『人声天語』 第43回「女・おんな・ONNNA」

ツアーまで残す処ひと月余り。それ迄に完成させねばならぬマスターが、新たなものも加わり4タイトルに。今年初のAMTのスタジオ録音となる、新ドラマー夘木君との初めてのセッションも上々にして、先ずは幸先のよい滑り出しと言えよう。本日午後もスタジオにてギターのオーバーダブ等こなした後、今こうしてパソコンに向かいつつ、昨日入手した武田久美子のヌードビデオを観賞中。何を隠そう、実は私は大の武田久美子ファンであり、彼女が毛唐如きに結婚と云う名の下に略奪された折には、これを「浮世絵以来の日本の損失」と言わずして何と言う、斯様な憤りと悔しさに拳を握ったものだった。

所謂ませガキだった私は、幼い頃よりアイドルやらの美女好きであり、古くは誰もが通るアンヌ隊員こと菱美ゆり子に始まり、後に暴漢に襲われアイドルから失墜せし岡田奈々、中学生日記出演時の長い髪が似合っていた竹下景子、初めてスポーツ選手にしびれたのは妖精ナディア・コマネチ、生まれて初めて写真集を買ったのは多岐川裕美、もしや国産ファラ・フォーセットかとそのバタ臭さにしびれた樹れい子、アンニュイな雰囲気にすっかり飲まれた風吹ジュンや秋吉久美子、何より今だ私にとっては究極の美女の1人であるアグネス・ラム等々、当時山口百恵や大場久美子、キャンディーズ等のファンを自称する周囲の同級生とは、かなり様相を異にする趣味であった。そして高校生にでもなれば愈々映画館に足繁く通い、新世界のド汚い映画館にて一撃で悩殺された池玲子に始まり、「月曜日のユカ」でのあまりのコケティッシュさにすっかり虜にされた加賀まりこ、「テス」ですっかり魅了されたナスターシャ・キンスキー、アイドル全盛時の80年代は、実際にコンサートに足を運んだ中山美穂や松本伊代を筆頭に、ファンクラブにも入っていた大西結花、相楽晴子、その他にも浅香唯、芳本美代子、森尾由美、等々枚挙に遑ぬ程であったが、やはり究極は本気で恋してしまった斉藤慶子であり、またその御尊顔を拝む為に毎朝欠かさず観ていた「澪つくし」主演の沢口靖子であったか。80年代末から90年代初頭にかけては、AV女優の東清美と美穂由紀に御執心、その後も、ファンクラブ会員となり引退迄コンサートに足繁く通った瀬能あずさ、アイドルから転身して貝殻ビキニを身につけた前述の武田久美子に溺れ、しかし宮沢りえの登場辺りから私にとってのアイドル不在時代が続いたのだが、ロボコンのリメイク版でロビーナちゃん役として彗星の如く現れた、私にとって久々のアイドル加藤夏季で現在に至る。

アイドルは、全く罪が無い。本人も仕掛けられた虚構の中に存在する事を望み、そしてファンもその事実を踏まえた上で、その虚構に敢えて身を委ねる。本人もファンも、芸能産業に踊らされている事を承知の上で、踊らされている事に喜びを感じているので、仕掛け人のプロダクションやレコード会社、アイドル本人、そしてファン、三者共が至って幸せになれる図式がここに存在している。故にアイドルが、「アーチスト」気取りし始めるとそのトライアングルは崩れ始める。売れっ子作詞家作曲家による「アイドルをアイドルたらんとする」過剰な迄の馬鹿馬鹿しさ溢れる演出が薄れる事に比例して、アイドルのカリスマ性も希薄になり、純粋なアイドルファンにとっては、小生意気な小娘の慢心に満ちた思い上がりが鼻につき始め、結果人気は下降していく。アイドルに固執しながらも、売れなくなってバラエティータレントに転身したり、Vシネマで濡れ場を曝す等の活路を見い出す者には拍手を送りたいが、アイドル時代の人気に負ぶさって、「アーチスト」宣言をしたり、演技派女優を自負する輩は、まるで自分がかつてアイドルでしかなかった事等抹消してしまうかの如きであり、まるであのビートルズ宜しく、分相応を弁えぬ自意識過剰も甚だしい愚か者としか言い様がない。
況して最近は、アイドルが熱愛宣言をする等、幻想を売る事さえ拒否し、一方で巨乳アイドル等と呼ばれる、単に最初からアイドルの終末とも云えそうなお粗末な輩が犇めき合い、またシンガーソングライター系との境界線もあやふやなれば、愈々時代も変わったのか、かつてのようなカリスマ性のあるアイドルらしいアイドルは、完全に絶滅してしまったように見受けられる。
「アーチスト」を自負する今日びのアイドルと呼ばれる輩は、自分が踊らされていると云う自覚が希薄であるが故、ファンも踊らされている事に全く気付いておらず、結局は当人達が「騙している」「騙されている」事に気付いていない故、その音楽性さえも「正当に」評価する等と云う愚行に走り、挙げ句そこはリスナーの低レベル化の温床と化し、そしてそれは更に次世代のミュージシャンの意識の低レベル化に迄発展し、遂にはアイドルのコピーバンドやら至って真面目なフォロワ-が現れる始末である。更には「幻想」である筈のアイドルが同世代の同性にとって「ファッションリーダー」に成り下がる等、一般人の阿呆な自意識過剰が、更にアイドルの価値を失墜させてしまう。

そんな中、モーニング娘の登場は、至って大きな意味を持つ。確かにおニャンコ以降、国民総アイドル化現象によって、アイドル個人のクオリティーは低下の一途を辿っているが、逆に質より量ならぬ「この中の誰か1人ぐらいはタイプであろう」と云う物量作戦によって、1人のスーパーアイドルを軽く凌ぐポテンシャルを誇る。現在に於いてモーニング娘こそ、本来のアイドルの再来であり、正しいアイドルの在り方であろう。そして長きに渡りアイドルから遠ざかる事を余儀無くされた私でさえも、流石に無視する事は出来ず、気が付いてみれば、今や辻と加護の識別も可能となるどころか、吉澤ひとみと飯田香織がお気に入りになっているではないか。更には、みぞた商店のモーニング娘時計の購入さえ、近頃真剣に検討している有様。恐るべしモーニング娘。しかしこれこそがアイドルと向き合う真の醍醐味であろう。

されど勿論、私を魅了するのはアイドルだけには留まる筈もなく、女優やらモデルやらスポーツ選手やら、況して世代や時代性をも問わず、ただ美しい女性の美しい姿にシビレるだけである。元来私は俗に云う「面食い」であって、かつては「顔が世界で一番可愛ければ、性格が世界で一番悪くても構わない」とまで言い切り、挙げ句の果て、今迄の人生に於いて数限りない酷い目に会わされてきたのだが、それに懲りて時折妥協してみれば、矢張り顔が可愛いに勝る事なしとばかり、自ら再びイバラの道を選んでは、またしても辛酸を舐めさせられると云う経緯を、延々と繰り返しているのである。本当に美しい女性は、自分が美しい事を誰よりも自覚している為、私なんぞはいい様に翻弄されてしまう。しかしこの辺りの駆け引きが、私にとっては男女間に於ける最も楽しいゲームであり、最大の醍醐味でもある。そしていずれはこの高慢なプライドを木っ端微塵に叩き折ってやろう等と邪な事を企んでは、結局こちらが完膚なきまでに叩きのめされるのではあるが、この駆け引きこそが、私にとって最高の愉しみであり、人生に於ける唯一の娯楽でもある。

そんな私にとって真の究極の美女像とは、矢張りフランス女性に他ならず、中でもトリュフォーの「ピアニストを撃て」に於けるレナことマリー・デュボアこそが究極の理想女性像である。

彼女はゴダ-ルの「女は女である」にも出演しているが、この中でさえも私にとっては主演のアンナ・カリーナではなく、矢張りマリー・デュボアなのである。特に「ピアニストを撃て」に於ける、シャルル・アズナブールを翻弄するマリー・デュボアこそ、私の求めてやまぬ女性像であり、勿論その容姿も私の理想像にして、声に至ってはその魔性の匂いを嗅ぎ取らせるに充分余りある、まさしく完璧な女性像であると言える。以前「フランス女性こそがフランス映画そのものだ」と書いたが、あの確固たる価値観と人生観は、最低如何な日本女性にも見受けられぬもので、ならば私も日本男児として相まみえ、見事男子の本懐を遂げたいものである。
人生ここに極めんとすれば、かつて私が書いた歌詞ではないが「陰腹切って腹上死!」で大いに結構。女の為に死ねる男ほど、この御時世に於いて幸せな事はあるまいて。

(2002/2/02)

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