『人声天語』 第144回「独身四十路男の秘かな愉しみ」

既に3月となりて、昨年に続き企画されし「グルグル祭」国内ツアーも無事終了、多くの方々に御来場頂き、どうも有り難う御座いました。これを以て4月に行われる北米ツアーまでの国内ライヴは全て終了、帰国後は9月中旬までまたしても国内外のライヴ予定犇めきておれば、この好機を束の間の休息とせんと思えども、溜まりに溜まりしリリース依頼あれば録音せねばならぬは勿論、来たる北米ツアーに纏わる準備やら各方面への手配や確認作業に始まり、ウェブの更新や国内ツアー諸々のチラシ作りやらブッキングやら為さねばならぬ事数知れず、また昨年より持ち越せり映像編集にも着手せねばならず、前回書き綴りし通り昨年末よりの燃え尽き症候群にて既に充分休養しておれば、これ以上サボる事も許されざるか。否、されど一度サボり癖なんぞに味を占めれば、その美味さを忘るるはいと難し、ついついビデオやDVD観賞なんぞに呆けんと思いがちなる体たらく、斯くなれば鉄よりも強固なる意思と使命感を以て臨まんと思えども、我が腰の何と重き事か。いやはや炬燵なんぞと云う悪魔の利器の甘き囁きあればこそ、私を再び自堕落なる道へ誘わんとするものなり。冬さえ終われば炬燵も仕舞われ、斯様な誘惑に苛まさるる事もあらざらん。

その燃え尽き症候群に陥りしほぼ1ヶ月弱もの間、連日ただただその諸悪の根源たる炬燵に留まり、独り鍋を突きつつ、ひたすらDVDやビデオを観賞し続けしものなれば、流石にひたすら「水炊き」では飽きも来て然るべき、然れば嘗て「今年の鍋」としても紹介せし「ローズチゲ」(第31回「貧乏人流鍋ノ愉シミ」参照)「かすちゃんこ」(第116回「2004年総まくり」参照)は勿論,スタンダードに「湯豆腐」やら「豚しゃぶ」を、更には見事な牡蠣と遭遇せし夜は「牡蠣土手鍋」立派な特大白子をフューチャーせし「白子鍋」と時にはスーパーにて遭遇せしお値打ち品を、或る時は地産地消宜しく明日香村産の水菜をふんだんに食らわんと「鶏ハリハリ鍋」を、また或る時は家にある残り物のみにて「行き遅れちゃんこ鍋」をと、手を替え品を替え鍋に明け暮れし次第。独り鍋の愉しみとは、一旦下拵えを済ませれば、後は徒然なるまま気の向くままに突つける事か。時には火を落とし焼酎片手に煙草を燻らせ、また小腹が空くや火を入れ具を足せば宜しからん。

さて毎年何らかの新作鍋を考案せしものなれば、今年も御多聞に漏れず矢張り新作鍋ありて、いよいよ春の足音さえ聞こえんと思う折なれど、例によりここにレシピを紹介させて頂かん。今年の鍋とはその名も「点心鍋」即ちその名の通り所謂「鹹点心」と呼ばれる物から幾品かを選び、それらを主菜として鍋にぶち込むのみの何とも安易なる代物なり。客人等迎えて鍋を囲むならいざ知らず、独り炬燵に座し鍋を突つくならば、下拵えも含め手間の掛からぬ事こそ肝とならん。そもそもは一昨冬に「コンソメが昆布だしに摺り代わるだけやろ」と、何気なく水炊きにロールキャベツを入れてみれば、これが何とも美味なりし経緯ありて、ならば「水餃子があるねんから」餃子は如何にと試さば、これまた美味にして、続けて焼売やら小龍包等、次々と試しておれば「点心を主菜に鍋やったら美味いかも」と思い立ち、更に付けダレたるポン酢にからしを添える事にて、点心と水炊き双方の味わいを残し得れば、これにて何とも安易に新作鍋の完成と相成れり。去り行く冬の名残を惜しみつつ、今冬最後の鍋としてお試しあれ。

「点心鍋」
<材料(2人分)>
鹹点心各種(スーパー等にて安売される箱詰めされしもの1箱にて充分)
– 焼売 10~12個
– 餃子 8~10個(個人的には海老焼売や蟹焼売等の海鮮系がお薦め)
– 小龍包 6~8個 (鹹点心は各自お好みで。されど春巻の類いは煮崩れる可能性あり)
– 大根 1/2 本
– 白菜 1/4 個もあれば充分
– 水菜 2束(たっぷり入れる方が美味)
– だし昆布 適量
– 麺つゆ(私はヤマサ「昆布つゆ」を使用)
– ポン酢
– からし
<作り方>
1)鍋に水を張りだし昆布を入れ沸かす。(だし昆布も具として頂くので、食べ易い大きさになるよう予め小さめに切っておくとよい)
2)麺つゆ適量と半月切りにした大根を入れる。
3)大根が煮えた辺りで、ざく切りにした白菜を鍋に敷き詰め、鹹点心各種をその上に盛り、必ず蓋をする。
4)鹹点心各種が程良く蒸し茹で上がれば、水菜を添え軽くひと煮立ちさせれば完成。
5)取り皿にポン酢とからしを用意し付けダレとして頂く。お好みで胡麻油や辣油を少々差しても良し。
<注意点>
鹹点心各種は、余り長時間茹でると煮崩れ易く、また皮が溶けてつゆが濁る故、なるべく食べ切れる程度の個数をこまめに鍋に入れる方が良い。
小龍包は、頭頂部の皮を摘み結いし部分が一番茹で上がりにくい為、鍋に入れる時に上下逆さまにして入れると良い塩梅に仕上がり易い。
餃子を入れる場合は、個人的な好みとしては、あまりニンニク等の風味が強い物より抑えめの物の方が、他の食材の味が損なわれず良いと思われる。
<その他>
キムチの素やコチジャン等を溶いて「点心チゲ」にしても美味。

さて自堕落な暮らしぶりから一転、2月中旬より怒濤の録音地獄に突入すれば、寝食を惜しむばかりかトイレの時間さえも惜しまねばならぬ程の忙殺ぶり、何しろ発売元たるレーベル側の御達しに因ると、AMT & TMP U.F.O.の新譜2枚を僅か1週間にて仕上げねば、来たる4月の北米ツアーにリリースが間に合わぬとの事。されど食事は取らねばならず、さりとて即席ラーメンの類いは海外ツアー時にて辟易しておれば、日本に於いて食す事なんぞ皆無、また旬の食材等は叶う限り食さんとの想いもあり、果たして調理時間を要さずして、それなりに満足の行く食事とはと追究せし結果、斯様な折は「うどん」となるのが私の食生活の定石なり。
所謂「ゆでうどん」なる玉うどんならば、当然茹で上がりし後に冷水を以てして締め、再び熱湯を潜らせるなんぞと面倒なる手間隙を掛けずとも、湯を沸かしそこへうどん玉をぶち込み、茹で上がるやそこへ直に麺つゆを差せば完成なり。茹でる際に鍋焼きうどん風に具材を一緒に煮るも良し、予め油揚げさえ煮ておけばきつねうどんこそ最も安易にして、うどんを茹でる間に天婦羅を揚げれば、天婦羅うどんさえも然して手間隙の掛かるものにあらず。無類のカレー好きなる私なれば、カレーうどんも大好物にして、また寿がきやの即席袋入麺「味噌煮込みうどん」のみ即席袋入麺ながらも日本にて食す逸品なれば、茹で時間が5分と即席麺にしては長けれど何しろ手軽故に食する事多し。個人的には大阪風のたるたるな茹で具合のうどんを好む故、茹で上がり加減に然程気を遣う必要もなく、前述の如く鍋焼きうどんの調理法を応用し、土鍋若しくは鍋焼きうどん鍋にて、具やつゆ諸共茹で上げれば、洗い物も最小限にて済ませ得る。これぞ一石二鳥流瞬殺うどん調理法の極意なり。

四十路も半ば近くとなれば、せめて食事のバランスなんぞ気遣わんとするは道理、されば「一日五十品目」には至らずとも、なるべく多岐に渡る食品を摂取せんと思うは当然、またこの先老いさらばえ、巡る季節を幾度迎え得るかと憂えばこそ、季節の旬なる食材は心残りにならぬように食い逃さじと、叶う限り食卓に並べんと心掛けるは必定。されど斯様に忙殺され調理にも食事にも要し得る時間が限られておれば、たかがうどんと云えども、拘りを以て調理に当たるべきと知る。
うどんの類いに於いて最も好物なる「きつねうどん(子供の頃は未だおっさんらが『けつねうろん』云うてたけど最近聞かへんな)」でさえ、自前で油揚げを煮る故、贅沢に2枚ぶち込むは言わずもがな、天かすや刻み葱のみならず、とろろ昆布を大量にぶち込めば、大いに豪華な気分を味わい得る。また薬膳のひとつにも数えらるる七味をぶち込めば、唐辛子,胡麻、山椒、陳皮、生姜、麻の実、青海苔等も同時に摂取叶い、これまた一石二鳥ならん。天かすは、うどん以外にもお好み焼きやらたこ焼きやらにも必需品にして、天婦羅を揚げし際に作り置き冷凍しておけば、天かす如きに無駄金を叩く必要もなく、何とも安上がりにして便利極まりなし。決して裕福なる家庭に育ちしにあらざれど、幼少の頃より「とろろ昆布は小倉屋山本」との母の拘りの下に育っておれば、25年前、名古屋にて一人暮らしを始めし折、近所のスーパーにて買い求めし格安とろろ昆布の不味さに衝撃を受けし経緯あれど、それも今は昔、斯くも格安のとろろ昆布さえ、うどんつゆに浮かべれば、つゆの味を豊穣にするには充分にして、況してとろろ昆布とは、ミネラルや食物繊維を多く含み中性脂肪上昇を抑制する作用もあると聞くや、ここは安価故にこそ豪快にぶち込み、いざ頂かん。 

私が、きつねうどんに次いで好むは「天婦羅うどん」なり。天婦羅と聞けば、手間隙が掛かりそうにて面倒臭く、また上手く揚げるはいと難しと思われがちなれど、如何に世の主婦に樂させんと製粉会社が凌ぎを削る昨今に於いては「コツのいらない天ぷら粉」やら「プロのコツ入り天ぷら粉」なんぞと云う便利な逸品あれば、今や然して手間の掛かる難儀な料理にあらず。何しろ最も面倒臭く難儀なるは、天婦羅粉の出来不出来にて揚がり具合の如何が問われる事にして、ここは安易と云われようが妥協と避難されようが、その余りある利便性に対する値段の妥当性を考慮すれば、これらの優れ物なる天ぷら粉を使わぬ手はなし。人生四十余年に於いて、嘗てはシェフを稼業にせし時期もあれど、己れの過去に由来する誇りや驕りなんぞ全く不毛にして、手間暇掛けずそれなりに美味なるものが拵えられれば充分と知る。
天婦羅うどんの中でも、最も好むは九州定番「ごぼ天うどん」なり。数年前に大分にて立寄りしうどん屋にて、その虜になりて以来、今や天婦羅うどんと云えばごぼ天と思う程にして、あの牛蒡の食感とうどんの食感双方から醸し出さるる絶妙なるコントラストこそ、まさに天婦羅うどんが辿り着くべき究極の境地に他ならぬ。そもそも無類の根菜好きにして、日頃から大根や牛蒡や人参や蓮根の類いを切らす事なければ,ごぼ天うどんの虜にならざる筈もなし。
うどんを茹でる間に、前述の天ぷら粉にて牛蒡を揚げれば、丁度うどんが茹で上がる頃合いにごぼ天も揚がる段取り故、即ちうどんを茹でる所要時間のみにて、ごぼ天うどんさえ拵え得るものなり。ごぼ天うどんと云えど,矢張りとろろ昆布や刻み葱や七味をぶち込む事に変わりなく、揚げたての天かすを添えるもまた一興、またうどんにごぼ天をぶち込めば、折角のサクサク感が損なわれる故、私はごぼ天を別盛りにし、食する際にうどんつゆに半分程浸し食するを好む。

山菜等も天婦羅にし添えれば、これまた季節感をも味わえる逸品となり、何とも贅沢なる気分さえ味わい得る。山奥に居を構えればこそか、先日も芹を大量に頂けば、おひたしのみならず天婦羅にもせんと思い立ち、芹の天婦羅うどんなんぞに舌鼓を打てり。他にもたらの芽や蕗の薹やウドの天婦羅うどんも大いに絶品なり。春先こそ山菜に舌鼓を打たんとは、如何にも素人の山暮らしの愉しみらしけれど、まさしく不便極まりなき山暮らし僅か四年余の素人なれば、それもまた許されたし。
勿論牛蒡や山菜以外にも、蓮根、南瓜、ミョウガ、人参、大葉、椎茸なんぞの天婦羅を添えるも大いに好物にして、食による季節感が失われつつある昨今なればこそ、四季折々の旬の食材を選ぶ事にて、食による季節感さえも愉しみ得れば、これもまた大いなる贅沢に他ならぬ。 

昨今の健康ブームに因りてか「ねばねば料理」なるがブームとか、そもそも日本人は「ねばねば」なる食感が大好きと思われれど、海外にて斯様な食感の食品なんぞほぼ皆無にして、成る程これこそ長寿大国日本を支えるひとつの由縁かもしれぬと、何気に納得さえし得るか。斯くなる私も例外にあらず、所謂ねばねば料理好きにして、当然うどんにさえ、納豆、オクラ、とろろ、めかぶ等をぶち込む始末。夏ならば、冷やしうどんにこれらねばねば食材各種をぶち込み食らう事も多けれど、厳寒たる山奥の冬ともなれば、矢張り温かなうどんに、これらねばねば食材各種と、更に生玉子をぶち込み、然ればとことん掻き混ぜ一気に食らうが大いに美味なり。兎に角ねばねば食材をつゆ共々とことん掻き混ぜ合わせる事が、この「ねばねばうどん」を美味しく頂く秘訣か。 

嘗て名古屋に二十年程居を構えておれば、名古屋名物「味噌煮込みうどん」も今やお気に入りなれど、有名なる山本屋総本家の味噌煮込みうどんとは、幾らごはんと漬物がお替わり自由とは云え法外なる値段にして、到底うどんの値段にあらず、また最早「麺のコシ」なんぞとは別次元かと思わざるを得ぬ激烈に強靭なる硬麺は、大阪のたるたるなうどんにて育ちし私に「これって未だ茹だってへんのちゃうん?」との疑問さえ抱かせし程、また基本的にかつおだし特有の主張し過ぎる風味を好まざる昆布だし派の私には、あの強烈なるかつおだし+八丁味噌の濃厚なる塩っぱさは、到底許されざる代物なれど、寿がきやの即席袋入麺「味噌煮込みうどん」を食せしを機に、名古屋に移りて十年目にして、漸く味噌煮込みうどんなるを食し得るに至れり。因みにもうひとつの名古屋名物きしめんに至っては、未だに苦手なる代物にして、最早我が余生に於いて二度と食す事なんぞあらざらん。
さてその寿がきやの即席袋入麺「味噌煮込みうどん」こそ、前述の通り、私が日本に於いて唯一食する即席袋入麺なり。そもそもラーメンが苦手な私の食生活に於いて、即席ラーメンを食するどころかラーメン屋なんぞへ赴くもほぼ皆無故、即席麺とは、カップ焼きそば(ソース味のみ)と、既に所謂ラーメンとは到底異なる次元の前衛カップ麺たる日清カレーヌードルなるカップ麺2種と、この寿がきやの即席袋入麺「味噌煮込みうどん」を指すものなり。嘗てこの寿がきやの即席袋入麺「味噌煮込みうどん」のオリジナル調理方法なんぞを紹介せし経緯あれど(人声天語第41回「バラエティー味噌煮込み」参照)斯く云う私も、「普通に」味噌煮込みうどんを拵え食するが常なり。「普通に」とは云え、寿がきや袋入麺のパッケージの写真の如く、かしわやら蒲鉾やら況してや海老天なんぞ入れる筈もなく、普段は干し椎茸と油揚げと玉子辺りの具に、天かすと刻み葱と七味をぶち込む程度なれど、時折トッピングをより贅沢にせんと思い立ち、何やら試みる事もあり。
先日も「地産地消」とばかり旬の明日香村産の水菜を以て、独り「鶏ハリハリ鍋」なんぞに興じれば、翌日はその鍋の具材の残りたるかしわと水菜を、味噌煮込みうどんに合わせんと思い立ちし次第。味噌煮込みうどんの濃い味に対し、水菜の爽やかなる苦みが見事に調和、水菜のシャキシャキ感が醸し出すうどんとの食感のコントラストも素晴らしく、この「ハリハリ味噌煮込みうどん」更には玉子もぶち込みし「親子ハリハリ味噌煮込みうどん」は、私の今冬の新メニューに加えられし。 

因みにかしわがない場合は、油揚げにて代用し「きつね鍋」宜しく、「きつね鍋味噌煮込みうどん」として食するもまた一興。そもそもかしわも油揚げも、味噌煮込みうどんの定番の具なれど、各々単体にて具の主役を務めるこのハリハリ味噌煮込みうどんやきつね鍋味噌煮込みうどんの方が、経済的にも安上がりにして二度愉しめる故、我々の如き貧乏人には有り難きかな。 

ごぼ天うどんに至福感を感ずる私なれば、勿論「ごぼ天味噌煮込みうどん」を試みぬ筈もなく、既に定番とさえなっており、当然の如くこの逸品も大いに美味なるは、今更説明の必要さえなし。 

この季節は、春の山菜天婦羅を添えし味噌煮込みうどんなんぞも、勿論趣きありて大いに絶品、味噌煮込みうどんの濃厚なる味と山菜の苦みが、何とも素晴らしきコントラストを醸し出すのみならず、苦みある山菜の後味を未だ堪能しつつ、そこへ味噌煮込みうどんを啜れば、山菜の苦みと味噌煮込みうどんの濃厚なる味が渾然一体となるその刹那こそ、この「山菜天婦羅味噌煮込みうどん」の醍醐味と宣いて憚らず。 

冬の定番メニューとして始終粕汁を拵える私は、具を全て食し切るや、その粕汁の残り汁に出汁を加えうどんつゆを拵え、天かすを添え「Wカスうどん」として食する事もしばしばにして(更にこれに油かすを添え「トリプルカスうどん」を拵えるも可能なれど、自宅にてわざわざ油かすを拵え所謂「かすうどん」を食す事なければ、未だ試せし経緯なし)また粕汁の残り汁を湯で伸ばし、寿がきや即席袋入麺味噌煮込みうどんをぶち込み、これを「味噌っカスうどん」として食する事もあり。 先日も粕汁の残り汁にてこの味噌っカスうどんを拵え、更に野菜天婦羅と大根おろしを添え「おろし天婦羅味噌っカスうどん」として食せり。矢張り天婦羅を味噌っカスうどんにぶち込むにあらず、別添えにし大根おろしにてさっぱり頂く塩梅なり。味噌っカスうどんは、酒粕の風味が後味に僅かに残る故、何とも上品な味わいなれど、通常の味噌煮込みうどん以上に、つゆが濃厚となる故、箸休めとして天婦羅を大根おろしにて頂けば、これまたその味や食感のみならず温度のコントラストさえも愉しみ得る贅沢さ。この写真を撮影せし折は、明日香産の水菜も添え、嗚呼、これぞ贅沢極まりなし。

されど斯様に保守的なるアレンジを施せし各種味噌煮込みうどんなんぞに満足し得る事なく、否が応にも何かしら前衛的なる逸品を拵えんとの衝動に駆らるるは、矢張り元シェフの哀しき性なるか。嘗て「キムチ味噌煮込みうどん」「胡麻味噌煮込みうどん」を紹介せし経緯あれど、矢張り名古屋名物なればこそと、同じく名古屋名物たる台湾ラーメンとの融合を試みんと思い付けば、果たしてこれ如何に。今や名古屋の新たなる名物として広く認知される台湾ラーメンとは、名古屋の台湾料理店「味仙」が発祥の逸品なり。激辛ラーメンとして知られる台湾ラーメンのポイントとは、そもそも激辛派の私にとっては「辛さ」にあらず「臭さ」にして、ニンニクとニラと唐辛子等と豚ミンチを炒めしあの具の臭さこそが、単にスープが辛いのみの激辛ラーメンとは一線を画する処か。味噌煮込みうどんを茹でる間に、中華鍋にてニンニクとニラと唐辛子と生姜と豚ミンチを炒め、出来上がりし味噌煮込みうどんの上に添えれば完成。味噌煮込みうどん本来の風味は、当然この強烈なる具の臭さにて失われておれど,何故味仙若しくは名古屋に犇めく台湾料理店が、台湾味噌ラーメンなんぞを新作メニューとして出さぬか不思議にさえ思える程に、味噌の濃厚なる味わいは激辛の具と見事に調和し、全く違和感もなく美味なり。新旧の名古屋名物が融合せしこの「台湾味噌煮込みうどん」果たして保守的な事で知られる名古屋人には如何なものか。 

近頃は愛知県以外に於いても、この寿がきやの即席袋入麺「味噌煮込みうどん」は売られておれば、是非一度お試しあれ。

さて無類のカレー好きなる私なれば、「カレーうどん」こそ私の好物の融合「カレー+うどん」と云う究極の逸品なり。私が外食としてうどんを食す際、最も多いと思われるは、きつねうどんかカレーうどんか。そもそも大阪にて食らううどんでさえ、些か塩っぱいと思わざるを得ぬ程に薄味なる私は、結果当たり外れの少ないカレーうどんを選択する事多く、何しろ周囲よりカレーの香りが漂って来れば、たとえきつねうどんと既に意を決しておれど、ついついカレーうどんを注文してしまう程、カレーうどんとはうどんの最終兵器に他ならん。
そもそもカレーうどんとは、つゆにカレー粉を溶きカレー風味にするか、カレールーを出汁にて伸ばしつゆにするか、斯様な代物に相違なければ、私のカレーうどん調理法も至って簡単至極。その調理法とは、その時の気分にて、前述の如き二通りありて、手前勝手に天一のラーメン宜しく「あっさり」「こってり」と名付けし次第。勿論「早く拵え得る」事が条件なれば、どちらの調理法にせよ10分以内にて完了する事こそ絶対条件なり。
つゆにカレー粉を溶きカレー風味にする「あっさり」に関しては、以前紹介せしカレー鍋ならぬ「鍋カレー」(第139回「2007年総まくり」参照)の応用に他ならず、鍋カレーより更に調理時間を短縮する為、肉類(私は大抵かしわを使用)を出汁にて煮立たせ、そこへ他の具(私の場合は大抵油揚げや白菜や白葱等)をぶち込み、粉末カレー粉(小麦粉が含まれておらぬもの)を溶き入れもうひと煮立ち、麺つゆにて味を整え、うどんをぶち込み煮えれば完成。冬ならば、鍋の具材の残りのキノコ類なんぞもぶち込み「マタンゴカレーうどん」として食せば、些か贅沢気分も味わえ大いに美味なり。そもそも私は「あんかけ」が苦手にして、カレーうどんのつゆも片栗粉にてとろみを付ける事を余り好まざればこその「あっさり」なり。因みに片栗粉にてとろみが付けられしカレーうどんは、手前勝手に「とろーり」と呼称するものなり。

一方「こってり」は、よりカレー然とせし重厚な味わいを求めんとする代物にして、カレーの残り若しくはレトルトカレーを温め、少量の湯で伸ばせし麺つゆを合わせ、それを茹で上がりしうどんにぶっ掛け、たっぷりの刻み葱を添えれば完成。更にお好みにて天かすと茹で玉子若しくは温泉玉子なんぞ添えれば、自ずから豪華さも増さん。更にカレーうどんと云えばごはんが必須と云う御仁には、玉子掛けごはんをお薦めする。これは大阪市立科学館界隈のカレーうどん屋「純情うどん堂島店」の玉子ライスのパクりなれど、この組み合わせは驚異的に美味なり。

コロッケうどんとカレーうどんの融合、即ち「コロッケカレーうどん」にすれば、かなりの重量感にて腹保ちも良し。個人的にこの場合のコロッケとは、パン粉が細かく薄めの衣が好みにして、中身もコンソメ味の、俗に「おやつコロッケ」等と称される代物なれど、これこそカレーうどんとの相性も良く美味と思しきものなり。東京等にて見受けられる所謂「コロッケうどん」なる代物は、コロッケフリークの私としては「コロッケがつゆに浸かっとったら、折角のサクサク感が台無しやんけ!」と、サクサクに揚げられしコロッケに対する羞辱に他ならず、これは同じく東京にてよく見受けられるカツ煮なる代物同様、まさしく揚げ物に対する冒涜なり。私のコロッケカレーうどんに於いては、レトルトカレーをベースにせし「こってり」なつゆなれば、コロッケがつゆに浸りて崩れる事もなく、あくまでもコロッケとして頂ける故、所謂コロッケうどんとは一線を画するものなり。またウスターソースを差せば、コロッケとカレーを繋ぐ味の鎹たる役目を果たしてくれれば、「うどんにソース?」との違和感も持たれるやもしれねど、そもそもカレーにソースは当然なれば然して掟破りでもあらじ。尚、激辛指向の御仁には、99ショップにて売られるハバネロソースを添える事をお薦めする。


今やすっかり定番となりつつある納豆カレーのアイデアを戴き「納豆カレーうどん」にすれば、納豆の粘りにより、カレーがうどんに絡み易くなる故、なかなか濃厚なる味わいを堪能し得る。天かすを添えれば、ねばねばとサクサクと云う全く異なる食感を同時愉しめ、これもまた納豆カレーならではの醍醐味なり。 

カレーライスに対しドライカレー在りて、うどんに於いては焼うどん在り、然ればカレー焼うどんも在りて然るべきか。斯くなる思いから拵えし「ドライカレーうどん」とは、まさしくドライカレーと焼うどんの調理方法の融合に他ならねば、そもそも「ドライカレーにはウスターソース」たる私の信条あれど、今回に関しては、味の調整は麺つゆに委ねしものにして、矢張り和風な仕上がりの方が美味なりしか。

ドライカレーうどんが在るならばと、更に前衛を目指せば、冷蔵庫に眠りし玉子とニラを以て「ニラ玉焼うどん」を拵えんと思い立ちし。そもそも料理なんぞとは、素材の組み合わせと調理方法の応用にて、幾らでも新たな代物やら逸品やらを拵え得るものにして、このニラ玉焼うどんも、ニラ玉とスパゲッティー・カルボナーラを焼うどんへ転化せしは明白なり。味の方は当然問題なけれども、ここまで前衛となれば、何やら海外ツアー時の苦心惨憺せし創作料理の数々を彷彿させられ、況してや2週間後には再びアメリカツアーへ出発する身なればこそ、何とも空しくさせられし事この上なし。折角のうどんを何故斯様な姿に調理せねばならぬのか、前衛としての飽くなき創作料理の追究なんぞ、私にとっては不毛以外の何ものでもなしか。これはまさしく音楽にも云い得れば「素晴らしい音楽家とは、即ち素晴らしい料理家でもある。」

番外として、先日近江八幡の酒遊館にてライヴを行いし後、酒遊館の西村さん宅へ投宿させて頂きし際、酒の肴にと拵えて頂きしスジ煮込みをうどんにぶっ掛ければ、これが驚愕の美味さにて大いに感激。これはいずれ挑戦してみたき逸品にして、男の料理の極みを是非とも会得せんと誓うものなり。

何より独身四十路男ともなれば、最早「独り」なるを苦にさえ感ずる事もなく、そもそも私は元来「独り」好きなればこそ、今やその「独り」を謳歌して然るべき有様なり。況してや人里離れし山奥に居を構えておれば、当然誰かが訪ねて来る筈もなく、人の話し声さえ聞こえる筈なく、況してや冬は虫や野鳥やらの鳴き声も皆無にして、安堵を覚える程に静寂なれば、宛ら月や星々の発する音さえ聞こえんか。「独り」の御供と云えばテレビならん。さりとてテレビ番組を観んとすれど、何しろ骨董品級の小型携帯白黒テレビにて、何とかUHF数局を受信し得る程度故、御陰で下衆なテレビの呪縛からも解放され、もう一台のカラーテレビは、屋根にアンテナを設置しておらねば、ビデオやDVDのモニター専用として利用するのみ。さて炬燵に入りビデオやDVDなんぞ観賞し始めれば、何やら酒の肴でも摘まんと思うは当然、なればこそ矢張りカセットコンロによる「ひとり炉端焼」こそ「独り」の醍醐味に他ならぬ。
所謂晩酌の如きなれど、普段は自宅にて酒を嗜まぬ私なれば、酒の肴なんぞと宣いながらも、実はほうじ茶の肴なり。先日は、スーパーにてホタテが捨て値同然にて売られておれば、たまには斯様な贅沢も良かろうと購入せり。この夜の肴はホタテの他に、かぶ、厚揚、椎茸、沢庵、オクラなり。ホタテは炙りし後、若干のポン酢を添えて頂けば、何とも美味にして充分に満足なり。 かぶを軽く炙ればその甘さは倍増、自家製味噌ダレを添えて頂けばこれまた美味。椎茸と厚揚も軽く炙り、こちらは生姜ポン酢にて頂きし。オクラはサッと茹でマヨネーズと七味を添え、沢庵と共に箸休めとして摘みしものなり。カセットコンロを利用してのひとり炉端とは、我ながら良き思い付きにして、鮭ハラス、子持ちししゃも、味醂干し各種、山芋、味噌ピーマン等を炙る事も多く、キノコ類のホイル焼等も手軽にして美味なり。

個人的にこの季節の旬として最も愉しみとするは、大の好物「かますご」なるか。かますごはサッと炙りて食すが一般的なれば、ホイル焼も絶品なれど、私はそのままワカメと共に酢の物として食するを最も好むものなり。されど年々値段が高騰して来ておれば、数年前まで1パック精々98円なりしが、昨年は198円、何と今年は298円なんぞと云う有様、気付けば3倍に値上がりし、貧乏人の私にとっては既においそれと食らえぬ高級魚と相成りて以来、格安スーパー等に於いて安価にて購入し得る場合のみに限られし禁断の愉しみと成り果てし。

豆腐類も大好物なれば勿論厚揚にも目がなく、特に最近は京都男前豆腐店製造の「厚揚げフジヤマ」が大の御贔屓なり。そもそも数年前、京都男前豆腐店の社長のルポルタージュをテレビにて観て以来、豆腐と云えばたとえ割高であれ京都男前豆腐店と決めており、何しろ最早芸術的とも云えるその美味さは、スーパー等に於いて量販される豆腐の革命に他ならず「幾ら美味しい豆腐を作っても、従来の豆腐はパッケージや名前が類似しているので結局お客さんに覚えてもらえない…だからまるで豆腐とは思えない変な形のパッケージと変な名前で売り始めた…自分達が作る豆腐には絶対自信持っているので、後はお客さんに買って貰うだけ…一度食べて貰えば絶対また買ってくれる筈」斯様なる社長の言葉に見事乗せられ、当時未だ奈良のスーパーの店頭にては然程お目に掛からざりし「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」を興味本位にて購入すれば「こ、こ、これって豆腐なんか?まるでクリームチーズ…ガクッ…」あまりの衝撃に気絶する程にして、Devid Allen来日の際にも、彼にお薦めの豆腐として紹介するや、そのあまりの美味さに感激、2パックを御土産として購入せし逸話さえあり。大の厚揚好きを自負する私は、自ら厚揚を揚げるまでに至る程に「美味い厚揚」を求めて止まねど、この「厚揚げフジヤマ」と出会いし以来、ひたすらこの逸品を食らい続ける有様。されどどうやらこの驚異的美味さに気付きし御仁も少なからず、近頃はスーパーに赴きても「厚揚げフジヤマ」の売り切れ続出、仕方なく他社の格安厚揚にて妥協せざるを得ぬ日もあり。嘗ての社長の言葉を証明するかの如く、豆腐界に革命を齎せりその奇抜な戦略を以て、今や界隈のスーパー何処に於いても見受けらるる程に支持される京都男前豆腐店の豆腐達、挙げ句は類似商品まで台頭する始末、それこそ如何に京都男前豆腐店の豆腐が美味なるかを証明するものなり。哀しくも「独り炉端焼」の写真を撮影せし夜は,この「厚揚げフジヤマ」が無情にも売り切れ。これを炙り、たっぷりの生姜と刻み葱を添え、ポン酢を僅かに垂らして食らえば一発昇天、富士の山頂をも越え、気分はすっかり極楽浄土なり。

独身四十路男たる私の愉しみなんぞ、分相応の範疇にて美食を求めんとの、斯くもささやか慎ましやかなものにして、されど最も贅沢たると思しき事は「独り」故の自由なり。食わせねばならぬ家族もおらねば、世帯主としての責任も皆無、誰彼に干渉される訳でもなく、全く以て気侭に人生を謳歌し得れば、これこそ人生最大の贅沢なり。勿論この贅沢と引き換えに失いしもの数知れねど、それは私が選びし由縁なれば、一点の悔いもなし。されどこの先老いさらばえし末、斯様な山奥にて万が一の事あれば「白骨遺体発見サル。独居老人孤独死カ?」との顛末間違いなからん。それもまた一興、我が人生に悔い残さねば、たとえ如何な死に様を晒せど一切問題なしと知る。

 

(2009/3/18)

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