『人声天語』 第113回「映画館 Go! Go!」

いきなり涼しくなり秋さぶるこの頃、斯様に心地よい折なればこそ、一念発起し仕事に精を出さねばならぬのであろうが、いよいよAMTのヨーロッパ・ツアーだと云うにも関わらず、今もってブッキングやら航空チケットの手配やらに変更続出で奮闘中なれば、更に12月のAMT祭に関連する雑務やら、その他相も変わらずレコーディングや来年初頭のライヴ日程の調整等、いやはや専ら疲れ気味なり。しかしツアー前から斯様に疲れていては、さてどうしたものか。何しろ1ヶ月間で少なくとも26発のライヴを予定しており、その移動は殆どが飛行機と列車であれば、自ずから荷物も自力で持って回らねばならぬ。年齢を重ねるに比例して、そのツアー・スケジュールは厳しくなる一方なれば、まさしく「寿命を削って」なる言種も満更大袈裟にあらず。
斯様に切羽詰まって多忙となれば、何故かしら人間たるもの逃避行動に走りたがる様子にして、私も御多分に洩れず、テスト直前の読書癖と同様に、隙あらばビデオ観賞なんぞに勤しむ有様なり。

DVDがビジュアルのフォーマットとして定着した現在、各社が競い合うが如くリリースラッシュを繰り広げる中、限定BOXだの幻の映画初DVD化等の宣伝文句に、私も見事に踊らされ、懐具合も顧みずに散財している有様なれど、このDVDと云うフォーマットがどうにも好きになれぬ。嘗て映画館でついぞ観慣れた、スクリーンへ投影するが故の輪郭の甘さやら画面の滲み具合やらの映画ならではの風情が、デジタル故の妙なクリアさ故か、全く皆無と云える程の高画質なれば、観ていて何とも居心地の悪さを感ずると云うか、映画館で観たその雰囲気を思い出しては、何処か違和感を感じてしまうのである。況してや僅かな盤面の傷にて画面が飛んだりなんぞすれば、まだアナログのビデオの方がよっぽど良かったなんぞと、これまたアナクロな想いに駆られる有様である。

私が学生の折は、未だ家庭用ビデオデッキなんぞ、金持ちならではのステイタスか余程の映像マニアのみが所持する高嶺の花なれば、されど巷には名画座や2番館等と呼ばれる小規模の映画館が多く存在すればこそ、観たい映画をプガジャ等の情報誌にてチェックしては、足繁く通ったものである。ロードショー作品でない限り、何しろ高くても800円も出せば3本立てなんぞで1日映画館にて過ごせた訳で、1本立てなんぞならば天王寺ステーションシネマや自主上映会の如きにて、400円も出せば観られた時代である。またプガジャ等の映画館御招待券の懸賞に応募すれば、第1希望のロードショー館のチケットは当たらねども、第2希望以降の名画座やピンク映画館のチケットは毎月必ず当たったもので、また新聞社主宰の試写会なんぞもほぼ100%の確立で当たる様なれば、それで幾らかは少ない小遣いを節約出来たのである。スクリーンが小さかろうが、オッサン共のタバコの煙で画面が曇ってようが、隣のオッサンの鼾やら菓子袋のガサガサ云う音が煩かろうが、それら全部を引っ括めて映画館の雰囲気と捉えており、何より兎に角観たかった映画の上映に漸く巡り合えた事の悦びの方が大きかったと記憶する。次に観られるのは一体いつの機会になるか想像だに出来ぬ故、その集中力たるや今から思い返せば恐るべきもので、1シーンたりとも観逃すまいと、必死で画面に食い入って観ていたが故か、この当時観た映画は、今だ鮮明な記憶として脳裏に焼き付いている。またデートなんぞで当時の彼女と観た映画なんぞであれば、その映画には格別な思い入れも湧いたりさえする。自分の好きな映画が何処ぞで上映していると知れば、同じ映画に飽きもせず何度となく通ってみたり、3本立て上映に於いては、朝一番から最終上映まで居座り、結局映画館にて丸一日過ごす事も珍しくはなかった。小遣い節約の為に、握り飯と水筒を持参しては、その浮いた金でまた違う映画を観たりもしたものである。

映画館で観る場合、上映されている映画のみならず、その映画館各々の持つ特有の空気感も楽しめる。特にロードショー落ちの作品と懐かしのヤクザ映画やら戦記映画やらに加え、何故かピンク映画まで抱き合わせで併映するド汚い3番館等に出向けば、そこは小洒落たロードショー館とはおよそ懸け離れた澱み具合にして、トイレは臭いはタバコの煙でスクリーンは曇っているは、勿論女性客なんぞ1人もいる筈もなく、況して上映作品から考慮しても…特に時折スクリーンに向かって大声で野次等を投げ掛けるオッサンなんぞも見受けられれば、一体このオッサンらは何を観に来ているのやらなんぞと思い巡らせ、また時折ホモのオッサンに絡まれてはトイレでシバきまくってみたり、かと思えば日雇い労働者風のオッサンに「兄ちゃん、これ食えや」とワンカップと寿司折を分けて貰ったりと、多分その映画館の常連であろう斯様な人達の醸し出す雰囲気さえも楽しかったものである。
高校生の時、当時付き合っていた彼女が「ポルノ映画が観てみたい」とせがむ故、よりによって鶴橋のド汚いピンク系2番館へ出向けば、そのあんまりな館内の空気に恐れをなし、その結果かどうかは知る由もないが、その後、彼女は所謂新興宗教に自ら入信し「あなたもこれからは悔い改める人生を送って下さい」と云う謎の手紙を残し去って行ったのである。
初めて成人映画館を訪れたのは、高校2年の春であったか。バイト先の友人達と連れ立って、さていざチケットを求める際に、未だ18歳未満なれば学生証を提示出来ぬ故、「大人1枚」とチケットカウンターのオバハンに云ってみれば「あんたら学生さんやろ」と、見事こちらのセコい魂胆を見抜かれた上に、学生料金で入れて頂き大層感激した事も、今となっては良き思い出であろうか。初めて体験するピンク映画とは、館内に大音響で響き渡る喘ぎ声や、画面いっぱいに揺れるオッパイに圧倒され、まるで江戸川乱歩のパノラマ島へでも訪れたかの如きその現実離れした空気感に、我々一同大いに興奮しはしゃいでおれども、ふと薄暗い館内を見渡せば閑散とした客席、されど誰もが至って普通に映画観賞しているように見受けられる中、 矢鱈はしゃいでいる自分達がふと恥ずかしくなり、興奮し昂る気持ちをグッと押し殺したものであった。その帰り道、皆で鈍痛のする下腹部を抱え苦悶しつつも、観終えたばかりのピンク映画について熱く語り合ったものであったが、特に着衣を脱ぐ若しくは脱がされる下りの、その呆気ない程のあまりの手際良い演出に、我々田舎の色ガキは、ただただ感心したものであった。
斯様な体験も、現在の若い世代にとっては、自宅でこっそり隠れてのAV観賞ではあり得る筈もなく、況してやあの大音響で聞く喘ぎ声の迫力なんぞ、勿論知る由もないやもしれぬ。他人のセックスを覗き観しているが如き、若しくはバーチャルな疑似体験的でしかないAVと異なり、大画面と大音響、そして見ず知らずのオッサン連中と席を共にする成人映画館の醍醐味、これこそ幻想としてのエロの極北ではなかろうか。

名古屋へ引っ越してきた際、真っ先にチェックしたのが、映画館とライヴハウスと中古レコード屋であった事は云うまでもないが、折しも家庭用ビデオデッキの普及と、それに伴うレンタルビデオ屋の出現により、面白そうな名画座やら2番館は軒並み閉館の憂き目に晒されて行く。名古屋にはシネマテイクとシネマスコーレと云う自主上映系のミニシアターが2軒あるのだが、名画座や2番館と異なり料金設定が高い上に、客筋が矢鱈と映画通っぽい人種やサブカル系の若者で犇めき合っており、私のようなタイプは自ずから足が遠退いてしまう。特にシネマテイクは、スタッフも如何にも映画マニアっぽい上、客に対し何かと高飛車な態度が、増々気に食わぬのであった。館内飲食厳禁なんぞと云うのも、映画と併せたその場の雰囲気をも楽しみたい私なんぞからすれば言語道断なれど、何しろ投影するスクリーンが単なる壁面なのだが、この壁面が曲者にして小さな丸い穴があいている素材にて出来ておれば、明るいシーン等の際、どうしてもこの丸い穴が画面中に見立つ故、何とも興醒めしてしまうのである。かなり高い料金設定の割に、幾ら何でもこのお粗末なスクリーンはないであろう。映画とはそもそも娯楽なれば、斯様に楽しめぬ雰囲気では、いくら観たい映画を上映していようとも、到底足を運ぶ気にはならぬのである。勿論映画マニアの為のミニシアターなのであろうから、私のような邪道な映画好きは、元よりあちらから願い下げであろうが、それにしても日本のプロレス共々、マニアしか対象にせぬ興業とは、何とも自己満足的な閉塞性と、胡散臭い蘊蓄至上主義的な排他性を伴う故、どうにも本来の本質から大きく逸脱しているように思え、外野から見れば面白くも何とないのである。

映画は所詮映画であって、映画館で観賞する事こそが本来の正しい姿として然るべきで、DVD等にて各家庭で観賞すると云う行為は、いわば副産物的なものであろう。矢張り「映画は映画館で観るもの」であり、その映画の持つ本来のポテンシャルも、映画館で上映されて初めて発揮されようと云うもので、されど残念ながら映画館で観る機会が激減したが故に、DVDやビデオで観賞せざるを得ぬのである。しかし最近の風潮から考慮すれば、一部のロードショー作品を除けば、観る側も端からDVD等で観賞する事を念頭に置いており、これでは本末転倒も甚だしく、映画館事情が良くなろう筈もなし。強者はより強大に、弱者は淘汰されると云う現在の社会情勢同様、映画館についても、しょうむない画一的なロードショー館のみがそこら中にのさばり、各々の色合いを携えていた名画座や2番館は、家庭用ビデオやDVDの煽りを食らい姿を消して行くしかあるまい。先ずは「映画は映画館で観るもの」と云う意識の回復が必要なのであろうが、DVD等のソフトが充実し、ハードウエアがこれ程発達普及し、挙げ句「ホームシアター」なる観賞スタイルまで定着しつつある今、それは到底容易な事ではなかろう。

嘗て名古屋の「聖家族」と云うライヴハウス兼エスニック・レストランで働いていた折、「聖家族秘宝座」と題したビデオプロジェクターによる上映会を行っていた。これは名画座等の激減により、観たい映画を観る事既に侭ならず、ビデオソフトも既に廃版なれば、たとえビデオソフトに於いてでさえも観る事叶わぬ作品、特に永らく埋もれてしまっている邦画の名作怪作の類いを、私のビデオ・コレクションから勝手に上映する事で、恐れ多くも映画界に蟷螂の斧ではあれども一石を投じようと云う主旨にて、私が発案企画したものであった。土曜日の深夜11時からのオールナイト上映でチャージ無料、ただひたすら真っ暗な店内にて、桟敷席等もあったが故に寝転んだりしては、酒なんぞを呷りつつ映画をのんびり観る企画であった。上映作品の案内は、一応作品についての簡単なコメントを、毎月のスケジュールが書かれた店のチラシに寄せるのみであったが、蓋を開けてみれば毎回かなりの盛況ぶりにして、意外にも斯様な映画を観たいと探し求めていた人が多かったと云う事実に、企画した私の方が驚かされた程であった。折しも次第にサブカル系雑誌やらで、斯様なアングラ邦画が取沙汰されるようになり、その後ビデオソフトも復刻された事は、私の企画と全く関連はなかったであろうが、矢張り何らかの需要は常にあると云う事なのであろう。

フランスに滞在していた際、時折深夜のレイトショーに誘われ出掛けたものであった。フランス人は本当に映画が好きな様子にて、そもそも自宅でテレビがついているなんぞと云う光景は、先ずお目に掛かる事なし。テレビが四六時中ついている状態を、彼等は「アメリカン・スタイル」と馬鹿にしているが、テレビっ子であった私なんぞも、独りで飯を食らう時なんぞ、矢張り観たくもない番組であれテレビをつけてしまう。テレビと云うものに生活スタイルの変化をもたらされなかった彼等は、当然気楽に映画館へ映画を観に行く習慣がある様子。田舎町であれ、何らかのマイナー映画を上映する映画館は存在しており、逆に娯楽と云えば映画程度しかないのか、兎も角深夜ですら老若男女で賑わっている。そして話好きのフランス人なればこそ、観終わった後は、近所のバーにてビール片手に映画談義に花が咲くと云う流れである。
最近若い女性達の間で「立ち飲み屋」が流行っているそうだが、それはヨーロッパのスポーツ・バー(スポーツ中継を行うバー)にての、皆が立ってグラスを傾ける姿に憧れての事だそうな。なんちゅう阿呆な理由やねん。どうせならヨーロッパ・スタイル宜しく、そこで出会った人達とのお喋りを酒の肴になんぞと云うならば、まだ理解も出来ようものだが、何せ日本人は見知らぬ他人に対して警戒心こそあれ、開放的にはなれぬであろうし、別段ナンパ目的ででもなければ、老若男女問わずバーで初めて知り合う人達が話に花を咲かせる事なんぞ、ホスト役となる話好きなマスターでも居らぬ限りまずあり得ぬであろう。
その点、フランスのバーでは、映画観賞後にバーへ集えば、初対面同士ですら、今観た映画の話を肴にグラスを交わすのである。彼等にとって映画館にて映画を観る愉しみとは、単に映画を観ると云う行為に終始せず、更にはその後のバーでの映画談義やら人との出会いまでも含んでいるのであろう。

昨秋のイギリス・ソロツアーは、単なるギターソロ演奏ではなく、鈴木清順監督作品「ツィゴイネルワイゼン」のサントラを即興で付けると云う企画であった。そもそも作品を選んだのは私であったが、主催者側で英語字幕の入ったマスターを見つけられず、結局日本語発声字幕なしの形で上映したのである。オルガナイザーのMarekが映像作家でもあり、またこの類いのライヴ・サウンドトラックと呼ばれるコンサートの企画を多く行っておれば、彼自身がオリジナル作品から音楽のパートだけを抜き去る事で、台詞と効果音のみを残した映像に併せ、演奏者はモニター画面を観つつライヴ演奏するのである。この類いの企画コンサートは、最近ヨーロッパでは盛んに行われており、かなりの人気を博している様子。映画好きも音楽好きも来場するのであるから、当然と云えば当然か。
さて私が行った「ツィゴイネルワイゼン」のライヴ・サウンドトラックであるが、この作品自体がかなり難解である上に、日本人的哲学や思想体系を色濃く反映している事もあり、字幕があろうが無かろうが、イギリス人にとって難解である事に変わりはなく、一方で鈴木清順監督の映像美を最も堪能出来る作品のひとつであろうから、結果的に字幕がない事には何の問題も生じなかった模様。上映後、観客各位が各々にストーリーを勝手に解釈しており、概ね人物設定からして間違えていたりなんぞもするのであるが、大いに満喫して頂けた様子にして、それはそれでまた良かろう。音楽は言葉を越えて共有出来るものの代名詞のように語られるが、映画もまた然りであろう。勿論言葉が解らなければ楽しめぬ側面もあるにはあるが、無くてもまた違う楽しみ方があろうと云うもの。
せめて日本でも斯様な企画が罷り通れば、少しでも多くの人に、映画館で映画を観る醍醐味を味わって頂けるのではなかろうか。

されど斯く云う私も、自宅に膨大なビデオ・ライブラリーを抱え、今またDVDを買い漁っているのが現実である。嘗て映画は自宅に所有するものではないと信じていたが、これ程映画館にて自分の観たい映画が観れぬ状況となり、また料金設定も高いと感ずれば、これもやむを得ぬ顛末か。観たい映画を観たい時に観られると云う点に関しては、自宅にてのビデオやDVD観賞は、何と幸せな状況であろうか。されど矢張り映画は映画館で観たいと云う想いに変わりはなし。上映前のロビーにて、スチール写真なんぞ眺めては、また席に着いた処でパンフを眺めては、いよいよ期待を膨らませていたあの胸の高まりを、もう一度感じてみたいもの。いくら自宅のステレオ等で音声を再生した処で、あの映画館特有のエコーはどうしても得られぬし、況してや我家のテレビ画面では、たとえ部屋を真っ暗にした処で、あの映画館特有の映像を再現出来る筈もなし。
今一番欲しいものと云えば、自分の好きな映画を上映出来る映画館か。もしもプロ野球球団を買う程金があるならば、是非とも小さな名画座でも買ってみたいもの。出来ればワンカップ片手のオッサンから女子高校生までが気楽に来られる、斯様な映画館となれば嬉しい事この上なし。ならばその隣には、観賞後に映画談義に花を咲かせる「立ち飲み屋」も構えるか。

それではまたお目に掛かりましょう。さよなら、さよなら、さよなら…。

(2004/10/20)

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