『人声天語』 第143回「煙草吸うのが何で悪いとや!」

2001年頃より本格的に軌道に乗りしAMTの活動は、年を重ねる毎に私を忙殺せんとするかの如きとなり、されどこれも二十代に於ける自堕落な暮らしぶりのツケかと、何より所謂社会的落伍者ながらも、何とか飯を食らうには然して困らぬ程度の稼業と化せしを感謝すればこそ、例え魂を削り寿命を縮める結果とならんとも全うせんと思えば、ここまで一心不乱に邁進精進して来れれど、何と年末より燃え尽き症候群の類いに陥りし始末。Acid Mothers Temple & The Melting Paraiso U.F.O.の新譜数枚を毎春の北米ツアーに合わせリリースする計画なれば、〆切は1月末日故に、毎年1月は昼夜問わずの録音作業に明け暮れるが常なり。されど今年は、昨秋に新譜3枚をリリースせし経緯もあり、また北米ツアーに向けての新譜1枚も既に昨年のうちに完成させ入稿済みなれば、1月恒例の録音による忙殺もなく、なればこそ燃え尽き症候群の類いなんぞに陥ると云う屁垂れぶりを露呈せしものか。日がな炬燵にて独り鍋を突つきつつ、多忙さのあまり長らく観る事叶わざりしビデオやDVDの観賞に明け暮れる始末。御陰で1ヶ月間に観賞せし映画は150本を数える有様、その間数本のライヴにて楽器を手にせし以外、全く音楽に関わらず終い、演奏どころかレコードさえも聴く気あらざりて、これも今や稼業となりし音楽から逃避せんとの想いからか。さてその結末はと云えば、この惰眠を貪るかの如き自堕落極まりなき暮らしぶりに対し,ここ数年のワーカホリックたる側面が、仕事をせぬ不安感やら焦燥感から動悸や情緒不安定を引き起こす迄に至り、結局は「忙殺されてるぐらいの方が性に合うてる」との何ともお粗末なオチに至れり。御陰で1月末のAMT SWR国内ツアーは良きリハビリともなり、2月上旬のAcid Mothers Guru Guru豪州ツアーこそ体調不良にてキャンセルすれど、来たる北米ツアーに向け新たに新譜2枚のリリース依頼も来れば、〆切は2月下旬との事、結局は例年より1ヶ月以上の遅れにて録音作業に突入、ならばAcid Mothers Temple & The Cosmic Infernoの録音も行わんと、慣れ親しみし忙殺生活に自ら再び舞い戻りし顛末なり。燃え尽きしと思えど燃え尽きておらねば、私の芯はなかなかのしぶとさか。否、これ程の事で燃え尽きしなんぞと妄言吐けば、元祖燃え尽き男たる矢吹丈を筆頭に、世の奮闘する諸氏より「お前、何甘えとんじゃ!」と叱責されるは必定か。70年代の人気漫画家の超ド級忙殺ぶりに比べれば、私の忙しさなんぞ時間の上に胡座をかき転寝に呆けるが如しか。

さて仕事に当たり、欠かせぬものは煙草なり。世に云う悪癖かもしれねども、録音作業をするにせよ、パソコンにて雑務をこなすにせよ、煙草は不可欠なる代物なり。禁煙を遂げし諸兄に云わせれば「百害あって一利なし、精神力が弱いから辞められないのだ!」されど私は禁煙なんぞ毛頭程にも思う事さえなく、そもそも禁煙に踏み切る輩こそ、自分の健康状態が何処かしら芳しからぬ様相故の不安感から「取り敢えず禁煙」なんぞに踏み切らんとするものに相違なし。全く以て頗る健康なれば、禁煙なんぞが脳裏を過る筈もなく、何処かしら健康に不安を感ずるそれこそ自分の健康管理さえロクに出来ぬ輩こそ「取り敢えず禁煙」なんぞを試みんとするものなり。

されど世相は今やすっかり「煙草=社会悪」に席巻され、嫌煙大国アメリカのカリフォルニア州より始まりし「公共の場所に於ける屋内全面禁煙」の法令化は、欧州にも大いに波及し、今や屋内喫煙可なる旧西欧諸国はスペイン、ポルトガル、ドイツ、オーストリア程度か、スイスもフランス語圏側に於いて屋内全面禁煙の条例を可決すれど、法手続きの不手際とかで再度結審せねばならぬと聞き知りし。また嘗て禁煙に失敗せし経緯を持つオバマ大統領さえ、クリントン政権時に規則化されしホワイトハウス内全面禁煙に対し禁煙を宣言せしとか、これも喫煙を社会悪と認識する嫌煙大国アメリカの大統領に就任すればこそか。大英帝国に於いては、商用車や公用車も公共の場所に於ける屋内との判断から、斯様な車内に於いても禁煙規制せんとするとか。ならば外回りの営業の社員やら運送業を担うトラック運転手に至るまで、運転中はおろか休憩中も車内にて喫煙不可となり、これこそ運転中のストレス蓄積による事故多発にも繋がらんと危惧するは私だけか。 
されどそもそも喫煙マナーの悪さでは世界一なるフランスに於いて、果たしてToulouseにあるワインバー「Cafe Volcano」は、酔いどれ男性店主と女性給仕2人により営まれる狭き店なれど、何と屋内全面禁煙の法令に真っ向から異を唱え「店内喫煙可」を売りにすればこそ、その狭き店内は連日連夜ラッシュアワーの通勤列車の車内の如く大繁盛する有様。何でも店内全面禁煙に対する罰金を連日支払えど、充分過ぎる程に儲けておれば、成る程如何にもフランス人然とせし商売方法なり。しかもこの「Cafe Volcano」は、市内中心地の繁華街の始終警官がパトロールに訪れる地区に堂々と店を構えておれば、この男性店主の肝の座り様、これまた革命を愛する個人主義者フランス人らしからん。因みにイタリアの屋内全面禁煙法令に於ける罰金は、喫煙を承認せし店主のみならず、喫煙せし客との双方に同額科されるとかで、斯様な商売は成り立たぬとか。

挙げ句、遂に日本に於いても神奈川県が「公共の場所に於ける屋内全面禁煙」の条例化を目論まんとする処。そもそも日本は世界に於いても稀なる「路上禁煙」を条例化せし国にして、加えて屋内全面禁煙まで条例化されれば、一体何処で喫煙せえっちゅうねん!
海外に赴く事大いに多ければ、欧米に於ける禁煙事情はその経緯より充分承知するものなり。先ず路上禁煙を掲げる欧米諸国は皆無にして、何でも現在カリフォルニア州が路上禁煙の条例化を検討中とは伺えど、そもそも彼等の云う処の「公共の場に於ける屋内全面禁煙」とは即ち「喫煙は屋外(道路)にて」との主旨なり。故に欧米の諸氏に「日本の都市部は屋内こそ喫煙可だが路上は禁煙だ」と説明するや、必ず「何故だ?だって外には幾らでも空気があるだろう!」日本の歩行者事情に起因する歩き煙草の問題を説明すれば「ハハハハ!日本は狭いのに人で溢れてるからだ!」と、欧米諸国に於いては危惧される筈なき問題に失笑するのみ。
故にこの屋内全面禁煙を最初に条例化せしカリフォルニア州のバーには、大抵「喫煙スペース」が設置されるものなり。そもそも飲酒による発砲事件等の凶悪犯罪多発に因り、道路を始め公共の場所としての屋外にて飲酒を禁ずるアメリカに於いて、バー内が全面禁煙とあらば、酒を飲みつつ喫煙する事は不可能にして、喫煙せんと思う愛煙家は、自身のグラスやボトルを出入口付近のテーブルやらに置き、いちいち店外にて喫煙せねばならず、これを解消せんと設営されしが、バーの敷地内にありながらも屋根がない「喫煙スペース」なり。これならば屋外飲酒禁止と屋内禁煙の双方に触れぬ空間故、流石に冬場は暖房器具が設置されこそすれ些か寒けれど、愛煙家が心行くまで酒も煙草も楽しむ為の配慮なり。
カリフォルニア州に次いで「公共の場所に於ける屋内全面禁煙」を条例化せしニューヨーク州は、残念ながら大抵の店の敷地がカリフォルニア州程広くもなければ、斯様な喫煙スペースが設置されておらず、自ずから愛煙家は一旦店外へ出て路上にて喫煙する事となりし。このスタイルは,その後屋内全面禁煙が波及せし欧州諸国のバーも踏襲しており、されどオープンカフェ形式の多い欧州なればこそ、オープンカフェ部分に限り喫煙可なり。(イタリアに於いては、店先の路上にビニルハウスの如きを設営し喫煙席を設けるバーも有り。)されどそもそもオープンカフェとは所謂カフェやバーによる路上占拠と思われれば、結局は路上喫煙に他ならぬか。 
我々がライヴを行う欧米のクラブ(日本で云う所謂ライヴハウス)も勿論例外にあらず、禁煙諸国に於いては屋内全面禁煙なれば当然クラブ内も全面禁煙なり。経営者や従業員次第では、営業時間外(開場前と閉店後)は喫煙可な場所もあり,また楽屋に関しては喫煙可と云う場所も多く,仮に楽屋に禁煙のステッカーが貼られておれど、地元ミュージシャンや地元オルガナイザーは「気にしなくていい」と喫煙しておれば、殆どの場合客の目につかぬ楽屋に関しては黙認と云えようか。
主にアメリカ等のこれらクラブに限らずバー等の酒類を客に出す場所に於いては、必ず入口に屈強なセキュリティーが数人雇われており、訪れる客のIDにて年齢をチェックし、法律により飲酒が認められる21歳以上と確認が取れれば入店を許可する事が常なればこそ、ライヴの客は、手の甲に押されしスタンプの類いをセキュリティーに提示する事にて、何度でも出入りが自由故、路上にて喫煙も可能なり。されど日本のライヴハウスの殆どは、その入店システムの相違もあり、また「ライブハウスとは、第一にライブを観る為のコンサートホール的場所にして酒場にあらず」との認識による店や客が多ければ,再入場不可を謳う店が殆どと思われ,これで店内全面禁煙ともなれば、愛煙家は何ともやり切れぬものなり。されど嫌煙家の諸氏は「たかがライヴの間の数時間ぐらい我慢しろ!ホールコンサートなら禁煙は当たり前だろ!」なんぞと、如何にも我こそが正義とばかりに正論の如きを振翳さん。確かに数時間の禁煙なんぞ実際充分我慢に耐え得る範疇ならん。されどホールコンサートに於いては飲食も禁止されておれば、酒に因る喫煙誘発もなく、また演奏中に於いてもロビー等にての喫煙は可にして、酒を飲みながらライヴを観賞するライヴハウスの類いとは一線を画するものなり。斯く云えば禁煙を訴える諸氏から「じゃあ映画館はどうなんだ?全面禁煙だが飲食可だぞ!ドーム球場での野球観戦はどうなんだ?吉本のなんばGKだって全面禁煙だぞ!」なんぞと反論されるがオチか。されど都市部の路上禁煙地区なれば、欧米の如く路上にての喫煙も許されず、屋内全面禁煙によるロビー等にての喫煙も許されねば、これを不条理なる迫害と云わずして何と云うか。 
ライヴハウスを例に取れば、そもそも欧米のクラブとは、ライヴハウスとしての一面もありながら、大抵ライヴスペースとは別に、同じ店内にバーのみのスペースがあり(大抵はライヴスペースにもバーが設置されている)こちらはバーとして昼間から営業されるものなり。故に必ずしもバーの客が全てライヴの客となる訳でもなく、所謂一般客,即ち「飲みに来ただけ」の客も大勢おり、斯様な彼等の中には「今夜は面白そうなライヴがやってるな」的な感覚にて、出演者に対し全く予備知識なんぞなくとも、ライヴのチャージを払いライヴスペースへ移動する輩も少なくなからん。然ればバーにライヴスペースが付随すると認識すべきが正しきか。故に日本の「始めにライヴハウスありき」的発想にあらねば、ライヴに於ける酒の売り上げこそが重要な店の収益にして、大抵の日本のライヴハウスにて見受けられる「1ドリンク付き」による紙コップ1杯のビールを後生大事にチビチビやる光景なんぞある筈もなし。その代わりにライヴ入場のチャージは日本のそれから比べれば随分安価にして、無名のローカルバンドなら300~500円程度、我々の如き海外のツアーバンドであれ精々800~2000円程度なればこそ、ビールの2~3杯も気楽に飲めようと云うものか。「じゃあ日本のライヴハウスの方が『1ドリンク付き』のビール一杯で済むのだから、全面禁煙にしても喫煙が誘発されないんじゃないのか?」と、揚げ足を取られようものなれど、愛煙家にとってはたとえ一口のビールでさえ喫煙を誘発するものにして、それは決してビールの量如何に関わる問題にあらじ。「じゃあビールを飲まなけりゃいいだろ!」アホか!わざわざ身銭を切り、好きな音楽を愉しまんとするに当たり、飲食禁止のホールコンサートならいざ知らず、曲がりなりにも酒類を販売するライヴハウスにて、況してやバーコーナーまで設置される店に於いて、何でビールさえ飲んだらあかんねん!そもそも日本のライヴハウスに於いても、バーコーナーを設置する店を見受けられれば、本来欧米のクラブの如く、グラスやボトル片手に音楽を愉しめばよいと思えど,大抵は終演後に蜘蛛の子を散らすが如くと云うよりは、終業のベルを合図に我れ先へと帰路を急ぐ予備校生の如く、一瞬にして会場は空となり、またライヴハウス側も終演=閉店を匂わせる店多ければ,ライヴの余韻に浸りつつグラスを傾ける風情さえなし。話が幾分逸脱すれど、路上禁煙対象エリアたる日本の都心部に於けるライヴハウスにて、店内全面禁煙ともなれば、喫煙場所は皆無にして、また仮に路上禁煙地区にあらざれども、出入り自由にあらざれば、欧米の如く気楽に路上にて喫煙叶うものにあらず。

また欧米の所謂「バー文化」「パブ文化」とは、日本の「晩酌文化」「居酒屋文化」とは大いに異なり、「飲みに行く」とバーやパブに赴けば、ひたすら酒を呷るのみ、酒の肴は「お喋り」やら「テレビでのスポーツ観戦」にして、日本の居酒屋の如く「飲んで食って」たる文化にあらず。そもそも欧米にて「飲みに行く」場合,先ず何処かで腹拵えを済ませし後に臨むが常なれば、それも当然の理なり。されど日本の「飲みに行く」とは所謂「晩酌」にして居酒屋等へ出向き、酒を呷りつつ美味いアテに舌鼓を打たんとの目論みなれば、欧米との相違は明白なり。もし居酒屋を全面禁煙なんぞしようものなら、酒を飲みアテを摘みつつも、始終店外へ出ては喫煙せねばならず、ゆっくり酒や料理を味わうゆとりもなからん。 
況してや特に大阪人に至っては、店外にての喫煙に託つけての食い逃げ多発は想像に易からん。間違いなく食い逃げするやろ。花博に於ける群集心理集団窃盗事件とも云える大阪のおばはん達に因る花の根刮ぎ持ち帰りの一件もあれば、大阪城公園に於ける青森の林檎集団持ち帰り事件(青森の或る林檎生産者の青年が、青森から軽トラに林檎を積み込み大阪城公園にて産地直販を試みし際、電話を掛けに軽トラから離れし一瞬の隙に、大阪のおばはん達に根刮ぎ林檎を持ち帰られし事件。これは試食用の林檎の横に置かれし「ご自由にどうぞ」とのポップを、おばはん達が軽トラに積まれし林檎全てについて「ご自由にどうぞ」と都合良く解釈せし顛末なり。)もあればこそ「みんな食い逃げしてんのか!ほなら私も…!」と、群集心理による集団食い逃げ騒動も起こり得るやもしれぬ。
兎に角欧米の如く、レストランにて食事が運ばれて来る迄、若しくは食事を済ませ食後のコーヒーを待つ間、愛煙家は店外にて喫煙するが常なれば、店員の方も然して食い逃げを杞憂する様子もなく、今や屋外喫煙が常識なればこそ何とも普通の風景なれど、果たして日本に於いて斯くなるは常と成り得るや。そもそも食後のデザートなんぞ日常的な食習慣にあらねば、また欧米人の如く悠長に食事に時間を要する事もなく、うどん屋ならば店内滞在時間なんぞ10分もあれば充分、仮に高級レストランにてコース料理を食すにせよ、レストラン側は常に客の食事の進行具合に目を光らせ、料理と料理の間に無為なる時間を空けぬよう努めるが常識なれば、欧米のレストランに於ける「いつになったら料理出てくんねん!」と、堪り兼ね憤らされる程に悠長なる接客ぶりとは対照的、なればこそ食後に「ちょっと表で煙草吸うてきます」と云う一言なんぞ、果たして信用され得るや如何に。鞄なんぞを席に残しての行為なれば、些かも信用されようが、そもそも鞄も持たぬカップルなんぞが、外は寒いからと上着まで羽織り「ちょっと外で一服です」なんぞ、到底信じて貰えぬ話に相違なし。「ではその前にお会計を」とは、高級を謳うレストランこそ口に出し辛からん。「なんじゃ!ワシらが食い逃げするとでも思てんのか?」と逆に詰め寄られれば、当事者たる客のみならず他の客に対しても、格調ある店の雰囲気やら信用やら台無しにならん。況してや食後のコーヒーを前に「ちょっと外で一服です」と席を立てば,店側もまさか食い逃げするとは思うまい、仮に些かながら杞憂せし処で、未だコーヒーが残されておれば、勘定を催促する訳にもいかぬ。斯くなる浅知恵程度なれば、誰しもが思い付く処にして、別に大阪人を悪く云う心積もりはなけれども、誰かから美味しい話を伺えば即「ほなら私も…でないと損やがな」的な気質があればこそ、店内完全禁煙による食い逃げの横行が杞憂されるものなり。
大衆食堂等ならば食券やらにて前払いも可能なれど、居酒屋の食券機導入とは何とも風情なきものかな。特に大衆酒場の如きにては、店主とのやり取りやら隣に座り合わせし御仁との世間話なんぞも醍醐味なれば、食券機による店主との会話喪失は、嫌煙家の訴える受動喫煙の害以上に、人間的問題なり。そもそもインターネットや携帯電話の普及により、人間として「マトモな」会話が出来る輩や場所や場面が減少する中、これ以上に「マトモな」他人との会話をする機会を喪失し続ければ、これこそ亡国の危機ともならん。受動喫煙の害を訴えるならば、インターネットや携帯電話による弊害も訴えられて然るべきなり。大体目の前に座ってるのに、何こっそり携帯メールをチェックしとんねん!目の前の相手がトイレに立つ度に携帯メールをチェックせなあかん程、お前らは常に誰かと繋がってなあかんのか?それともそんなに仕事が忙しいんか?いよいよ終末的なるは、喫茶店等にてお互い向かい合いて座すれども、然して会話する訳でもなく、双方共に携帯電話を取り出しその画面を眺めつつメールの受送信を繰り返す様か。ついつい携帯電話への苦言なんぞに摺り代われども、愛煙家たる私でさえ、原則として店内禁煙を謳う回転寿司屋に於いては、寿司を食らう事のみに専念するが故、喫煙を誘発するビールさえ手を出さねど、喫煙可なる一般の寿司屋へと赴けば、寿司や刺身を摘みつつビールや焼酎も呷り,同席の友人知人は勿論の事、寿司屋の大将や居合わせし他の客と世間話なんぞしつつ煙草を燻らす事こそ、日本特有の「晩酌文化」に於ける趣深き大切な部分と知れば、「公共の場所に於ける屋内全面禁煙」なんぞと云う愚考暴挙は、晩酌が何かも理解出来ぬ欧米人からの受け売りに他ならず、断じて認める訳にはいかぬと知れ。

況してや「公共の場所に於ける屋内全面禁煙」と定義されれば、私が居住するは浄土宗の山寺にして、当然寺とは公共の場所との定義内なれば、自宅に於いても喫煙不可とならん。私が不動産書類上借り受ける2部屋は、私個人のプライベート空間と認められれば喫煙し得れど、年に数度お茶出しや炊き出しに使用される台所や、現在リビングに使用させて頂く一部屋も、そもそもは年に数度の行事の際、坊さんが着替に使用する部屋なれば、共に禁煙対象地域となるは必至、自宅に於いても迂闊に喫煙出来ぬと云う有様とならん。
勿論住居一体型個人商店も、店舗部分や倉庫等は当然商業地域なれば禁煙の対象となり、のんびり店番に座るお年寄りさえ、わざわざ住居スペース若しくは屋外へ出て喫煙せねばならぬ。その他、私が嘗てトラックの運転手を生業にせし頃の仕事場たる市場等も全面禁煙の対象となるや否や。屋根こそあれど壁はなければ屋外と定義され得るのやら。それでなくとも短気な輩が犇めく市場にて全面禁煙ともなれば、短気な輩がそれ以上に短気になるは必定か。されど屋外たる部分も多ければ,喫煙に赴くも難儀な事にあらざるか。何にせよ,何かと要らぬ気苦労なんぞ想像しては、この愚考暴挙とも云い得る「公共の場所に於ける屋内全面禁煙」の法令化が、日本に於いて未来永劫施行されぬ事を祈るばかりなり。
「ポイ捨て」を社会悪とする日本に於いて、屋内全面禁煙と引き換えに欧米の如く路上喫煙を許可奨励するとは思えず、現在JT(日本たばこ)が展開する「完全分煙の実施」こそ、欧米とは異なる文化を持つ日本の取るべき道ならん。受動喫煙どころか煙草の臭いさえ忌み嫌うならば、それこそ「全面喫煙喫茶」と「全面禁煙喫茶」やら「全面喫煙居酒屋」と「全面禁煙居酒屋」に分ければ問題なかろう。嘗てカリフォルニア州にて屋内全面禁煙条例が施行されし後、日本人サラリーマン向けの居酒屋が軒並み閉店に追い込まれしとの事実もあれば、あの神奈川県知事松沢が「全面禁煙を実施する欧米諸国でも禁煙による閉店多発なんて報告はない」と、平然とヌカし腐りておれど、果たして誰から一体如何な報告受けしものか。そもそも前述の通り、日本は欧米とは異文化なれば、斯様な事さえ認識推察出来ぬ輩が、多くの外国人居住者を抱える神奈川県知事とは、全く以て笑い話にもならぬ。
そもそも理念国家と云う幻想の下に帝国主義を展開し続ける多民族国家アメリカなればこそ、また彼等の支配階級の殆どは何事も侵略搾取強奪占領せんとする狩猟民族なればこそ、ことある毎に排他主義的にして、彼等の云う処の独善的「正義」を振翳しがち故、斯くなる嫌煙運動に於いても、彼等が選びし前大統領が中東にて「正義」の名の下に殺戮を繰り広げしを棚に上げ「喫煙は悪癖どころか受動喫煙による殺人行為」とまで常軌を逸せし極論を展開するものなり。故に彼等の独善的思考に於いて「分煙」なんぞと云う転向にも等しき選択肢は存在せず、飽くまでもアホのひとつ覚えの如く「全面禁煙」を訴え憚らぬは当然か。なれどこの日本に於いても「全面禁煙」を訴えるアホも数多く、お前らは未だ日米修好通商条約以来の西洋コンプレックスか?捕鯨にせよ死刑にせよ諸外国からグダグダ文句云われようが、日本は日本なりの選択肢を選べば良し。国際世論なんぞ所詮は欧米諸国の言い分なれば、何でワシら日本人がイチビって尻尾振らなあかんねん!

今回はついつい話が逸脱しがちなれど、では欧米の屋内全面禁煙によるひとつの結果とは,バーに於ける店内全面禁煙の為に路上喫煙が奨励されし挙げ句、路上に溢れる吸い殻による問題、路上にて大声で会話する酔っ払いによる騒音問題等(そもそも欧米人は、日本人に比べ近隣の騒音に関してはかなり寛大若しくは鈍感なれど、その彼等でさえ我慢ならぬとは、余程の事と思わねばならぬ)バー近隣からは苦情が殺到する始末なれど、公共の場所の屋内全面禁煙とあれば、これは仕方なし。店舗の出入り口付近に申し訳程度の灰皿は用意されておれど、その灰皿に吸い殻を捨てる輩なんぞ数知れており、そもそも飼犬の糞が道に溢れしフランスなんぞ「自分の所さえ奇麗なら問題なし」との個人主義ならぬ利己主義が罷り通る社会なれば、飼犬の糞の始末にさえ法規制せねばならぬ民族故、ポイ捨てなんぞに罪悪感なんぞ抱く筈もなく、街のバーが閉店する夜更けともなれば、夥しき吸い殻がおぞましい程に散乱せり。勿論朝になれば街の清掃員が奇麗に片付けてくれる故、店主にした処で些かも問題なしか。酷い店主ともなれば、出入口に立つセキュリティーが、喫煙せんと店外へ出し客に向かい怒鳴り散らす始末。「お前ら、煙草吸うならその通りの角まで行け!うちの店の前で吸うな!店の前が汚くなるからな!」ほなら他所はどうでもええんかい!嘗て週刊アサヒ芸能の誌面にて、読者からの悩み相談「バカヤロー人生相談」の連載を抱える泉谷しげるが「ポイ捨てするヤツなんて社会のクズだ!ヨーロッパへ行ってみろ、吸い殻なんてひとつも落ちてないぜ!」斯くの如きの発言をしておれど、お前どんだけ西洋コンプレックスやねん!ええ歳こいてアホかちゅうねん!お前一体それ何処の事云うてんねん?ホンマは行った事ないのに知ったかぶりしてるだけか?それとも観光客用に奇麗に体裁繕ってる有名観光地と高級ホテル界隈しか行ってへんのちゃうんか?
ならばこれが日本となれば是如何に。ポイ捨てを社会悪と認識するは、今やポイ捨て禁止キャンペーンの御陰か、以前に比べれば些かなりとも愛煙家にも浸透せしか。況してや火事の原因ともなり得ると云われるや、歴史的に幾度となく大火に見舞われし経緯を持つ日本人とすれば尚の事か。嘗て返還前の香港を訪れし際、歩きながらの路上喫煙やポイ捨ては、罰金等の厳罰に処されると聞き知れど、街角には灰皿がそこいらに用意されておれば、その灰皿のある場所に限り路上喫煙可能とか。成る程、対応策さえ講じられておれば、愛煙家も文句は云えぬか。ならば日本の路上喫煙禁止地区も、万が一にも公共の場所に於ける屋内全面禁煙となる暁には、斯様な処置を施されんや。否、仮に路上喫煙禁止であれど、公共の場所の屋内完全分煙にて食い留めて頂ければ、愛煙家としては些かも問題なからん。

されど自国たる日本に於いて、極論たる「公共の場所に於ける屋内全面禁煙」なんぞと云われれば矢張り、ちょう待ったれや!と云う事にもならん。さりとて神奈川県に於ける今回の公共の場所に於ける屋内全面禁煙条例騒動なんぞ、神奈川県民にあらざる私の及ばぬ事にして、ほならもう神奈川県には絶対行かへんと意固地に誓うしか術もなしか。ならば金輪際箱根温泉には赴けぬと云う事か、別に箱根温泉に行けずとも実際には些かも問題なんぞなけれども、自ら斯様な自戒を課さねばならぬとは、我ながら何とも嘆かわしき決断なり。
どうやら完全禁煙に異議を唱える居酒屋や喫茶店の抵抗により、分煙に落ち着きそうな気配なれど、3年後には再び見直すとか。神奈川県知事松沢の話では、完全禁煙が無理なる小規模店舗は「分煙の努力目標」をとの事らしけれど、一体具体的に何をどない努力すんねんな?例えばカウンターのみの小規模店舗なんぞ、分煙も糞もへったくれもあろう筈なし。素直にJT宜しく自主的なる「完全分煙」を謳えばええやんけ。仮にも斯様にしょうむない条例が施行されれば、路上喫煙禁止条例の時と同じく、次々とアホな自治体が追随するは必至、なればこそ日本の歴史上に残る大失策にならぬよう、是非とも良識ある判断を願うばかりなり。
そもそも屋内全面禁煙にしても完全分煙にしても、何でわざわざ法規制する必要あんねんな。各店主の判断にて「喫煙可」「全面禁煙」とすればええ事ちゃうんか?嫌煙家曰く「受動喫煙がイヤ!」アホか、ほならそう云う店に行かへんかったらええんちゃうんか?敢えて法規制すんねやったら「喫煙可」か「全面禁煙」かを各店に明確に打ち出させればええだけの事やろ。実際全面禁煙を打ち出すスタバには絶対赴かねば、逆に嫌煙家は喫煙可の店に赴かねば一切問題あらざらん。そもそも所謂嫌煙家とは日頃より何かとブーブー文句垂れるのみにして、喫煙可の場所に於いてでさえ、煙草の煙が身辺に漂うや否や、その煙を吐き出せし輩に対し、まるで親の仇か子の仇かとでも思わざるを得ぬ程に睨みつける塩梅なる一方、昨今何かと肩身狭き愛煙家とは、勿論最低限度の喫煙マナーを守れぬ非常識なる輩も一部にはおろうが、喫煙せぬ御仁が居合わせる折には、かなりの配慮する事を、傲慢極まりなき嫌煙家共は理解さえせぬどころか「嫌煙権」を旗印に「我こそが正義なり」と、独善的正義を笠に着ては、飽くまでも「喫煙権」を認めぬ様子なり。
大凡嫌煙家曰く「お前達は、嫌いな煙草の煙に苦しむ我々の気持ちを察しろ!この殺人鬼が!」一方で「煙草の喫煙は全面禁止だがガンジャは解禁しろ!」との声が、一部のまさしく身勝手極まりなき嫌煙家共から聞こえて来るか。これもまた屋内全面禁煙を謳う欧米諸国に於けるガンジャの容認ぶりを笠に着る身勝手極まりなき「権利」の主張なるか。されど一切喫煙せぬ津山さん曰く「煙草もガンジャも、吸わへんもんにとっては、煙い事に変わりないねん。」
世界の世論や現状が如何であれ、嫌煙家による有無を云わせぬ「公共の場所に於ける屋内全面禁煙化」とは、それもまた西洋植民地主義の名残とも云える愚挙暴挙の類いにして、日本人なれば新たな指針「完全分煙」を唱える事こそ賢明ならん。そもそも携帯電話にしても「ガラパゴス化」と呼ばれる程に、海外諸国とは全く異なる独自の携帯電話文化を発展させる日本人なればこそ、斯くなる禁煙問題に於いても、日本独自の方法論を選ぶ事に些かも問題なかろう。されど斯様な世の中ともなれば、何とも殺伐とせんとも思う処にて、何故これ程までに法を以て規制せんとするか。そもそも法とは人を束縛規制するものにあらじと思えばこそ、斯様な「完全分煙」程度の事ならば何故各自の自主性やら良識に任せられぬのか。受動喫煙以上に、現代の人間そのものにこそ問題あらん。 
泉谷の「バカヤロー人生相談」風に云わせてもらえば「ってことで、ハイ、落着!」アホか、そんなに簡単に解決したら、誰も苦労せえへんちゅうねん!

 

 

(2009/2/22)

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