『人声天語』 第30回「プラトニックな音楽~フレデリックの1stアルバムをリリースするに寄せて~」

今月は、AMTレーベルより2作品を同時リリースする。

レーベル創設当初の2年間は、精力的に破竹の連続リリースを敢行していたのだが、その後、本家AMTの海外リリースラッシュと、ソロ等の海外レーベルからの連続リリース等、次第に当AMTレーベルから出す作品を作る暇が無くなり、気付いてみればここ2年、レーベルからのリリースは、減少の一途を辿っていた。今秋から工場プレスによるCDリリース「PLATINUM DISC SERIES」をメインにせんと、まずPARDONSの1stアルバムをリリースしたが、プレスCDのみでは、資金難からも、当初のコンセプトであった「出したい時に出したいものを出す」ことが困難であり、結局CDRによるリリースを「NEW GOLD DISC SERIES」として復活することにした。但し、以前の100枚限定であった「GOLD DISC SERIES」とは異なり、「NEW GOLD DISC SERIES」としてのCDRリリースは、限定生産制を廃止し、ニーズがあるだけ生産することにし、そのかわりに、ミュージシャン側が廃盤を希望すれば即廃盤にすると云う、以前にも増して我が儘放題のリリース形体となった。下手すると発売1週間で廃盤と云うことさえあり得ぬ話ではない。

一方のCDリリースに関しては、限定200~500枚プレス程度で、なるべく早く売り切り、その資金を次の作品の制作費に当てていく算段。また「PRIVATE DISC SERIES」は、原則として、今後もツアー物販用、若しくは私家盤としてのリリースを目的とした、現行通りの限定CDRとしてリリースしていく予定。尚、かつて「GOLD DISC SERIES」としてリリースされた全21タイトルは、今後如何なる形であろうと、当AMTレーベルからは、CD若しくはCDRの形で復刻する心積もりは一切無い事御承知の程を。

さて、その限定生産制が廃止されたCDRリリース「NEW GOLD DISC SERIES」第1弾は、発売無期延期になってしまったZOFFYの新譜の埋め合わせと云う訳ではないが、私と津山さんのソロによるカップリング・アルバム。これは2000年冬にシカゴで行われた「ドローン・ナイト」でのライヴ録音。余談ではあるが、津山さんの演奏に、オルガナイザーが感動のあまり涙する一幕さえも。一方、私の方はと云えば、開演前にステージ上で機材の不調から例によってエフェクターを叩き壊し、気分が大荒れのまま演奏を開始すると云う、さながら「怒りのドローン」とでも云う内容で、自分のギタードローン・ソロの中でも、かなり珍しいテイクだと思う。

基本的に私は、ライヴ録音を作品としてリリースする事には至って否定的であり、単なるドキュメント的側面を重視する場合に限り、ライヴ作品をリリースすることにしている。ライヴとははまさに、その場に居合わせた観客と我々の間だけに存在し意味を持つものであって、それを作品として第三者へ乱発する等と云う行為には、あまりにも賛同しかねる。繰り返し聴かれる録音作品なるものは、たとえ一発録りであれ、きちんとスタジオで録音するのが、制作者側としてのモラルであろう。

そう云う意味でも、今回の本アルバムは、単なるドキュメントに過ぎず、プロレスの本場アメリカにて行われた、普段はAMT、西日本、ZOFFY等で斯く云う同盟軍たる我々の、言うなれば、プロレスに於いても時折見られるファンサービス的なダッグチーム内でのシングル対決の如き、ソロ・パフォーマンス対決とでも云う「と或る一記録」であろう。果たしてこのアルバム、一体いつ廃盤にされるやら。取り敢えずジャケットは、初回200枚分作ってはあるが。

一方のCDリリース「PLATINUM DISC SERIES」最新譜は、かつてオクシタニアの中心都市であった仏トゥ-ルーズで活動するアシッドフォーク・シンガー「フレデリック」の1stソロアルバム。これは1999年に彼自身のレーベル「Maison Drole Production」から私家盤として、ごく数枚のみリリースされた2枚組CDRを、私が1枚のCDに編集したもの。(オリジナルは、英語と仏語の曲とで、各々ディスクが分かれている。)

彼は普段、劇場の為の音楽製作等を行っており、また自身のバンド「HYPERCLEAN」やオードレイ・ジネステット等との「UEH」なるグループでも活動している。
彼との出合いは、トゥ-ルーズにて、私がオクシタン・トラッドのレコードやコンサート等を探し回っていた折、オードレイが、自分のバンド「UEH」のメンバーであるフレデリックが出した私家盤としての2枚組CDRに、彼の今は亡き祖父が歌ったトラッド数曲が収められていると、私に告げた事が始まりであったと記憶する。早速彼女の家でそのCDRを聴かせてもらった私は、その祖父の歌声以上に、フレデリックの歌に驚愕した。 オクシタン・トラッドからも自ずから影響を受けたその「歌」は、明らかに英語圏のアシッドフォークとは些か異なる趣きであり、その独特の空気感は、さしずめ「アシッドシャンソン」もしくは「アシッドバラッド」と言ったところか。

トゥ-ルーズは、パリから遥か彼方、世界最速を誇るTGVで5時間半、南フランスの小さな都市であり、音楽に関する情報等、日本から遅れる事5年以上であろう。今や海外で猛威を振るう「クラウトロック(ジャーマン系サイケ)・ブーム」さえ未だ彼岸の火事の如き、何しろようやくジョン・ゾーンに代表されるTZADIK系ブームからシカゴ音響派ブームへ変わりつつあるような場所なのである。勿論、ラモンテ・ヤングに代表されるドローン系なんぞ、誰も知る由もなく、98年に初めてAMTで演奏した折も、「生バンドがエレクトロニクスと一緒に演奏するとは!」等と誰もが物珍しがった程であり、GONGやHAWK WINDさえも、勿論知らなかったと云うお粗末さ。
さて、そんなトゥ-ルーズでフレデリックは、ひとりコツコツと彼の音楽を作っていたのである。彼のCDRはリリース当時、友人にさえも買っては貰えず、オードレイを始めとする彼の身近な数人の友人の手に渡ったにとどまった。私も中学生の頃から奈良の田舎にて、宅録等で日がな作品を作り続け、カセットでリリースしてはいたが、はたしてそこ迄悲惨な状況ではなかったと思える。時代に対し完全に閉ざした彼の音楽性は、まさしく此の地トゥ-ルーズにて純粋培養されたが如き、全く虚飾なき等身大の彼自身そのものであろう。一見控え目且つ内気な姿の彼ではあるが、音楽に対する情熱にかけては一廉ではない。此の地に於いて、音楽的情報が少なかった事が幸いしたのか、ひたすら自身と向き合ってのみ音楽を作ってきたと云う、何かひとつ筋の通った強ささえ感じさせる。

後日、私はUEHとレコーディング・セッションする機会があり、その時初めてフレデリック本人と対面した。この至って物静かな青年に、AMTレーベルから彼のCDRを編集してリリースしたい旨伝えたが、彼は「じゃあ、有名になるから芸名を考えなくては。」等と、至って冗談若しくは下手な御世辞としてしか取っては貰えなかったようで、結局その後、極度に謙虚なこの青年を説得するのに、随分と年月を要する事となる。

本作の表ジャケットは、UEHのギタリストであり画家でもあるステファンが、フレデリックの家を描いた水彩画、裏ジャケットは、私が撮影した彼の家の写真である。彼は、自分の家に特別何かこだわりがあるようで、今回のジャケット・デザインも、彼の方から、自分の家の絵にしたいと言ってよこしてきた事に始まる。この家には、周りがどうあれ時代がどうあれ、ここでひとりコツコツと彼自身の音楽を温め作ってきた故の限りなき愛着と、そしてまた、自分が貫いてきた姿勢の象徴としての意味が、彼の中にはあるのかもしれぬ。何しろ彼のレーベル名は、「Maison Drole(「奇妙な家」これは実際に彼の家の俗称のようで、こう書かれた古びたプレートが、門柱に据え付けられている) Productions」であり、彼のウェブサイトもやはり、彼自身が描いた彼の家がデザインされている。

出来るだけ多くの人に、このアルバムを聴いてもらいたいが、果たして我らが弱小レーベルに、一体どこまでの事が出来るのやら。そもそも何故、我らの如き弱小レーベルが、彼のアルバムをリリースする事になったのか。それは即ち、配給力のある大手レコード会社が、何故にあれ程下らないものばかりリリースするのか、と云う事の裏返しと言える。仮に、彼等の愚行が、金儲けの為だと割り切って考えたとしても、所詮はレコード会社であり、良き音楽を世界に拡げる事が第一使命であり、それこそ彼等が為せるせめてもの社会に対する還元なのであるから、多少の金を彼のような純粋な音楽家達の為に投下してもいいのではなかろうか。本来、良き音楽が少数派であってはならないし、また一部の少数派至上主義的な輩共が、善し悪し問わず、単に少数派だからと云う全く不毛な理由で、闇雲に訳の解らぬ物まで同列にリスト化し、結果少数派と云う中に埋もれがちな良き音楽まで、アンダーグラウンド等と云う、これまた全くもって不毛な定義に埋没させてしまう事等も、この際是非とも御遠慮願いたいものだ。

しかし弱小レーベルは、たとえ良き音楽をリリースしていようが、セールスが悪ければレーベル存続の危機に関わるが、大手レコード会社は、乱発するゴミのよう音楽が、たとえ1作2作セールス的に失敗しようと、然程会社の存続までには影響がない等、全くもって世の中、不条理な事この上なし。しかしそれらゴミのような音楽を、過剰な宣伝等に踊らされて購入する阿呆な客の側にも、大いに問題はあるのか。それとも良き音楽をリリースしていながら、如何なる理由であれ、売る事が出来ぬ、若しくは売る術を知らぬ弱小レーベル側に責任があるのか。否、そもそもゴミのような音楽を垂れ流す、似非ミュージシャン(こういう輩共に限ってアーティストなんぞと呼称されがち)こそ、これら諸悪の根源ではなかったか。やはり詰る所、これらのカス共を子飼いにし、利益を貪る大手レコード会社や、面白半分のリリースを繰り返す大手自主レーベル等こそが、諸悪の根源なのか。

フレデリックが持つ「ただひたすら純粋に音楽を愛する気持ち」は、今や世界から失われてしまったのか。
「愛」も然り「音楽」も然り、「純粋さ」ほど如何なる何物にも勝ると知れ。

(2001/12/05)

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