども何の不安さえなし。嘗て東君と再会する度「今、働いてる?」と訊ね合う事が慣例化しておれば、「働いてる」との答に「ええ~っ!働いてるの!?」と、その反応たるや、まるで何やら取り返しのつかぬ大罪を犯したかの如きにして、まるで裏切り者でも見るかの如きなれど、一方「働いてない」との答には、到って当然と云わんばかりの反応にして、何ともお互いに人生の足を引っ張り合ったものである。嘗て代金未納により電話以外の全てを停められた東君は、運良く施工が始められた近所の工事現場の簡易トイレを利用し、我家より「飲料水」「生活用水」なる2つの水筒に水を詰めては帰る暮らしぶりの折も、到ってその状況を苦ともせぬ様子であったが、最終的にはバブル景気真只中の年末に、長期に渡る家賃滞納により、不動産屋に土足で踏み込まれ追い出された経験さえ持つ。されどそれに一向に懲りぬのか、彼の引っ越したるや、ほぼ毎回家賃未納等によって追い出される経緯によるものなのである。一方私も、当然新聞代等なんぞ払った事もなく、毎度ごね捲っては踏み倒し、更には借金から駐車場代に到るまで、人生に於いて踏み倒してきた総額たるや、一体如何程なるや。お互い金に無頓着であるからこそであろう、「貸した金も忘れるが、借りた金も忘れる」のである。
結婚して家庭を築く訳でもなければ、背負うべき社会的責任も最小限にして、まさしく自分の人生は自分だけのものであり、自分の金は自分の為だけに消費されていく。況して金銭感覚が破綻しておればこそ、金があろうがなかろうが享楽的に消費するのみで、刹那主義者なればこそ、計画的に物事を考察するなんぞと云う概念も持ち合わせぬ。「金は遣ってこそなんぼ」この一言が全てを語っているといえようか。

私は運命論者故、大抵の人の人生の善し悪しとは、その天寿が如何な理由であれ全うされる際、全て同じであると信じてやまぬ。金持ちだから幸せで、貧乏だから不幸せだとは一概に思えぬし、そう思いたくもなし。仮にもしもそうであれば、人生なんぞ何とシンプルな物差で推し量れてしまうのか、ならば生きている意味さえ見えて来ぬ。金持ち故の人間不信なんぞも当然あるであろう、「金は俺を裏切らない」とは何ともお粗末極まりなし。裏切り裏切られるからこそ人間生きている意味もあるのであり、裏切られぬ人生なんぞ、絶対負けぬ博打みたいなもので、そこには何の喜びも悲しみもなし。負けの美学が理解出来ぬ輩には、プロレスを観る事をお薦めする。勝負は負けるからこそ面白いのであり、負け方如何こそが、その隠された人物像を如実に物語り、そしてその人生を各々に彩るのである。

「貧乏なら辛抱」とは、大阪のアングラバンド「ヘデイク」の歌詞の一節なれど、そもそも無闇に辛抱する事が何よりも嫌いな私なれば、辛抱するぐらいならば全て気持ち良く散財し、その後の事は「なんとかなるやろ」と、何とも享楽的且つ自堕落な道を選んで来たのである。実際この飽食の時代なればこそ、何とかなってしまうもので、ただひたすら辛抱するなんぞ全くもって不毛である。躾の厳しい母の下、幼少の頃より何事につけても人一倍辛抱させられた故のリバウンドか、「四十過ぎて女遊びを覚える」の習いではないが、歳を重ねてからの物欲は、歯止めが効かぬ自分を顧みれば、矢張り無闇矢鱈の辛抱とは教育的にもよろしくないのであろうか。されどバブル期の子供達は、国民総中流意識なんぞと云う幻想と、その見せかけの豊かさが相まみえ、「欲すれば買い与えられる」と安直に育てられた為に、最近問題となる「キレる」なんぞと云う短絡的意識しか持ち合わせぬらしい故、矢張り辛抱を知る事も必要なのであろう。

白土三平の「カムイ伝」を拝読すれば、当時の百姓や非人の凄惨な生き様を目の当たりにする。嘗て学生運動が盛んであった時代、左派の学生達が、「マルクスの『資本論』は読まずとも、『カムイ伝』は読んだ」と云われる程の、このプロパガンダ漫画とも云える大作は、自分が今この飽食の時代に生まれた事を、大いに感謝させるに充分な程の、危機感や不安感を抱かせて余りある。されど不思議な事に、渦中の登場人物達は、如何な絶望的状況となろうとも、決して闇雲に耐え忍ぶに留まらず、必ずや何らかの光明を見い出し、それに向かって生きる事へ執着するのである。何故に斯様な凄惨な圧政の下でさえ、生きる事へこれ程までに執着し得るのか。今の辛抱は未来への希望に繋がる、斯くも作者は述べているのであろうかと思いがちであるが、されど全21巻を読み終えてみれば、その結末はあまりに悲しく絶望的であろう。
それを思えば、私の貧乏なんぞまさしく「贅沢な貧乏」であり、貧乏と呼ぶ事さえ許されぬのではなかろうか。単なる金欠的状況であるのみにして、今だ五体満足なれば如何様にでもなろう。貧乏と云う名の下、その状況で遊んでいるようなものであり、真に困窮している方々からすれば、烏滸がましい事この上なしと云った処か。何しろホームレスでさえ、事実上違法であれ住居を構え、更にパラボラアンテナを設置して衛星放送を楽しんでいる御時世である。如何に経済状態が悪化し、行政が改悪されようとも、決してクーデターが蜂起されるような事はなかろう。これも天下太平なればこそか。

とは云えども、今月末の支払いはどうしたものか。まあ、なるようにしかならん。月末の支払いを憂慮するよりも、中古レコード屋のバーゲンセールに行く資金の工面こそ、今の私にとっては絶対的命題か。

(2004/9/24)

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