『人声天語』 第121回「生きておれども花咲くか」

ここ数年、何かと知人友人の訃報を耳にする事多し。闘病の果てにと云う下りが圧倒的に多ければ、自分も含め確かに斯様な年齢に差し掛かっている事を、改めて自覚しては「体あっての物種」とばかりに、愚かしくも今更僅かばかり健康に気を配るようにもなりしもの。
「生きているうちが花、死んで花実が咲くものか」享楽主義にして刹那主義且つ運命論者である私にしてみれば、生きとし生けるこの刹那こそ重要にして、死せし後の事なんぞ到底考えられねばこそ、斯様に不毛なる事で、貴重な己れが生かされし時間を僅かでさえ浪費したくはなし。そもそもこの世に生を受けし間に、いそいそと善行を積み重ね、死後は極楽浄土へいざ行かん、若しくは再び人間に輪廻転生せん等と、現世と云われる今生きている時間を、死後の極楽やら来世の為に費さん等と思う筈もなければ、また斯様に極楽やら来世やらに期待せねばならぬ程、現世を悲観する訳でもなく、よもや末法思想なんぞ到底信じられぬ上、仮に死後に地獄に堕ちようが、それからの事はその時になってから考えればよかろうと思うし、そもそも物事なるようにしかならん。

今年いよいよ四十路を迎えれば、仮に人生80年とした処で、いよいよ人生半ばに差し掛かる辺り、仮に人生50年とするならば残す処10年である。自らの残されし余命幾ばくかなるを杞憂するより、死ぬる時は石に蹴躓いてでも死ぬるであろうし、未だ死なぬのならば飛行機が墜落しようが死なぬであろうから、ならば何時訪れるかも判らぬ死について戦れ慄きつつ生きるよりも、何時死しても悔いを残さぬとする生き方を選びたい。だからと云って常に死に様を考慮しては、身辺整理しつつ生きていく事程愚かしい事はなく、どうせ死してしまえば「死人に口無し」である、死後に何を云われようが、斯様な事は既に死してこの世におらねば、今更一切関与せず、否、したかろうが出来ぬ始末。私と共通の知人を癌で亡くした友人が「どうせ末期癌なら余命どれぐらいか教えて欲しいなあ」と漏らしておれば、なんでも「iBookの中にあるエロファイルを削除せなあかんから」と云う冗談とも取れる理由なり。遺品整理にて、死者の恥ずかしい部分が明らかにされる事もあるやもしれぬ、されど斯様な生前の自らの恥部抹消なんぞと云う愚行にて、残されし余命を費やす事の方が、私には余程空しく感じられてならぬ。

ではもし自分が余命幾ばくもなしと勧告されれば、果たして一体何をせんと思うや。今更未だ観ておらぬ未開封のDVDやら録画したまま放ったらかしにされしビデオでも観賞せんとするや。それとも遺作となろう作品を余命全てを注ぎて入魂で制作するや。さてまた今一度友人達の顔を見んと世界を旅するや。若しくはいよいよ最後とばかりに酒池肉林放蕩三昧に明け暮れるや。強ち見苦しく大いに取り乱し失意の果てに無駄に時を費やすや。救いを求めて宗教にでもハマり惰眠を貪るや。果たしていつもと同じように日を重ね、静かに死するを待つや。何事も締め切りが迫らぬと出来ぬ私なれば、余命幾ばくもなしと告げられるや、矢張りあれもこれもと猛然と今更悪足掻きするであろうか。否、狂信的運命論者なればこそ、これも運命と諦め静かに時を過ごすであろうか。されど斯様な事は、その事実に直面せねば判る筈もなし。

ただ死するに辺り思う事は、出来ればぽっくり往生の如き安楽死ではなく、もがき苦しみのたうち回りて死に逝きたいもの。最期の苦しみを感ずる刹那こそ、死に直面して漸く初めて「自分は生きている」事を自覚する最初にして最後の機会ではなかろうか。特に事故なんぞで即死とも相成れば、自分が死して屍となりし事実さえ自覚出来ぬのではあるまいか。ぽっくり往生にて眠るように穏やかな死に様とは、私には何とも人生のエンディングとして物足りなさを感じざるを得ぬ。勿論大往生なる言葉通り、まるで悟りの境地にでも達せしが如く「我が人生に悔いなし」と逝かれる御仁もおられようが、私の如き輩なれば、斯様な境地達せられる筈もなく、また常々「自分は本当に『生きている』のか」との疑念もあればこそ、矢張り最期の時こそ、それ相応の解答を欲すると云うものであろう。

死んでしまえばただの肉塊である。私個人としては、斯様な肉塊に対し、何人たりとも金銭も時間も割いて欲しくなければ、葬式も墓も追悼の意なんぞも一切無用、せめて灰にさえしてもらえば、それを何処ぞへでも撒くなりしてくれれば宜しかろう。死んでしまえばそれまでなれば、一切の追悼の類いもお断りにして、出来れば誰の記憶からも消し去って頂きたいもの。未練がましくこの世にて偲ばれてもどうする事も出来ねば、また人の記憶なんぞ忘却は当然の事なればこそ、時折思い出される方が何やらお互いきまりも悪かろう。
完全に忘却されんと思う癖に、これ程までCDなんぞと云う「記録物」を量産しておれば「何を矛盾せし事ほざいておるのか、このタニシは!」と憤られる方々も多かろうが、それはごもっともにして、されど「生きているうちは花」なれば、音楽を生業にせし者として、作品発表とは当然の行為であり、故に自分が死する刹那、自分の作品もこの世から、「スパイ大作戦」の指令テープの如く、白煙と共に消え去ってくれればと、切に願って止まぬ。何とも都合のいい言い分ではあれど、この世は侭ならぬものにして、されど斯様に思うのであるから仕方なし。

四十路を迎えんとする今、未だ未婚にして子供も居らず、生活は安定とは凡そ懸離れし不安定極まりなき具合なるや、また貯えなんぞある筈もなく、享楽主義にして刹那主義故に散在するを美徳と思えばこそ、勿論将来設計なんぞ皆無にして、一抹の不安こそあれど希望なんぞ抱く筈もなく、故に一切の淡い期待さえ持たぬように日々心掛けるものなり。今でさえ既に体中あちらこちらに問題を抱えておれば、この先五体満足でおられるかどうかも甚だ疑わしく、誰かに介護して頂く甲斐性も義理もなければ、精々独居老人孤独死やら身元不明者路上死が関の山であろう。されどそれもまた私の運命であるならば、今に於いても好き勝手気侭に暮らさせて頂いておる故、当然報いとも云える顛末であろうか。元来徒党を組むやら親分風を吹かせては若い衆の面倒を見るなんぞ、自分の性分に合わぬ事重々承知しておれば、人との付き合いも至って下手にして失礼も多く、故に独りで逝く事全く厭わずと云った処か。そもそも生きるも死ぬるも己れ独りの問題であり、動物が死する際に屍を晒さぬよう何処へか姿をくらますが如く、せめて最期ぐらい己れで死に水は取りたいと思えばこそ。

今更死について思うも、自分が成し得る事とは何ぞや、自分は一体何を成す為に生を受けしものか、斯様な事を思う事増えたる所以か。子孫繁栄やら種の保存たる万物に与えられし使命を、自分はこの先も決して全うする事なかろうと思えばこそ、ならば自分は、近親相姦さえ厭わず種の保存に勤しむ我が飼い猫共以下であろう。死とは「成すべき使命」が全うされし刹那訪れるものと認識しておれば、また人間に限らず生きとし生けるもの全てが必ず何かしらの理由をもって生を受けておればこそ、果たして私の成すべき事とは何たるや。到底音楽を演奏する事とは思えねば、たとえ「鬼畜」と蔑まされようが、多くの女性を傷つける事か、特に他に特技たるもなければ、まあ結局は深く考える事さえ不毛にして、自分の生きたいように生きるのみ。いよいよ最期の時を迎えもがき苦しむその時にこそ、その解答は自ずと見えて来ようか。否、それ程人生甘くはないか。結局何にも判らぬまま終焉を迎えるのがオチなれば、それもまた自分らしく滑稽なり。
何も判らずに生を受け、何も判らぬうちに死を迎える、それでええやんけ、なあ。

(2005/5/5)

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